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純度の高い感情

雑多な情報に晒されて、純度の高い感情(ここでは、複雑ではないシンプルな感情、とくにポジティブな感情のことを主に指す)を抱く機会が減ってきている気がする。

最近、スピッツのライブに行けていない。元々人気に見合ったキャパシティの会場でライブをやってくれないイメージがあるのだが、ここ数年でまた人気が加速している印象がある。元々のファン層に20代や大学生が増えているのかもしれない。そのためファンクラブの抽選もなかなか当たらない。

ライブに行く良さは無演奏と生歌声を聴くことができるだけではないと思う。ファン同士で同じ空間を共有していることや、俗世を忘れて音楽に没入することも感情に作用する要素であり、良さであると感じている。

少し話は変わるが、先日久しぶりに結婚式に参列した。コロナ禍で久しくなかったイベントだ。友人メインの堅苦しくない参加者に新郎新婦は盛大に祝われていて、大変素敵な会だった。参列して感じたのは、結婚式もまた純度の高い感情になることができる機会だということだった。
2人のこれまでの人生に想いを馳せて2人の門出を祝うという、その気持ちに満ち溢れた人しか会場にはいない。その日の後の予定を全て空けて2人を祝うためだけにそこにいる。

披露宴では映像やイベント、司会のちょっとした言葉に笑いやどよめきが生まれ、感情は大きな河のように同じ方向に流れていた。
結婚式に参列するのは初めてではないが、参加するたびに純度の高い感情にあてられて泣きそうになっている気がする。

ライブも結婚式もそうだが、純度の高い感情になるためには「没入すること」が必要なのではないかと思う。雑念が入る余地がなく、そのものに向き合うことが、頭の中を一色にするためには当然必要だと考えている。
その考え方で言えば、「読書をする」という行為も純度の高い感情になるチャンスであると言える。読みたい小説や詩さえあれば本来であれば純度の高い感情に浸れるはずだ。しかし、現実問題それは難しい(少なくとも私にとっては)。家にいれば人がいたり、携帯が気になってしまったりする。かと言って喫茶店に行ってもなんとなくイヤホンをはめて音楽を聴き始めたり、隣の人の会話が気になったり、何となく落ち着きなく過ごしてしまう。ただひたすらに白い場所に机と椅子だけがある空間が求められている。

現代人は、というと主語が大きくなってしまうが、私は情報という毒に侵されている気がする。強制的にそのような環境を作り出さなければ、自分を感動させることすらできない。
このままでは、感情が、使わない筋肉のようにこわばって、何にも感動できない人間になってしまうのではないかという危機感がある。
そのため2024年は「いかに自分を感度させるか」を裏テーマに据えて、色々なことに取り組もうと考えている。

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