「見る力」について

私たちは一般に「見る」ということをさも容易な行為のように考えています。しかし、本当に「見る」ということは、そんなに容易なことなのでしょうか。

ここで一つ、皆さんの「見る力」を測るために簡単な、そして大変有名なエクササイズをやってみましょう。知っているよ、という人はスキップしてもらって結構です。

エクササイズの内容は

6人の人物によるバスケットボールのパス回しを見て、うち3人の白いシャツを着た人物が出したパスの合計を数える

というものです。

それではどうぞ!

この動画は「Selective Attention=選択的注意」に関するハーバード大学の実験です。皆さんは通過するゴリラの存在に気づけたでしょうか?

統計によると、成人のおよそ半分は、画面中央を横切って胸を叩くゴリラの存在に気づくことができません。ちなみに、エクササイズの内容を示さず、ただ単に「この動画を見てください」とお願いすると、ほぼ100%の人がゴリラの通過に気付きます。これはつまり「パスの回数を数える」ということを意識化した瞬間に、私たちの「見る力」に大きな変容が起きているということです。

ワークショップでこのエクササイズをやって、種明かしをしないままに参加者同士で話し合ってもらうと大変面白いことが起きます。

というのも「見えている人」からすると、「あれほど明確に横切っているので見えていないわけがない」と思っている一方で、そもそも「見えていない人」はゴリラの存在すら認識していないわけですから、相手から「ゴリラが横切りましたよね?」と言われても「はあ?こいつ何を言ってるんだ?」という反応しかしようがないわけで、全く会話が噛み合わないわけです。

実は世の中でもこういうことは起きていると思うんですね。「見えている人」は「他の人にも見えている」という前提でコミュニケーションするわけですが、「見えていない人」にとっては、それは存在しないのと同じですから、両者によるコミュニケーションはまったく噛み合いません。極端に言えば、両者は全く違う世界に生きているのです。

この実験は、私たちが何気ないことだと感じている「見る」という行為が、実はそれほど簡単な営みではないのだ、ということを感じさせてくれます。

脳は「見るシステム」を使い分けている

なぜ多くの人は目の前を横切るゴリラの存在に気づくことができないのか?私たちの脳は、何かを「見る」とき、三つのシステムを使い分けていることが脳科学の研究から明らかになっています。

上図は、私たちがどのように「注意」を用いているかを説明している図です。

私たちがぼんやりとしている時、脳は左側にあるデフォルト・モード・ネットワークを活用している状態にあります。デフォルト・モード・ネットワークは「脳のアイドリング状態」とも言われますが、このとき注意は「自分の外側の広い範囲」に向けられています。

一方で、私たちがなにかの対象に対して注意を集中しているとき、脳は右側にあるセントラル・エグゼクティブ・ネットワークを活用している状態にあります。

図に示している通り、これらの二つのシステムの活動量は逆相関の関係にあり、どちらかの活動量が増加すると、どちらかの活動量が減少するという関係にあります。

先に示した、バスケットボールのパスの回数を数えるというエクササイズでは、皆さんのセントラル・エグゼクティブ・ネットワークが起動したことによって、注意の対象が狭い範囲に向けられた結果、画面を横切るゴリラに気づくことができなかった、というわけです。

何か特定のものに注意を集中しているとき、対象以外の領域で起きていることに気づく力は、著しく減退してしまうということです。

注意対象以外の変化に気づけるか?

ではこれらの事実は私たちにどのような洞察を与えてくれるでしょうか。

私たちは通常、自分たちが関わるビジネスにおいて、何らかの評価指標を設定し、それをモニターするということを日常的に行っています。

経営者であれば株価を、営業責任者であれば売上を、購買責任者であればコストといった指標について目標値を定め、これが計画的に達成できているかどうかを日々管理していくということをしていくのが、いわゆるホワイトカラーと呼ばれる人々の仕事だということになります。これらの指標は今日、KPI=Key Performance Indicatorと呼ばれるもので、科学的経営においては必須のものとされています。

ここまでの説明を読めばもうお分かりでしょう。そう、ビジネスにおいて誰もが用いているKPIによる管理というのは、脳にセントラル・エグゼクティブ・ネットワークの活用を求めるということです。

しかし、先に説明した通り、セントラル・エグゼクティブ・ネットワークを強く働かせることは、逆にデフォルト・モード・ネットワークの活用を阻害することになります。

デフォルト・モード・ネットワークは「外側の広い対象」に注意を向けるシステムですから、これが阻害されるということは、「予め注意を向けるべきだと考えている対象以外のところで、大きな変化が起きたとき、その変化に気づけない可能性が高い」ということを意味しています。

もちろん、そのような大変化がほとんど起きないという、安定的な社会であれば、それはそれで構わないということになります。しかし、今日の世界はVUCA、つまりV=Volatile=変動的で、U=Uncertain=不確実で、C=Complex=複雑で、A=Ambiguity=曖昧な世界となっています。

これはつまり、いつどのような変化が起きるか、まったく予測がつかない世界になっている、ということです。このような世界において、従前に決められた指標を官僚的に管理しているだけで、大きな変化の予兆を「見られない」ということが、どのように大きなリスクを孕むことになるかは容易に想像ができます。

「アタマが良くなる」とはどういうことか?

さらに考察を重ねましょう。

ここまで「見る」という能力は容易に毀損されてしまうということを確認したわけですが、「見る力」は知的生産性にも大きく影響します。

端的に言えば

見る能力の低い人は、どんなに論理思考やプレゼンテーションに優れていても、高い知的生産性を発揮することはできない

ということです。

これはそもそも「アタマが良い」というのは、どういうことか?という問いに関わる問題です。

一般に「アタマが良くなる」ということを考えると「論理思考」やら「仮説思考」やらといった、いわゆる「思考法」に論点が集中しがちです。本屋さんに行くとそういう本はたくさん並んでいますね。

一方で、そういった本が並んでいる棚の隣を見てみると「話し方」やら「書き方」といったテーマの本、つまり「アウトプットの方法」に関する本もまたごまんと並んでいます。

しかし、どうもおかしいな、と思いませんか?

知的生産性が上がるというのは、「知的生産のスループット」が向上するということに他なりません。「知的生産」もまた一つの生産ですから、その全体プロセスは

  1. インプット=情報の入力

  2. プロセッシング=情報の処理

  3. アウトプット=情報の出力

の三つからなるわけですが、世の中にある「知的生産」に関する方法論は、このうちの「プロセッシング=情報の処理」と「アウトプット=情報の出力」の二つにフォーカスしており、肝心かなめの「インプット」に関する方法論がまったく欠けているのです。

これを工場に例えてみれば、インバウンド物流が欠損していて資材が運び込まれない工場で、ひたすらに生産効率を高め、アウトバウンド物流を整備しているだけということになりますから、これでは知的生産性など向上するわけがありません。

あ、ここでもしかしたら「読書術」「勉強術」などは、この「インプット」に該当するのではないか?と思われた方もおられるかも知れません。確かに、読書や勉強というのは一種のインプットではあるのですが、これらは総じて二次情報、つまり「すでに誰かの手を経ている情報」で、自分自身によって得られた情報、一次情報ではないというのが問題になります。

何が問題かというと、二次情報というのは「すでにみんなが知っている情報」のことですから、差別化が難しいのです。

プロセッシングとアウトプットで差別化するのは難しい

知的生産物においてもまた差別化は非常に重要な論点となります。売り物なわけですからね。では知的生産の全体プロセスのうち「差別化のポイント」はどこにあるか?

結論から言えば「プロセッシング=情報処理」と「アウトプット=情報の出力」で差別化することは非常に難しい。

書店に並んでいる本のタイトルなどを見ていて感じるのですが、どうも世の中の人たちは、マッキンゼーやBCGに集まるような人たちはとてもアタマがよく、何か特別なプロセッシング=情報処理の能力を持っている、といった幻想を持っているようなのですが、そのようなイメージは全くの誤りで、ああった会社にいる人はほとんど「普通の人」です。

コンサルティング会社はもちろん、知的生産の能力において市場で競争しているわけですが、では何が競争優位性を生み出しているかというと、カギは「プロセッシング=情報の処理」でもなければ「アウトプット=情報の出力」でもありません。

なぜかというと、そこそこアタマの良い人たちが集まっている集団の中で、この二つで「頭抜ける」ことは死ぬほど難しいからです。

もうわかりますね。知的生産の競争において差別化の鍵は、なんといっても「インプット=情報の入力」にあるのです。だからこそ「見る力」がとても重要なんですね。

衝撃的な想い出

見る力の弱い人は、どんなに処理能力に優れていたとしても、ユニークな知的成果を生み出すことはできません。この点について、私には衝撃的な思い出があります。

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