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206.

田町駅で下車して芝浦口へ出、上り専用エスカレーター脇の階段を下りて広々とした歩道に足を踏み入れた瞬間、立ち眩みのように視界が揺らぎ、ずきんと頭が痛んだ。彼は思わず足を止め、独り言つ。

「 ──── ああ、しまった。琳花リンカさんのペースに乗せられて、飲み過ぎたかな?」

通行人の邪魔にならないよう街路樹の傍へ寄り、木陰で何度か深呼吸したのちに、彼は残りの気力を振り絞り、なぎさ通りの交差点を直進し、新芝橋を渡る。歩いている最中、前方にある大学の構内から賑やかな音楽と大歓声が聞こえてきたので、演奏はとっくに始まっているのだろう。彼にとって悪いことに、そのタイミングで銘からLINEの返信が届く。


銘【瞬くん、お疲れさま】
銘【会場を入った右手にPA用のグリーンのテントがあるから、そのあたりにいるよ】
瞬【わかりました。すみません、お待たせして。もうすぐ到着します】


言いようのない焦りを覚えつつも、目の前に並んでいる若者達の背中を眺めているうちに、眩暈と頭痛はますます酷くなってくる。嘘だろ?勘弁してくれよ、こんな時に限って。今はそうでもないけど、日中はかなり暑かったから、熱中症にでも罹ったのか?
ももよ通りとの交差点に差し掛かった時、左手に自販機が2台並んでいるのが目に入った。彼はふらふらとそこへ行き、スマートフォンを取り出したが、翳す場所が何処にも見当たらない。

「あ、なるほど。現金だけの奴か」

溜め息をつきながら財布を取り出し、ファスナーを開けて指を突っ込んだ拍子に、小銭が幾つか地面にこぼれ、微かな金属音を立ててはじけた。瞬はまたひとつ溜め息をつき、硬貨を探すために視線を巡らしたものの、上手く焦点が合わせられない。自販機に手をついてしゃがみ込もうとした時、白く細い指先がさっと視界を掠め、軽やかにそれを拾い上げるのが見えた。ゆっくりと顔を上げると、いつの間に現れたのか、目の前には黒いマスクを着けた少年が立っていて、右掌に100円硬貨を2枚乗せ、何も言わずに、自分の方へと差し出してくる。ブラックジーンズに同色のエアマックス、純白のフーディーに黒いキャップ、首筋に流れる艶やかな金髪、漆黒のサングラス越しに見える大きな瞳に瞬は束の間見惚れたが、すぐにはっと我に返り、礼を言う。

「 ──── あっ、すみません。ありがとうございます」
「大丈夫?」は、手にしていた小銭をそのまま、自販機に投入する。「さっきからずっと、ぼーっとしてるけど」
「えっ?」
「熱。あると思うよ」

やや掠れた甘やかな美声を耳にしたのと同時に、少年の細い指と乾いた掌が汗ばんだ額に躊躇なく当てられ、その冷やりとした感触に瞬は何故か安堵を覚え、たちまち癒されてしまう。一体何者なんだろう、この子は?声を聞いてるだけで何だか頭がふわふわしてくるし、初めて会った筈なのに、昔から知っているような既視感がある。上手く説明出来ないけど、凄く、不思議な感じだ ────


「 ──── ほら。やっぱり熱い」

咎めるようにそう言うと、少年は瞬の額から手を離して自販機の取り出し口に突っ込み、アクエリアスのペットボトルを彼に手渡し、それから釣り銭を握らせる。

「今日は日差しも強いし、人も多いし。無理しない方がいいよ」
「あ、ありがとう」

何で俺が買おうとしたものがわかったんだ?と、ポケットに小銭をしまいながら瞬は不思議に思ったが、その理由を訊いてはいけないような気がした。少年は軽く首を傾げたあと、キャップの上にフードを被せ、こぼれた金髪を首の後ろに無造作に押し込み、両耳からAirPodsを外してポケットに突っ込んでから、くるりと背を向ける。それを見た瞬は思わず、声を掛けてしまう。

「 ──── あ、あの!芝大の野外ステージって、どう行ったらいいんだろう?」

少年は立ち止まって振り返り、瞬とあらためて視線を合わせ、0.5秒ほど考えたあと、素っ気なく答える。

「こっち」
「あ、ごめん。ありがとう」


一気に飲み干した空のペットボトルを手に、瞬は彼のあとに続く。身長は自分より少し低いくらいだが、その肢体は痛々しいほど細く、それでいて絶妙に均整が取れている。首都圏の人間らしいせかせかとした早足、黒いサングラスとマスク、目深に被ったキャップでさえも隠し切れないオーラと美貌に、すれ違う人々が皆釘付けになっているのがわかるが、彼は一切頓着する様子もなく堂々と正門を潜り、右手にある緑地の方を指差した。

「本館の裏からも行けるけど、そこを斜めに突っ切った方が早いよ」
「わかった」瞬は、試しに訊いてみる。「ええと ──── 君も、学祭に来たの?」
「いや。散歩してただけ」彼は平坦な声で答え、フーディーのポケットに両手を突っ込む。「じゃ。お大事に」
「あ、うん。ありがとう、いろいろ」


親切な少年と別れたあと、瞬は言われた通り芝生を斜めに突っ切り、人を掻き分けてグリーンのテントを目指す。水分を補給したせいか、それとも名も知らぬ少年から受けたヒーリングのお陰か、頭痛も眩暈も和らいではいたが、まだ頭はまともに回りそうにない。フードの奥に隠すように押し込めた金髪と男性にしてはやや高い声、クリアな滑舌と港区ネイティヴらしきノーブルな日本語の発音が、彼をますます混乱させていた。職業柄モデルや芸能人は散々見てきたし、美女も美男も大勢撮ってきたけれど、あそこまで完璧な美形は生まれて初めて見たよ。世の中にはとんでもなく綺麗な男の子がいるものなんだなあってついつい見惚れてしまったけど、ひょっとしたらあれは女の子だったのかな?背は高いけど肌は作りものみたいに艶やかで、声変わり前の中学生に見えないこともないし、見た目も服装も話し方も恐ろしく中性的だから、どっちと言われても納得できるよ。
何れにせよ、あの子は俺の知ってる誰かに似てる。でも、それが誰なのかが思い出せないんだ ──── 銘さん?まさか。奏くん?いや、違う。やや気怠げな声とクールな外見はみーちゃんに、穏やかな話し方は良さんに似てるけど、どちらも違う。でも、俺は確かに会ったことがあるんだよ。ああいう雰囲気の人に。しかも、ごく最近 ────







人混みを掻き分けてテントが見えた頃、バラードのイントロが始まった。ようやく銘の姿を捉え、ややほっとしてステージへ視線を向けたその時、電子ピアノの譜面台に置かれた楽譜が飛ばされ、ステージ上に散乱するのが見えた。緊迫した空気が走る中、圭介は微笑みつつドラムとギター、ベースにサインを送り、落ちた譜面を右手で拾い上げて譜面台に戻し、ピアノの伴奏をバックに朗々とアルトサックスを奏で、悠々とステージの中央へ戻る。しんと静まり返った客席越しに、やや強まった風が木立を揺らす音と2人の演奏を耳にしながら、瞬は銘の左隣に寄り添い、小さく会釈する。気付いた銘は微笑んで、彼に耳打ちする。

「ああ、やっと来たね。お疲れさま」
「お疲れさまです。すみません、遅くなって ──── 」
「 ──── あれ?」
「はい?」
「ひょっとして、何処かで飲んできた?」
「ああ、はい。ちょっと付き合わされて」
「なるほどね」銘は悪戯っぽく笑い、彼の目を覗き込む。「そういうことか」
「すみません、こんな時に」瞬は小声で謝り、周囲を見回す。「ええと、主催者の方はどちらでしょう?」
「ステージ袖に紫色のシャツ着た子がいるでしょう?彼がジャズ研の副部長の田淵くん」
「わかりました」瞬は顔を赤らめ、頷いた。「ちょっと、撮影許可貰ってきます」
「うん。じゃ、またあとで」



指示された場所にはすでに拓海がいて、酷く真剣な表情で、ステージにカメラを向けている。瞬はそれとおぼしき青年の傍へ寄り、声を掛ける。

「 ──── 演奏中すみません。田淵くんですか?」
「あ、そうです!ひょっとして、十河そごうさんですか?」
「はい。ちょっと事情あって槙野まきのになったんですが、よろしくお願いします」瞬は財布から新しい名刺を取り出し、彼に手渡す。「あとでデータ差し上げますんで、ライブの様子、撮影させていただいてもいいでしょうか?」
「ああ、勿論です!てか、光栄です!拓海くんもずっと撮りまくってますから、どうぞ遠慮なく!」
「ありがとうございます」彼はカメラバッグを下ろし、ミラーレスを取り出す。「じゃあ早速、撮らせていただきます」

瞬の声に気付いて振り返った拓海は、嬉しそうに手を振ってくる。瞬は右手を挙げてそれに応え、手際よく望遠レンズをセットする。その間にも演奏はじわじわと盛り上がり、これまで一度も聴いたことのない曲なのに、何故か鼻の奥が痛くなり、今にも涙が溢れそうになる。いや、参ったな ──── 圭介くんはテナーをメインにしてる人なのに、アルトも本当に上手いんだ。銘さんのベースと同じで、心の一番深い場所にダイレクトに飛び込んで、記憶を揺り動かしてくる。こういうのを、profundamente comovidoって言うんだろうか?






ドラマチックなバラードの最後の1音が静かな余韻を残して宙に消えたあと、数秒のタイムラグを経て、会場中から盛大な拍手と歓声が沸いた。銘は観客と一緒に拍手をしながら周辺を見渡し、それからあらためて、ステージの中央に立つ少年の勇姿を感慨深く眺めた。ああ、やっぱり圭介は凄いな。段違いだ。小樽で聴いた時も驚くほど成長していたけれど、あれからさらに進化してるよ。だから、圭介のサックスに惚れ込んだみさおさんが、高校なんか辞めて今すぐイタリアに来いって誘った理由が、その時の気持ちが、俺には痛いほどわかるんだ。10代のこの時期は驚くほど体力があって、思考も柔軟で、吸収も早くて、何もかもが楽しいと感じられて、自分でも信じられないくらいの速さで上達していけるから。
環境も経験も、見るもの触れるものの全てが自分の血となり、肉となっていくあの感覚を、どうせなら世界の舞台の上で存分に味わわせてやりたいと、操さんは考えたんだろう。でも、圭介はそんなことはもうとっくに知っていて、知った上で、世界を目指すならまずは日本でトップにならなければと思っている筈だ。でなければ、幾ら早熟の天才とはいえ、デビューして間もない彼に、こんな演奏が出来る訳がない ────





ステージ正面のパイプ椅子に志保しほと並んで座っていた花音かのんは、手の感覚がなくなるほど拍手を続けながら、潤んだ目を彼に向け、心の中で語りかける。いや、凄い ──── ほんとに凄いよ、圭介は。この30分間、わたし、何回泣かされたかわからない。中学生の頃から凄くて、プロデビューしてからますます上手くなっていったけど。今はもう、別の人みたいだよ?

日が落ちかけたステージの上、視界一面に広がる聴衆をざっと見渡した圭介は、指先で涙を拭っている花音にしっかりと視線を合わせ、ちゃんと見てたよと言わんばかりに微笑んだ。それから彼はアルトサックスを掲げるようにして一礼し、脇に置かれたマイクを手に取り、慣れた口調でMCを挟む。

「 ──── ありがとうございます。只今の曲は伊万里いまり喜記ききさんからのリクエストで、Get Hereでした。素晴らしいピアニストに、今一度、拍手をお願いします!」

電子ピアノの後ろに置かれた椅子から立ち上がり、ぺこりと頭を下げる彼女に、再び大きな拍手が送られる。圭介はそれが収まるのを待ち、引き続きメンバーを紹介していく。

「本日のドラムスは氷川ひかわ龍治りゅうじさん、ギターは新沢にいざわさくさん。ここまでの皆さんは、3年生です」圭介は振り返り、後方のベーシストに立ち上がるよう促す。「ベースは、魚住うおずみ亮人りょうとさん!このバンドでは唯一の2年生です!」

圭介がそうアナウンスすると、会場からおおーっ!と驚きの声が上がる。称賛の拍手が鳴り止んでから、この日の主役はようやく、自らの名を告げる。

「えー、それで、俺なんですけど。今回初めて芝大祭のゲストとして、このステージに立たせていただきました。サックスの内藤ないとう圭介けいすけです!」

圭介が再び頭を下げると、いいぞー!と、聞き慣れた声がした。彼の晴れ舞台を見るために、Riotの常連達も皆、この場に駆け付けてくれていたようだ。

「ありがとうございます!ええ、さて、このあとのステージなんですが、3年生と4年生の皆さんに参加していただいて ──── 」
「ちょっと、サックスの子!あんたも芝大なの?」
「あっ、いえ、違います。俺はですね ──── 」
「ねーねー、圭介くんは何処の大学なん?」
「ひょっとして1年生か?」

不思議に思っていたのか、客席から続々と声が上がる。圭介はにっこりと微笑みながら、その質問に答える。

「ああ、ええと。俺は16歳、高1です!」
「 ──── はっ?」
「マジで?」
「嘘だろ?」
「はい~?」
「ご冗談!そんだけの上手いのに?」
「大学生じゃなく、高校生なのかよ!」
「実は、そうなんです!」圭介は笑顔で頷き、ステージの右手を指差す。「ちなみに、田町駅の近くにある某高校に通ってます!」
「えっ?」
「ってことは、東工大附?」
「何だよお前、バリ地元じゃん!」
「そうなんですよ。ご存知の方もちらほら見えますが、生まれも育ちも芝浦なので。今後ともよろしくお願いします!」
「何を今更!」
「とっくに知ってるよ!」
「いつの間にこんなに大きくなったのよ、あんた!」
「いや、それは皆さまのお陰で ──── 」
「圭介くん!時間押してるよ!」トロンボーンを抱えた田淵が、ステージ下から叫ぶ。「早く紹介して!」
「うわぁ、そうでした!すみません!」彼は肩を竦め、軽く咳払いする。「うっ、うん! ──── ではここからは、副部長で3年生の田淵たぶちまさるさんと、昨年度の部長で4年生の澤田さわだ流玖るーくさんに参加していただいて。アルト、テナー、トロンボーンの3管で、2曲お届けしますね!」
「ちょっ、圭介くん!下の名前言わないで!」階段を上がっていた澤田は、慌てた様子で両手をばたつかせる。「俺、キラキラネームだから!めっちゃ恥ずかしいんだって!」



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