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87歳父の胸のうちから思うこと

私の父

私の父は一言でいうとよくしゃべる人だ。
わたしが幼かったころ、銀行マンだった父は、朝起きるともういないし夜も子供が起きている時間には帰ってこなかったせいで、私にとっては「たまに会う怖そうな人」だった。
当時はまだ週休1日の時代だったが、貴重な休みの日曜日でさえ父は和室にこもって仕事をしていた。
薄く隙間をあけて様子をうかがうと、濛々としたたばこの煙の向こうにぼんやりと父の背中が見えたものだ。
私は怖くてそーっと音をたてないように、慎重にふすまを閉めた。

私が成長するにつれ、父は職場で昇進し家でもよく母に向かって仕事の話をしていた。
といっても父の話し方は会話というより、いつも一方的で機関銃のようだった。
そんな父だったが、父の話は面白い時もあり、リタイアしてからはよく話をするようにもなった。子供の頃怖くて話したことがない父と話ができるようになった自分も年を取ったんだなと思った。


現在の父

現在父は87歳。
「頭の中にそろばんが入ってるんや」と言う通り、10桁の暗算も瞬時にこなすほど頭はさえわたっているし、健康状態にも問題はない。
今年の夏も大ファンの阪神タイガースの試合を涼しい部屋で楽しんでいた。
たまに会いに行くと、相変わらず大きな声でタイガースの話からはじまって、自分の銀行員時代の武勇伝、戦時中の少年時代の話まで耳タコの私たちに向かってしゃべりまくっていたのだが・・・・


無口な父

いつも元気だった87歳のおじいちゃんが、ここ数日すっかり落ち込んでいるらしい。
ほとんど話もせず、ふさぎ込んでいるようなのだ。
母に理由を聞いて、なるほどと合点がいった。

父には銀行の現役時代から仲良く付き合っている人生の同志とも呼べる友人が3人いた。
1人は、もう20年ほど前に亡くなったが残った3人はつい最近まで電話でよく会話していたそうだ。
ところが、最近その二人が相次いで鬼籍に入ってしまったのだ。


心中察するにあまりある・・・・

父の心中は、きかずとも想像できる。

寂しいだろう。
不安だろう。
いつも元気な父の姿が当たり前だった私は、日ごろのありがたさを痛感した。
87歳。
いくら健康に問題はないといっても、やはり不安な毎日だろう。
この年齢ともなれば、いつ何が起こっても不思議はない。現に、つい最近まで元気におしゃべりしていた二人があっけなく逝ってしまったのだから。

父だけではない。
長生きしているご老人を見ると「長生きできて幸せだよね」「あんなふうに長生きできるかな」なんて思ってしまう。
でも実際年を取れば、いやがおうにも自分の「死」を間近に感じることも増えるはず。
まして、ともに同じ時代を生きてきて仲間が亡くなれば、その寂しさはどれほどのものだろう。


長生きという試練

長生きしたいな、と漠然と思っている人は多いだろう。
今も順調に日本人の平均寿命は延び続けている。
これは単純に嬉しいニュースだともいいきれない。

長生きは「試練」という側面も、絶対にあるはずだ。
子供や孫がいるなら、その成長をずっと見ていたいと思うかもしれない。
もう少し彼らとともに「生きていたい」とも思うだろう。

しかし、人はみんないずれはその生を終える。
それを常に感じながら生きる日々を思うと、すこし恐ろしい気もするのだ。

長生きしてくれている両親が、1日1日を少しでも心穏やかに過ごしてくれるといいな。
明日は予定をキャンセルして、父の好物をもって訪ねることにしよう。


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