「ミスコンとか」の補足

昨日の記事に書いたミスコンに関するところについて翌日になったら補足したくなったので。しかしこれもまた、誤解を招きまくる文章になってしまった感があるので、わかりにくいかもしれないし、わかっても誤解している可能性が高いです。

(注:以下で使っている「同調圧力」という言葉は、一般に使われている意味と違う意味で使っていると思う。しらんけど)
多分俺が「ミスコンとか」で言いたかったのは、ミスコンにせよ「ガッキーかわいい」の話にせよ、規模の大小はあれ、結局なにかを「美しい」と判断してそれを表明した段階で、必ず他者を苦しめる可能性があるよねってことな気がする。そこの根底にあるのは、「美しさ」とかの判断に関する微弱な同調圧力みたいなものな気がする。同調圧力は人が複数存在する限りいとも簡単に発生しちゃうものだと思うから、誰かを苦しめる可能性を最小限にしたいとしたら、そのためにできることは自分自身がその同調圧力に飲まれていないか、誰かに圧力を知らぬ間に感じさせていないか、について自覚的であろうとすることぐらいなのかなと思う。(それはすなわち自分自身が変化しようとすることでもあると思う。うまく説明できないけど)
「自覚的であろうとする」中で、例えばミスコンの団体に声明を出すこともありだろうし、何かしら自分の外部に働きかけを起こすことは全然いいと思うけど、その時に忘れてはいけないのは、外部への働きかけは他人を変化させるための行為じゃなくて、自分自身が変化しようとする中での1つの過程であるってことだと思う。それが忘れられた時、すなわち外部への働きかけが他人を変化させるための行為に変質した時、その働きかけは同調圧力以外の何物でもなくなってしまう気がする。

それと、これは俺自身についてもかなり言えることだけど、同調圧力で苦しむ人がいるっていうのは必ずしもミスコン側とか同調圧力を与えている側だけに責任が帰せられるものでもないような気がする。すなわち、苦しんでいる側の同調圧力への接し方にも変化の余地がある気がする。「こういうのが美しい」っていう風潮があったとしても、自分が思う「美しさ」を十分に大切にできていればその風潮を受けてもダメージを受けないと思う。そしてその時、風潮を否定する気持ちも沸き起こらない気がする。自分の思う「美しさ」は他の多くの人がどう感じていようと変わるものではないし、逆にまた、他の多くの人がどのように「美しさ」を捉えていても、それはそれでいい、と思えるような気がする。ちなみに俺はこのような捉え方こそが「自立」なのかなあとか思っている。
しかしまあ完全に「自立」できている人はこの世にほとんどいないと思うし、多かれ少なかれ他者からの評価ってのは気になるよね。
しかし他者からの評価を気にする程度を減らして生き苦しさから少し解放されることはできると思う。

ちょっと話変わるけど、ミスコンの形式が、応募者全員通してランクづけしないでただ各々の「美しさ」を表現する場となったら上で書いたことは乗り越えられるのかなとかも思ったけど、そしたら今度は「醜さ」というものがないがしろにされてる感ある気がする。みんな醜さを持っているはずなのに。
そしたら「美しさ」を表現する場じゃなくて、「自分」を表現する場にしたらいいのかな。でも今のミスコンって多分一応「自分を表現する場」みたいな体裁をとってるよな?いやこれも知らんけど。

あと、この話もそもそもミスコンで苦しんでる人実際にいるの?っていうとこがわからないとほとんど意味がない気もする。でも、実際にはっきりと苦しんでる人がいなくても、自分でも気づかないうちに「美しさ」の価値規範に囚われて苦しんでる部分があるのかもしれないとも思ってきた。しかし、やっぱり僕は明確に苦しんでいる人がいないのに、ミスコンを批判したくないような気もする(前回の記事で水コン批判しといて何言ってんだって感じだよな、さーせん。批判したつもりはなくてよくわからんな〜って気持ちを表した文章のつもり)

色々書いてるけど、僕の友達とか先輩が水コン出てるし、他のミスターコンとかにも知り合いが出ていて、僕はかれらをめっちゃ応援してる。理屈抜きでかれらは僕にとっては本当に素敵な方々だし、かれらががんばっていることを応援したい気持ちがある。


次なんか面白いことやるように使おうと思います。 もらえたらめちゃくちゃ喜びます。 サポートの際、これやってほしい!みたいなのがあれば反映されるかもです。