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#185 「ケガをして良かった」と言いたい。(宮﨑幹仁/4年)

「道中で突きあたる障害は、人生を別の視点から眺めるのに役立つ。
そしてさらなる強さを与え、我々を再び立ち上がらせるのだ」
ローマ皇帝、マルクス・アウレリウス

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こんにちは。
筑波大学蹴球部4年の宮﨑幹仁と申します。
今シーズン、YouTubeで公開されている試合のハイライトをご視聴いただき、ありがとうございました。

今回のブログでは、僕がハイライト作成に関わる間接的な理由にもなった、1年前の冬に負ったケガのことを書きたいと思います。
去年の冬、前十字靭帯を断裂し、僕はみんなより1年早く蹴球部での選手生活を終えました。
そのときの感情、ケガやそれに伴う辛い経験から学んだことについて書きます。

ずっと、部員ブログに何を書こうか考えるのが僕の趣味でした。
自分のことをサッカー選手の自伝みたいに書いてみたいと思う一方で、何も成し遂げていないのにそんなことを書くのは恥ずかしいという気持ちもあります。
僕はこの4年間、精力的にサッカーの分析活動に取り組んだので、そのことについて書いた方が誰かの役に立つかな、とも思ったことがありました。

でも、ここまで出されたみんなのブログを読んで僕の考えはまとまりました。

みんなが書いたブログを読んで本当に感動しました。
みんな本心を赤裸々に描いていました。

僕もみんなにならってそうすることにします。

このブログのタイトルは
「ケガをして良かった」と言いたい。です。

これは、僕が今シーズン選手登録をせずに、スタッフとして過ごすと決めたときに立てた目標です。今年1年間、この言葉を意識して生活しました。

これから下の文章は、ケガをした瞬間から1年後の現在までのことです。
したがってとても長いです。
長いトンネルに入った瞬間は光から遠ざかっていくようですが、やがて前方に光が見えてきます。そんな文章にしたつもりなので、長いですが、よろしくお願いします。


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ほとんどの蹴球部員は4年間を選手として過ごす。
自分もそうなると思っていた。

ところが2022シーズンの終わり、試合で膝をやってしまった。
その試合は目標の3軍に上がる最後のチャンスだと思って臨んだ試合。相手は筑波大学蹴球部Bチーム。その週は調子が良くて、体が軽かった。愛用しているプーマのスパイクが芝を噛んでくれる感覚が心地よかったのを覚えている。
でも膝をケガするのは調子が良いときが多いらしい。無理が利くとはそういうことなのだと思う。

スタメンで出場したその試合の後半15分くらい、その試合何回目かわからない急激な方向転換を試みたところ、左足の大腿骨が脛骨の上を激痛とともに滑っていく感覚がした。聞こえてはいけない音が、頭まで響いた。
膝のケガはそれが大ケガであっても歩行できることがある。歩いてピッチの外に出る選手もいれば、数分間プレーできてしまう選手もいる。
でも自分の場合、それは不可能で、すぐに選手交代と担架を要求した。

予想通り、左膝前十字靭帯の断裂。半月板の損傷も確認された。
大好きなサッカー選手である、ユベントスとイタリア代表のエース、フェデリコ・キエーザとの共通点ができたことは少しだけ嬉しかった。
でも、それ以外はつらかった。
なにをするにも痛みが伴うし、チームへの帯同すらできないのもとても悔しかった。

それでも、幸運なことに、ケガをした4日後に手術と入院の予定を組むことができた。
内出血が引かなくてメスが入らなかったり、そもそも病院の予約が取れないといった理由でケガから1か月以上後になって手術を受けるケースも多い。
でも自分はトレーナーさんがすぐにアイシングをしてくれたことで内出血は最小限に抑えられた。病院もたまたま空いていて、自分はJリーグでプレーするような選手と同じくらいのスピード感で手術を受けることができる。
手術が遅れると、その分復帰に時間がかかる。

「良かった、復帰できる」

そう思った。
手術の予約を最短で取ることができて嬉しくなった。

入院の日の朝に、ワールドカップの準決勝、アルゼンチン対クロアチアの試合を観ていたときには、完全にケガのことを前向き捉えることができていたと記憶している。
その試合を観ながら5人で行われた「幹仁を送る会」も楽しかった。

思ったより元気そうで良かった、とひとりは言ってくれた。

手術の前にはその数週間前のASローマジャパンツアーのことも思い出した。
当時のJリーグ王者、横浜F・マリノスのDF陣を圧倒したイタリア代表、ニコロ・ザニオーロも同じケガから復帰しているではないか。
自分も、ザニオーロみたいにケガの期間でスピードを中心にフィジカル面を鍛えようと思った。自分が半年後にキレッキレで復帰するのを想像すると、楽しい気分になった。

意気込んで、手術を受ける。受傷から4日後のこと。


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人生初の全身麻酔からの目覚めも悪くなかった。

でも翌朝、喉が痛いことに気付く。
僕の担当っぽくなった看護師さんやトレーナーさんは年が近く、良き理解者だった。隣のベッドの社会人の方も優しかった。入院も悪くないな、と思えるくらい温かみのあった部屋だった。だから、隔離で個室に行くのは嫌だった。
でも熱がどんどん上がって、体温は40度を超えた。明らかにぐったりしてしまい、焦点が合わず、もう元気な自分を演じることはできない。検査されて、コロナ陽性だった。なんとなく察していた。

ベッドごと別室に移動する。もちろん一人部屋。手術の2日後だった。

ひとりになったことで、急に寂しい気持ちになる。
8日間の隔離生活がはじまった。術後初期のリハビリが大切なのに。幸先が悪い。
ひとりになったことで、これまで気丈に振舞っていたがその必要がなくなった。それが、逆に良くなかったのだと、今では思う。

その部屋はさっきまでの部屋と打って変わって殺伐としている。
薄暗くて、無駄に広かった。歩き回れない自分にとっては皮肉だった。
一人暮らしで住む部屋が広いと寂しさを感じると言う人を、それまでは理解できなかったけど、その気持ちがわかった。
人の声が聞こえない。自分が独りになったのだとわかる。

その部屋で1番背が高いものに目が行く。病院仕様の巨大な空気清浄機。この空気清浄機の「ごー」という音のせいで、孤独が強調された。無性に腹が立った。ものすごく。
蹴り飛ばして、ぶっ壊そうと思った。

でも、手術後の膝が痛くて動けなかった。
そして、ケガをして初めて泣いた。ぱんぱんに浮腫んだ左膝を見て、涙が止まらなかった。
激痛の受傷時も、靭帯断裂の診断を受けたときも涙なんて出なかった。
案外落ち着いていられるものなんだな、と思えるくらいだった。
そう思っていたのに、ケガをして1週間も経ってから、空気清浄機すら破壊できない自分の現状に気づいた。その涙は傷つけられたプライドが流させたものだった。

「なんで自分なんだ、そんなはずがない」

足を思い通りに動かせないのは生まれて初めてだった。1週間前からそうだったのに、完全にひとりになったことで、自分が障がい者であることにようやく気が付いた。自分が自分だと思えなくなった。自我同一性を失ってしまった精神病患者の方の気持ちが少しだけわかった気がした。こんなにつらいことだったとは。

その夜はひどく落ち込んだ。
そして、もう二度とサッカーはできないと初めて思った。

「サッカーを二度とできなくなるんじゃないか」
ケガの瞬間も潜在的にはそう思ったはずだ。でも、みんながいたから弱いところを見せたくなくて、「リハビリ生活かー」なんて軽く言うようにしていたのだろう。もちろん無意識に。

冷静に考えれば、リハビリを続ければ早くて6月、遅くても9月には復帰できる。時間がかかって復帰が9月になっても、3-4試合出場できる。
そう頭ではわかっていても、気分が乗らない。
希望も、情熱も、モチベーションもどこかに行ってしまった。
うつ病患者の気持ちを本当の意味で理解することは誰もできないらしい。それと似たような感じなのだろうか。
この文章を読んでいる人の多くは、当時の自分の気持ちは理解できないだろう。それは仕方のないことだ。
でも、当時の自分は、最短で6か月のリハビリ生活が、絶対に乗り越えることのできないほど高い壁のように思えてならなかった。
コロナ特有の気だるさを、自分の気持ちそのものであると錯覚してしまったのかもしれない。

「復帰したところで」
「復帰しても意味がない」

そう考えるようになった。

逆に、

「なんで自分なんだ、そんなはずがない」

数時間前まで感じていた、この気持ちは消えてしまいそうだった。むしろ、宿命に近いものを感じていた。

「肉体改造をしたらみんなびっくりするかな」
そんなおめでたい妄想はできなくなってしまった。

「自分ごときが復帰してもしなくても、何も変わらないだろう。」

孤独になった自分の中に突如発生した重たい気持ちは雪だるま式に大きくなっていき、自分の心の大半を支配してしまった。

「もう限界だ、誰かに相談するべきだ」と心が叫んだ。
でも、自分の問題が誰かの重荷になることはたまらなかった。
人に相談しないのは、昔からの悪い癖だ。

結局、誰にも相談せず、高熱で意識が朦朧とするのをただ感じていた。


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3日間も誰とも会話しないのは思えば初めてだった。
気を紛らわす方法はいくらでもあったように思うかもしれない。でも、膝の痛みに加えて高熱とだるさのせいで、持ってきた本を読むには気が滅入る。Netflixを見ようとしても、映画の内容を理解するには頭痛がひどすぎた。

それに加え、東窓のその部屋に太陽光がさすのは朝だけで、あとは無機質な蛍光灯の光を浴びることになった。病院食だけでは、ビタミンDは足りないだろう。
心は疲れていても、体は疲れないから眠くならなかった。考え事が増えて、一睡もできない夜が2回続いた。

暗い気持ちが完全に心を支配した。気づいたときには脱出不可能だった。

自分が入院しているのは総合病院だった。僕のようにケガで入院している人もいたけど、病気を抱えている人も大勢いたと思う。

「この病院で、この部屋で、息を引き取った人はどのくらいいるだろうか」

とんでもないことが頭に浮かんだ。自分はサイコパスなのか?

それだけでなく、サッカー選手としての自分もここで死んでもいいかな、ということを考えた。


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コロナの症状が治まり、隔離期間も終了して退院するころにはいくらか気持ちは明るくなっていた。

歩行困難になったことで元日のインカレ決勝への動員を待たずに実家に帰省できたことはよかった。
仙台の街をいつものお正月のように歩き回ることはできなかったけれど、小学生の妹とシックスボールパズル(Switchのソフト「遊び大全」の中の要素)をするのが楽しかったし、多くの友達が車で連れ出してくれた。
うまく歩けない自分を、盛岡旅行にまで連れて行ってくれたのは高校の親友だった。

ただ、心休まる時間を地元で過ごしても、入院中に負った心の傷は癒えていなかった。

冷静な思考は取り戻している。リハビリを頑張れば6月に復帰できる。6月はまだシーズン序盤だ。大きく出遅れることは間違いないけど、試合に出場できることは何よりの魅力であることはわかった。実際、復帰を現実的に検討するまで、精神状態は改善していた。

ただ、暗い気持ちは年を越しても自分の中に存在感があった。リハビリのためにジムにも入会し、復帰を目指そうと思う自分に対して、個室で感じた「復帰しても意味がない」という気持ちが自分の本心のように思えてならなかった。

復帰と大学サッカーからの引退を天秤にかける。

自分から積極的に他人に相談することはなかったけど、ケガを知ってくれたチームメイトや友人がLINEしてくれた。

「絶対乗り越えられる、死ぬ気でがんばれ」
「1日でも早い復活願ってます!!」

と、復帰を応援してくれる人もたくさんいた。この人たちのために頑張りたい、この人たちの期待に応えたい、という気持ちは確かに芽生えていたと思う。

一方で、
「もし引退するなら、誰にも責められることはないし、ここまでよくやってくれた」
「どんな決断をしても尊重したい」

と言ってくれる人もいた。

決断に時間がかかればかかるほど、
「自分は本心からは復帰を目指していないのではないか」
と思えてくる。

実際、この期間は「選手登録をしないまっとうな理由」を探している期間だったようにも今となっては思える。

復帰できる可能性が100%でないことは自分を引退に近づけた。同じケガをしたひとつ上の先輩が、リハビリに励むも、結局復帰することはできなかったということも頭をよぎる。その先輩のその姿は最高にかっこよくて、たとえ復帰しなくてもチームに大きなモチベーションを与えていた。自分が同じケガをする前から、とても尊敬していた。
しかし、いざ自分がケガをすると、その先輩のように復帰できずに引退することが怖くなってしまった。そう思ってしまったことはその先輩に申し訳なく思う。

ケガのシチュエーションについても考えた。自分の持ち味は色々あるけれど、献身性は大きな武器だ。後半のきつい時間に、守備に走り、自陣深い位置でケガをした。アタッカーの選手がそこまで守備に走った結果、ケガをしたのだった。
「もう休んでいいよ」という誰かからのメッセージだったと考えた。
サッカーをプレーすることではなく、他の方法で部の助けるチャンスを、神様が与えてくれたのかもしれないと思い込んだ。

そして、最後に、
「即決できなかった時点で自分は桐の葉をつけてプレーする資格はないだろう」
というもっともらしい理由を見つけた。

始動日の5日前、2023シーズンは選手登録をしないことを各所に報告した。
2023シーズンはスタッフとして活動することになる。


2023シーズン終了時、「ケガをして良かった」と言いたい。


これが、今シーズンの目標になった。


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今日は、2023年12月15日。今日で、手術からきっかり1年だ。


「ケガをして良かった」と言いたい。


まだインカレは残っているけど、ブログが回ってきた。
今年の1月に立てた、この目標を達成することができただろうか、と振り返る。

今年の夏の終わり頃、実は自分はサッカーができるようになっていた。復帰のためのリハビリはしなかったけど、バルクアップにのめり込み、毎日ジムに通い続けたことで、筋繊維の破壊と回復が繰り返された。血行が促進され、ケガの回復も早まったのだと思う。
ケガをしたときは、「復帰が8月だったとして、特になにもできずに終わりそうだな」と考えた。それもあって引退したのだった。
でも、実際にはそんなことはなくて、みんなまだまだこれからという時期だった。
社会人リーグやIリーグに出場する同期がキラキラしていて、かっこよかった。うらやましくてならなかった。
「ケガさえなければ」何度もそう思った。特に、9月あたりは。

ケガをした分、蹴球部のために時間を使おうとも考えた。
自分に成長が見込めない単純作業も受け入れて、マシーンのように仕事をこなした。
実際、今年の僕の仕事量はみんなが認めてくれているところだと思いたい。

まず、トップチームの対戦相手の個人映像を1年で100人ほど作成した。これが最高につまらなかった。選手に見られているかどうかもわからない映像を無心で作り続けた。
年間で200時間ほど費やしただろう。最低な人間と思われるかもしれないけど、この時間でアルバイトをしていたら、と何度も考えた。今頃大富豪になれていたと思う。

そして、ハイライトでの実況・解説の吹き込み。同期のひとりは「幹仁の今シーズンの生き甲斐に見えていた」と言ってくれた。なるほど、そう見えていたなら大成功だ。俳優になれるかもしれない。選手が感想を言ってくれたり、ファンの方がコメント欄で僕のことを褒めてくれると僕の顔は赤くなる。でも作業自体は単調で辛いことも多かった。「意味あるのかな」と、すべての試合で思った。映像を見ながら原稿を考えて、読む。嚙んだらやりなおし。30試合以上よく頑張ったと思う。

マッチデープログラムもホームゲームの半分の回は自分が作成している。
それからホームゲームでの相手チーム関連のアナウンスは僕の仕事だ。
スカウティングも3回担当した。
球研のゴミ箱のゴミも何度も運んだ。
その他、僕に何かを頼んで二つ返事で引き受けてもらった部員も多いと思う。

選手活動との両立は不可能だったと自負できる。

でも1ミリも楽しくない。今シーズンは、なにをするにも味気なくて、生きがいは蹴球部での活動以外に見つけなければならなかった。

「ケガをしなければ」何度そう思ったことか。



その一方で、「ケガをして良かった」と思えることもある。

入院していた病院の個室で、
ひとりになることの心細さを感じた。

膝が動かなくなり、そのうえコロナウイルスにも感染したことで、
健康体が維持できることは奇跡であるということを知った。

いつでも仲間に会える環境、普通に動く脚。
それがありふれたものであればあるほど、
僕はそれが「存在しない状態」を認識することができない。
そのことに気が付いた。

ひとりの時間が、どれだけ寂しいことか。
みんなといる時間が、どれだけ幸せなことか。

膝が動かないこと、病気になることが、どれだけつらくてみじめなことか。
五体満足でいられることが、どれだけ有難いことなのか。

そして、サッカーができることがどれだけ素晴らしいことなのか。

ケガをしなければ知ることはなかった。


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ケガをして1年が経つ。現時点で、「ケガをして良かった」と言い切ることはできない。
ケガから学んだものよりも、ケガをしてつらかったことの方が、今はまだ大きいと感じるから。

でも、ケガによる辛みはもう増えることはない。膝は完治している。
とすれば、これから進む道で、ケガから学んだことを活かし続けるだけだ。

僕は、ケガから学んだことを、人を助けるということに使っていきたい。
経験を活かす方法は色々あると思うけど、これが一番良いと思う。昔から誰かの助けになることで自分も喜びを感じる性格だった。
そして、ケガを通して、前よりもっと優しい人間になれたとも思う。

孤独になったことがあるからこそ、救える人がきっといる。
体の一部が機能不全になった経験があるからこそ、寄り添える人がきっといる。

身近に傷ついている人や、壊れてしまいそうな人がいたら気付ける人間になりたいと強く思う。

「大袈裟だな」
と思われてしまうことについては僕自身が賛同できる。
世の中には、想像もつかないほどつらい経験をされている方もたくさんいると思う。

このケガやそれに伴う入院を通して、そういった人たちの気持ちを完全に理解できるようになったとはもちろん思わない。
でも、そういった人たちの気持ちについて、ケガをする前よりは理解できるようになったとは確実に言える。

僕の名前は幹仁で、「仁」という文字には「思いやり」という意味がある。
両親や祖父母が与えてくれたこの名前が持つ意味に、辛い経験を通し、近づくことができた。

このケガのことを絶対に忘れない。
これからの人生を、優しい気持ちで生きていきたい。
困っている人を助け、追い詰められている人を守り、孤独になりそうな人のそばにいたい。
そして、そういった人たちを再び立ち上がらせて、また明るい気持ちを取り戻す手伝いをしたい。

簡単なことではないと思うけど、それを継続していれば、いつかきっと、このケガを乗り越えた自分のことを誇りに思えるだろう。

そのときになったら、あの日「ケガをして良かった」と胸を張って言えるはずだ。


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おわりに


10月29日。中筑定期戦2軍戦。
僕は「引退」していない。選手登録をしなかっただけ。

そして、323日ぶりに桐の葉を背負った。
人生でたった1度だけの特別な日。
イタリア代表のエース、フェデリコ・キエーザみたいなプレーをしようと思って、直前までキエーザの動画を見ていた。
キエーザはいつも僕のアイドルだ。
同じケガをしたことでキエーザのことがもっと好きになった。

結局EURO2020のキエーザみたいな活躍はできなかった。

でも積極性だけはキエーザそのもので、ほぼチャンスのない角度から、1本シュートを打った。
僕は知っている。
この世界では、シュートを打った選手は個人チャントを歌ってもらえる。それがどんなにしょぼいシュートでも、シュートというプレーはいつだって素晴らしい。

さあ、僕のチャントはなんだろうか。帰陣しながら、聴覚に神経を集中させる。


「宮﨑幹仁、お前の、フィジカル、まじで規格外」


僕の1年間の努力は肉体に表出していた。そこまでは知っていた。

そして、あのとき、みんながそれに気づき、個性として、努力の結晶として認めてくれた。そう感じた。
ただ筋肉質だからその応援歌になったのだろうとももちろん思う。

でも僕は何事にも感謝する人間で、普段からその性格が滲み出ていてほしい。

今回も礼を言いたい。

本当に嬉しかった。

みんなありがとう。


筑波大学蹴球部

体育専門学群4年

宮﨑幹仁

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