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俺は自由でいたかった

ヒラギノ游ゴさんによる、言語学者・中村桃子さんのインタビューを読んだ。

小学校6年生〜中学1年生くらいのとき、友だちの、女の子たちの間で自分のことを「俺」とか「僕」と呼ぶのが流行った。当時わたしは典型的な(いわゆる教室ヒエラルキーの最下層であり)(美術部と吹奏楽部で構成されるような)「オタクっぽい女子グループ」に属していたため、当時(2ch全盛期だった)のアンダーグラウンドカルチャーの煽りをびゅうびゅうに受けていたところもあるとは思うんだけど。

でも、いま思えば、あのころたしかに「女」から逃げたかった。制服でスカートを指定されたあのくらいから、わたしは自分が「女」に指定されることがしんどくなった。なぜ女だけが痛い思いをしなければならないのか。なぜ女だけが別室で説教みたいな”性教育”をされなければならないのか。なぜ「女の子だから」門限があるのか。なぜ男の子と遊んではいけないのか。なぜわたしを「私」と呼ばなければいけないのか。なぜ。なぜ。なぜ。

なぜか理不尽な気持ちが募った。わたしは自分の意に反するベルトコンベアに乗せられている感じがしていた。スカートを履かされ、ブラジャーを着けさせられ、性教育を施され、乱暴な言葉遣いをやめさせられ、男に愛想を振りまいてはいけない、貞操は美徳と教えられ、そういうことをひとつひとつプログラミングされていくうちに、いつか商品みたいに理想的な「女」が完成するのだと思っていた。

その年頃の、女の子が女になる時期ってすごく微妙なバランスなんですよね。だから、それぞれに異なったさまざまな理由がありうると思います。
男の人はずっとパンツ1枚だけど、女の人は胸が大きくなってきたらブラジャーして、生理が始まればサニタリーショーツや生理用品を使うようになって、働きに出ればストッキング穿くようになって、どんどん変身していくんですよね。それを1つずつ受け入れていくわけです。そのどこかの段階で違和感を覚えるのはとてもよくわかります。女になっていくのは楽しみなことでもあるんだけど、性の対象物になるっていうリスクを背負わされることでもある。
引用元

上記記事のこの部分を読んだとき、わたしが長年感じてきたモヤモヤがものすごくクリアに言い当てられている感じがした。そう。そうなんですよ。女になることをひとつずつ受け入れていくのがしんどかった。あのベルトコンベアから飛び降りたかった。

たしかに「俺」とか「僕」という一人称は、ささやかな抵抗だった。気分だけでも男の子になれるのは楽しかったし、それが許されるコミュニティでは性別を気にしないでいられた。俺でいる間はきれいな女の子でいる必要がなかった。俺は言葉遣いが多少悪くてもよかった。うるせえよ、とかおもしれー、とか言うのに「私」って一人称は明らかに違和感があった。ちょっとした下ネタを言って笑い合うこともできた(これについては男性の世界にもいろいろあるんだと思うけど、下ネタを言うなんて言語道断だった「私たち」のイメージからすると、最低限、そういうことは男の気分で話す必要があったように思う)。

わたしは身体は女性だ。性自認もたぶん。男性が好きだ。ごくごく普通の女性をしていると思う。でも、正直なところ「わたし」という一人称には未だにまったく納得いってない。できることなら「俺」か「僕」がいい。「私」ってなんか気持ち悪い。だからとりあえずひらがなの「わたし」をずっと使っているけれど、「わたし」だってけっこう気持ち悪い。

しかしながら、悲しいかな女性が男性の一人称をつかうとしばしば「痛いヤツ」だとみなされる(思えば、男性は「私」も使うのに変だよね)。「俺女」とか「僕っ娘」とかいろいろ揶揄もされてきたと思う。これも中学生くらいのころ、たぶんケータイ小説が売れたあたりに、ちょっとだけ「あたし」とか「アタシ」という一人称が流行った。わたしは「わたし」よりも「あたし」のほうがちょっとフラットな感じがして好きだったんだけど、メールにいつも「あたし」と使っていたらある男の子に「お前のそういうとこがキモい」って言われたことがあって、それから使えなくなった。
わたしは私じゃないといけないんですか。

ふしぎなもので、わたしはたぶん女だと思うけど、一人称は「俺」だったあのころがいちばんしっくりきていると思う。わたしの中身はいったいなんなのだろう。いまでも正しい「女」になれているのかわからない。

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