第2話 初出社


2008年3月1日

東京都内では、一ヶ月前の大雪が嘘のように晴れ渡り、気温はすでに20℃を突破し、季節外れの陽気に公園の陽だまりには、朝から猫の親子が昼寝をし、その鼻先を身軽な雀がピョンピョンと飛び跳ねて行く。そんな穏やかな雰囲気とは対照的に、オンデーズの本社オフィスは、朝からかなり白けた、なんとも言えない、どんよりとした重たい空気感が全てを飲み込むかのように支配していた。
池袋の南口を出て明治通り沿いに新宿方面へと向かい、五分ほど歩いた所にある築数十年の古びた茶色いレンガで覆われた十階建ての小さな雑居ビル。その名も「ぬかりやビル」
地下の居酒屋からは夕方になると、油の匂いが立ち込め、共用部分の電球は所々切れていて、薄暗く陰気な雰囲気が漂っている。そんな、お世辞にも立派とは言えないこのビルの4階にある30坪程の小さなオフィスがオンデーズの本社オフィスだった。

朝9時
オンデーズの社員たちには一切極秘のまま行われた株主総会で、粛々と増資の手続を終え、代表権の交代を済ませた僕は、奥野さんと共に、RBSの小原専務、オンデーズの総務部長 甲賀龍哉の二人に連れられて、本社へと初出社した。
突如入ってきた、見慣れない男たち。
明らかにいつもとは様子の違う取締役たちの雰囲気に、社内に不安と緊張がはしる。


(誰だよ、あれ?)

(は?もしかして新社長って、この人が?)

(若いな・・ロン毛で茶髪だ・・)


「みなさん、ちょっと仕事の手を止めてこっちに注目してくださーい!」

小原専務が大きく声をかけ、本社の社員全員に注目するように促した。
全員の視線が僕に集まったことを確認すると、無事に旧経営陣となり、重たい責任から解放された小原専務は、まるで憑き物が取れたかのような晴れやかな笑顔で「新社長」の僕を意気揚々と紹介した。

 そして、社長交代と同時に新しく増資も行われて、この若い新社長はRBSサイドの雇われ社長ではなく、株式の大多数を所有する大株主でもあり、オーナーシップも同時に持ったことを説明した。


しかし、なんの前触れもなく、いきなり「大株主で新社長」として紹介された三十歳の若者を見て、この時に集められた二十名程の本部社員達は一様に激しい落胆を感じていたのは明らかだった。


会社の売却が検討されているという噂はなんとなく漏れ伝わっており、更にここ半年間の旧経営陣の様子からも、本部社員達は会社の大幅な体制転換が行われる可能性を少なからず察してはいたのだろう。
そんな中、買収に名乗りを上げる人物が突如現れ、新社長としてやって来るという。本部スタッフ達は少なからず「立派な経営者」もしくは「大企業のエリート担当者」みたいな、所謂「経営のプロ」っぽい人の颯爽とした登場を予想して、少しは期待に胸を膨らませていたのかもしれない。

ところが、そんな彼らの目の前に現れたのは、黒いジャケットに破れたデニム。スニーカに茶髪のロン毛。六本木によくいる「遊び人風」のチャラい若造だ。
この時に居合わせた本部社員の面々が、社長どころか社会人としても、僕と一緒に働く事に首を捻りたくなったのも無理はないだろう。

(うわぁ、終わったわ、うちの会社・・)

本部社員達は一様に、絶望というか、落胆というか、とにかく激しく失望した表情で、力なく僕を見つめていた。
しかし、どうせそんな風に反応されるだろうなというのは、買収を決めてから何回も初出社のシーンをイメージしては想像していたので、僕の方は本部スタッフ達の、そんな冷ややかな反応にも(やっぱりこんな感じか)といった程度にしか感じておらず、想定の範囲内といったところで、特に落胆はしていなかった。

僕は、皆んながこれから先のオンデーズに、できる限りの希望を持てるように、自分なりの「救世主・ヒーロー像」みたいな立ち居振る舞いをイメージして、目一杯、明るく爽やかに挨拶をした。

「皆さん、初めまして!田中修治と申します。この度、縁あってオンデーズの新しい社長として、この会社の経営を任せて頂く事になりました。正直、僕はメガネに関しては素人同然です。だけど、この会社を必ず大きく成長させて日本一、いや世界一のメガネチェーンにしていきますので、皆さん、一緒に力を合わせて頑張っていきましょう! 宜しくお願いします!」


僕は今回の買収に至った簡単な経緯や、会社が危機的な状況になりつつあること、それを踏まえてのこれからの再生計画やビジョンなど、出来るだけ爽やかに明るく話をした。
初めて会う社員の皆に好印象を持ってもらえるように、そしてこれからの未来に明るい希望を持ってもらえるように。


挨拶が終わり、軽く頭を下げた僕に、少し遅れてパラパラと、乾いたまばらな拍手がおくられた。僕に対する激しい落胆、不服の気持ちを表している事は明らかだった。古参社員と思われる中年の管理職の中には、口をへの字に結び、腕を組み、あからさまに軽蔑の視線を投げかける者も何人か居た。


事前に旧経営陣から買収話を聞かされていた甲賀さんは、総務部長という立場で、買収交渉の期間中、ずっと僕らと旧経営陣との繋ぎ役を担当しており、事前に資料のやりとりや情報交換などで度々顔を合わせていた。
もちろんそれらの動きは社内ではトップシークレット扱いで、いわばスパイのような仕事を半年間ほどやらされていたわけだ。
この新社長就任の日の朝、甲賀さんだけが、これまでのプレッシャーから解放された喜びなのか、妙に明るく晴れやかな表情で、一人だけ大きな拍手を僕に向けて力強く贈ってくれていたことだけは、今でも鮮明に覚えている。

就任の挨拶がひとしきり終わると、皆んな力なく自分の席へと戻っていった。僕に声をかけてくる者は一人もいない。静まり返った薄暗いオフィスには、明治通りを凱旋する出会い系サイトの宣伝カーから流れてくる能天気な音楽と、下品な音声だけが虚しく響き渡っていた。
こうして僕のオンデーズライフは、決して誰かに祝福されることも応援されることもなくひっそりと始まった。


一方、僕と共に、オンデーズに乗り込むことになった奥野さんもまた、着任早々本格的にその実態を目の当たりにして言葉を失っていた。
財務内容は危機的状況であるにもかかわらず、旧経営陣は会社売却の手続きが済んだ後は「我関せず」という態度を決め込んでいた。
早速、最初の月末には1千万の資金ショートが迫ってきているというのに、銀行交渉は何一つ手つかずのまま放置されていたのだ。

財務経理のスタッフは入社してまだ一年足らずで小さな会計事務所出身の石塚忠則ただ1人だけ。ハードな銀行交渉など望めるべくもない。石塚の置かれたその様子は、突然、親鳥に見放された雛鳥のようであった。


(このままでは再生に腕を振るうどころか、来月にもすぐに倒産してしまうじゃないか・・)


奥野さんは「売却したら、ハイ終わり!」とばかりの、旧経営陣の無関心さに、やり場の無い怒りを感じつつも(それが企業を買収して経営権を譲り受けるということか・・)と、厳しいビジネスの現実を改めて実感していた。
そして、膨大な資料の整理と、先の全く見えない資金繰り、十一行に及ぶ銀行とのリスケ交渉、これら全てに自分一人で立ち向かわなくてはいけないという地獄のような現実に、激しい目眩と、吐きそうな程のプレッシャーで押し潰されそうになっていた。


さらに、追い打ちをかけるように奥野さんを酷く落胆させる事態が起きた。
それは、奥野さん自身が籍を置いていて、僕と一緒に買収交渉に携わっていた、ベンチャー投資コンサルタント会社の若手社長とのこんなやりとりだった。
このコンサルタント会社の社長も、当初はオンデーズの取締役として一緒に経営に参画する予定だった。 しかし買収後、オンデーズでの打合せの後に急に翻意し、奥野さんに陰でこんなことを告げてきた。

「やっぱり私は役員では入らない。あの若い田中が脳天気に盛り上がっているのを見ていて、凄く不安を感じた。あれではオンデーズの再生などまず無理だ。 奥野さんだけが、財務のヘルプで行ってきてくれ」

この社長は、オンデーズの詳しい経営状況を知るやいなや、その約束をあっさりと翻して、自分はこのプロジェクトからさっさと離れていってしまったのである。

しかも「オンデーズには力を入れることなく、適当にやっておいて、抜ける金があれば抜いてこい」とまで言いだしていた。

(これじゃあまるで、線路に転落した子供を見ても、適当に助けるそぶりでもしていろ、と言われたのと同じじゃないか)

奥野さんは激しく失望し、それから数日後、半ば衝動的にその投資コンサルタント会社の社長に辞表を突きつけていた。

「辞めてオンデーズに行くだなんて、面白そうだからと簡単に移られたら困るよ!」

「そんな理由じゃない。あなたが信用できなくなったからだ!」

イラつきながらそう言い切ると、奥野さんは辞表をバン! と叩きつけて、踵を返して会社を後にしてきたらしい。


初出社から2週間ほど経った日の夕暮れ時。

ビルの外にある非常階段の踊り場に設けられた喫煙所。手すりのすぐ隣にある排気ダクトからは、焼き魚の匂いが立ち込めてくる。
薄暗く肌寒い空の下で、一人でタバコをふかしていた僕のところに、奥野さんがふらりとやってきた。

「社長、ちょっといいですか?」

「お、タバコ吸わないのに珍しいね」

「会社、さっき辞めてきました」

「え?マジで?」

「こうなったら、もう私も最後まで付き合いますよ」

「ハハハ。奥野さんも俺に負けず破天荒だなぁ。じゃあよろしくね!」

僕は、まるで居酒屋の予約でも頼むかのように、ヘラヘラと軽いテンションで返した。奥野さんは僕の返事を確認するとメガネのブリッジを人差し指で押し上げるながら「じゃあ」と言って、社員たちの帰った薄暗いオフィスの片隅にある自分のデスクへと帰っていった。
きっと、奥野さんも僕も「こんなの大した事じゃないさ」とばかりに、軽薄に振舞ってでもいないと、自分たちが勢いでだけで突っ込んできてしまった事の重大さと、プレッシャーにすぐにでも押し潰されてしまいそうで怖かったのだと思う。

こうして奥野さんは、ベンチャー投資会社からの出向という形から、オンデーズの常勤締役財務担当として自分から名乗りをあげ、正式に新たなCFOとして就任することになった。

しかし、この直後。

僕と奥野さんは十一行にも及ぶ取引銀行団とのリスケ交渉で、最初から想像もしていなかったほど、厳しい現実と大きな試練を迎えることになる。


第3話に続く・・

*本記事は2018年9月5日発売の【破天荒フェニックス オンデーズ再生物語 (NewsPicks Book) 】から本編の一部を抜粋したものです。

https://www.amazon.co.jp/破天荒フェニックス-オンデーズ再生物語-NewsPicks-Book-田中/dp/4344033507


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