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207.

「 ──── ちょい目ぇ離した隙に、何処行っとったん?」
「芝大。日本の学祭って、見たことなかったからね」
「まあでも、ええことや。外を一人で歩くのに、抵抗のうなってきたっちゅうことやろ?」
「前ほどはね」マスクを外し、フードと黒いキャップを脱ぎながら、は答える。「相変わらずじろじろ見られるけど」
「そらそうやろ。そないな格好しとったら、却って目立つやんか?」
「そう?」
「せや。見るからに不審者やで?」
「なるほど」彼は素っ気なく答え、助手席の窓からももよ通りを眺める。「でもそのお陰で、接触出来たけど」
「接触て?」
「例のカメラマンの人。結婚式に写真撮ってくれた」
「ああ、瞬くんか。めっちゃええ奴やろ?」
「まあね。普通にいい人だった。体調はかなり悪そうだったけど ──── 」

それから彼はしばらくの間、カーオーディオから流れているブラジリアン・ポップスに耳を傾ける。巧みなカッティングと伸びやかな歌声に、聴き覚えがあったからだ。

「 ──── これ、ガートくんでしょ?」
「せやけど。ようわかったな?」
「僕とデビューがほぼ一緒だったし、もの凄く流行ってたから。よく聴いてたよ」
「今聴いてもええやん?」
「いいね」彼は、素直に肯定する。「Sorteソルチも凄くいいけど、僕は初期作のファンだったから。こういう自然な歌声の方がしっくりくるよ」
「そこはまあ、好みやからな。ガートも20歳はたちなったし、試行錯誤してんねやろ」
「今のduoはアメリカン・ポップ寄りで、凄く自由に曲を作ってるんだなぁって。元々歌唱力ある人だけど、あれだけバリエーションある方だとは思わなかったし、ちょっと意外だったな」
「せやねん。正味しょうみな話、この路線で売ってええんか俺も不安やってんけど、これはこれでごっつ評判ええからな。結果オーライや」
「独特の空気感とガートくんの歌、ポルトガル語の響きが凄く心地いいからね。歌詞がわからなくても耳に入ってくるし、キャッチーじゃないのにちゃんとメロディーが残るし。むしろアコースティックライブメインの方が、新鮮かもしれないよ?」
「そうかもしらへんな。今日び絶滅危惧種やし ──── 」
「で、これから何処行くの?」
「赤坂に戻らんと。残業続きで、八神がブチれとったからな」
うしおさんも楽しい人だよね。僕、好きだよ」
「楽しいちゅうか、あらただのオタクやで?」
「知ってる。でもそこがいいんだ」
「ほんで、アノンはどないする?東麻布に降ろそか?」
「ああ、僕も赤坂まで行くよ。加賀美さんや汐さんにも会いたいし、練習もしたいし」
「せっかくリフォームして防音工事して、新しいグランド入れたったのに、結局うち来てまうんやな?それやったら前と変われへんやん?」
「居心地いいんだよ、坂口さんち。駅近だから賑やかだし、事務所にも近いし、猫山ねこやまさんの店にも歩いて行けるし」
「そやな。東麻布は住宅とマンションと、車屋と東京タワーぐらいしかあれへんし」
「あと、神社とかね。静かなのはいいけど、何だか殺風景で」
「何れ復帰したら、使うことになるやろ?」
「まあね。復帰出来たらの話だけど」彼は窓にこつんと頭を当て、軽く溜め息をついて目を閉じる。「その前に、信頼出来るメンバーを集めないとね」











15:47。

田淵のアドリブを聴いている最中、ジャケットの中でiPhoneが震えた。取り出して確認すると、和哉からLINEが届いている。


時任【銘さん、お疲れ様です!】
時任【すみません、外出中に】
銘【お疲れさま。大丈夫だよ】
銘【そろそろ帰ろうと思ってたんだ】
銘【何かあった?】
時任【今出演者の方とマネージャーさんいらして】
時任【銘さんと打ち合わせしたいとのことです】
銘【了解!】
銘【すぐに戻るって伝えてくれる?】
時任【承知しました】
時任【先にお飲み物お出ししておきます】
銘【そうだね。ありがとう!】


返信を終え、iPhoneをポケットにしまった銘は、大滝に耳打ちする。

「すみません、店に呼ばれたので。ここで失礼します」
「おう、またな!」ベテランの音響エンジニアは、愛想良く右手を振った。「薫によろしく言っといてくれ!」
「わかりました! ──── あ、拓海くんごめん。俺、先に戻るから」
「ああ、はい。じゃあ、僕も ──── 」
「拓海くんはいいよ、優もいるし。アンコールまで聴いておいで」
「えっ、いいんですか?」
「うん、大丈夫だよ。瞬くんは?」
「さっき撮影終えて、そちらで休んでらっしゃいます」

拓海が指差した先に、カメラバッグの傍で体育座りしている瞬の姿が見えた。膝の上に重ねた両腕に顔を伏せていて、明らかに様子がおかしい。

「あれ?大丈夫でしょうか?」
「何かヤバそうだな?来た時から、顔色が悪いような気はしてたんだ ──── 」

彼の元へ行こうとした時、背後からぐいと右腕を引かれた。何事かと思って振り向くと、ブルーのスクラブの上にジャケットを羽織った異母兄あにと目が合った。

「 ──── よう、ぽんこつ。珍しいな?」
「祥ちゃん!」銘はほっとして、彼の肩を抱く。「丁度いいとこに!」
「何だよ、丁度いいとこって ──── 」
「いいからちょっと来て!診てくれる?」
「診るって、何を?」彼は、露骨に嫌そうな顔をする。「当直とサビ残終わって、やっと解放されたとこなんだぞ?」
「疲れてるとこ申し訳ないけど、緊急事態だから。早く!」
「くっそ、圭介くんの演奏聴きに寄っただけなのに!」祥は諦めて、彼に続く。「声掛けるんじゃなかったぜ!」
「ほんと助かったよ。 ──── 瞬くん。瞬くん!」
「あっ、はい ──── 」
「おい、どうした?」祥はたちまち医師の顔に戻り、その傍にひざまずく。「体調悪いのか?」
「大丈夫です。木陰で休めば ──── 」
「かなりしんどそうだな?どれ、見せてみろ ──── 頻脈と熱発、おまけに脱水と貧血か。頭痛や吐き気は?」
「頭痛はありますが、吐き気は今のところ ──── 」
「すぐそこが附属病院だから」銘は心配そうに、瞬の顔を覗き込む。「ちゃんと診て貰った方がいいよ?」
「いや、ほんとに大丈夫です。すみません」

瞬が弱々しく返事をしたところに、ばたばたと駆け寄ってくる足音が聞こえた。振り返ると、美優と沙也加が笑顔で立っている。

「國原せーんせ!マスターさん、お疲れさまでーす!」
「明けなのに、まだいてはったんですねぇ!」
「おう、設楽したら糸井いとい!」祥は、2人を手招きする。「いいとこに!」
「へっ?」
「いいとこって何ですか?」
「ちょっと担架取って来てくれ。本館のロビーにあんだろ?」
「あっ、はーい!今すぐ!」
「ひょっとして急病人ですか? ──── って、うわっ!瞬さんやんか!」
「いや、いや!大丈夫です!おおごとになるので勘弁してください!」瞬は慌てて、立ち上がろうとする。「自力で、歩けますから ──── 」
「あ、ほら、ふらふらしてんじゃねえか!無理すんなって!」彼を支えながら、祥は呆れた顔をする。「しょうがねえ、俺に掴まれ。最短距離で連れてってやっから」
「ああ、ほんと、すみません…」
「祥ちゃんごめん、俺、店に戻らないといけないから」銘は顔の前で両手を合わせ、申し訳なさそうに言う。「あと、任せていい?」
「そう言われると思ったぜ」彼は溜め息をつき、瞬に肩を貸す。「とりあえず検査して、結果がわかり次第連絡入れるわ」
「うん、よろしく!瞬くんもごめん、ほったらかしで!」
「いえ、こちらこそすみません」彼は祥の助けを借りながら、ぐったりと項垂うなだれる。「ご迷惑おかけして ──── 」
「僕、付き添いますね」拓海は彼のカメラバッグを背負い、あとに続く。「圭介にはLINE入れておきます!」







後ろ髪を引かれる思いで店に戻ると、イシャーンとアダンは仲良くカウンターに並び、コーヒーを飲みながら談笑していた。銘はチャイムが鳴らないようそっとドアを押して中へ入り、優に目配せしたあと、2人の背中を両手で叩く。

「 ──── お久し振りです!」
「うわっ、何だよ!銘!」アダンはぱっと笑顔になり、握手をしてくる。「こちらこそご無沙汰!」
「久し振りだな!」イシャーンは髭面をほころばせ、ハグしてくる。「元気だったか?」
「はい、何とか生きてます」銘はカウンターの内側へ入り、シャツの袖を捲り上げてから、丁寧に手を洗う。「すみません、留守にしてて」
「圭介のステージだろ?」アダンは、微笑みつつ頷いた。「オレ達も遠くから、ちょっとだけ見て来たんだ」
「えっ、ほんとですか?」
「そう。お前がテントの傍にいるのも見てたよ」
「全然気が付かなかったです。圭介のアルト、よかったでしょう?」
「ああ、相変わらず上手いし、とにかく生音が綺麗でびっくりしたよ!去年とは段違いだな!」
「後半はテナーとソプラノに持ち替えてたけど、全部完璧に使いこなしてるしな」イシャーンは肩を竦め、首を横に振る。「トールに通訳して貰ったんだが、あいつまだ16歳だって?マジで末恐ろしいよ」
「そうなんですよ ──── あ、和哉くん、ありがとう!」銘は厨房に声をかけ、ロッカーから黒いエプロンを取り出す。「ところで、不破ふわさんは?」
「今のうちにコンビニ行ってくるって。日本へ戻るのは久し振りだから」
「明日の夜は香港だしな。人使いのあれえ事務所だよ」
「でも、羨ましいですよ。俺なんかもう二度と、海外遠征出来なくなっちゃいましたし ──── 」

話している最中、からんとドアチャイムの音がして、大きなビニール袋を提げた不破が戻ってきた。黒のフーディーにジーンズというラフな格好のマネージャーは、にこやかに挨拶する。

「ああどうも、銘くん!大変ご無沙汰してました!」
「いえ、こちらこそです。ひょっとしてスイーツですか?」
「そうそう!」彼はにこにこしながら、袋を見せる。「帰国した時の唯一の楽しみでね!どうだい?」
「オレはいいよ」アダンは、肩を竦めた。「あいにくダイエット中なんだ」
「俺も遠慮しとく。ソイクリームじゃないだろ、それ?」
「あっ、そうだった!じゃあ銘くん、バイトの子達に1つずつ分けてあげてくれる?いっぱい買ってきたから」
「ありがとうございます。のちほどいただきますね」
「ご馳走さまです!よろしければ、冷蔵庫にお入れしておきますよ?」厨房の片付けを終えた和哉は、カウンター越しに両手を差し出す。「お帰りの際にお渡ししますね」
「ほんとに?ありがとう!じゃ、わたしは今のうちにいただこうかな?」不破は1つだけシュークリームを取り出し、残りを袋ごと手渡した。「忘れないようにしないと!」
「今日は凄く楽しみです」銘はダスターを手に取り、カウンターの上を拭く。「リハには薫さんも来るそうなので ──── 」
「うん?」アダンは、怪訝な顔をする。「何でお前、エプロンつけてんだ?」
「何でって ──── 」銘はウォーターピッチャーに氷を足しながら、首を傾げる。「仕事ですから」
「はぁ?」
「銘。何言ってんだ?」
「あれ?」不破が、ぱちんと右手の指を鳴らす。「ひょっとして、伝わってなかったかな?」
「何の話です?」
「今日のスペシャル・ゲストの件。薫さんから訊いてない?」
「ああ、聞いてますよ。誰だか知らないけど ──── 」

そう言いかけて、銘は水道のレバーに触れた手をぴたりと止める。うん? ──── えっ?まさか?

恐る恐る顔を上げると、アダンとイシャーンは真顔で自分を指差し、不破はその隣で必死に笑いを堪えている。それを見た銘は、たちまち顔色を変えた。

「 ──── あの、まさかとは思いますが。今日のゲストって、ひょっとして俺ですか?」
「当たり前だろう?」アダンは頬杖をつき、彼を睨む。「他に誰がいるんだよ?」
「だから、リハ前に打ち合わせしようって話なんだけどな?」
「銘くんなら初見で大丈夫だよって、わたしは言ったんですけどね?」
「えっ、あの、ちょっと待って!さすがに無理ですよ!」銘は慌てて、首を横に振る。「だって、今回はアダンのプロモーション・ツアーで、オリジナルばかりでしょう?」
「お前なら余裕だよ、伝説レジェンド」彼は、くすくす笑っている。「オレは別にぶっつけ本番でもいいぞ?」
「いや、駄目ですって!だって俺、10月は殆ど弾いてない ──── 」

そこでまた、ドアチャイムが鳴る。銘が顔を上げると、ストライプシャツにチノパンツという格好の薫が、両手を広げて入ってくる。

「 ──── やあ、久し振り!2人共元気そうだな!」
「よお、薫!俺達は変わりないよ!」イシャーンは立ち上がり、ハグに応じる。「お前こそ、大丈夫か?」
「ああ、そうか!9月にstrokeやったんだったな?」
「そうなんだけど、幸い後遺症もなくて、この通りだよ。アダンは1年振りじゃないか?」
「そうそう。その時に今日のアポを取ったんだ」と、銘を見て。「まさか銘が、日本に帰ってるなんて思わなくてな?」
「 ──── 薫さん?」
「うん?」
「今日のライブなんですけど」銘は、シリアスな声で問う。「いつの間に、俺がベース弾くことになったんです?」
「あれ?」薫は、眉をひそめる。「俺、言わなかったっけ?」
「聞いてませんよ?」
「まあまあ、怒るなって!お前なら大丈夫だ!」彼は笑いながらカウンターの中に入り、銘のエプロンをほどく。「なっ?」
「いえ、怒ってはないですけど ──── 」
「えっ?今日は銘ちゃんがベース弾くの?」ラウンドから戻ってきた優が、嬉しそうに身を乗り出す。「じゃあ俺、夜の部もこのまま手伝うよ!」
「そうして貰えると助かるな」薫は、息子の頭をぽんぽん撫でる。「拓海はカメラマンとして圭介に同行するそうだし」
「へえ、たっくん凄いな!じゃあ今夜は、父さんとカズ兄と3人でやりますか!」
「そうだね。僕も助かるよ」和哉は笑いつつ、拭き終わった皿をカップボードにしまう。「引き続きよろしく!」
「いや、でも。俺、滅茶苦茶不安なんですけど?」
「うん?」シュークリームを頬張りながら、不破は首を傾げる。「わたしは全く心配してないですよ?」
「俺も俺も!」イシャーンは満面の笑顔で、右手を挙げる。「ていうかこの店に来て、お前に頼まない理由がねえじゃん!」
「オレもだよ!」アダンは、にっこりした。「めっちゃ楽しみにしてたんだからな!」



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