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短期間で「脱・北朝鮮」を実現したミャンマーのゆくえ

 ミャンマー(Myanmar)に行ったことありますか? 昔はビルマって呼ばれていましたね。ミャンマーが2016年3月15日、国会で次期大統領を選びました。1962年以来の文民大統領となるチョー・ティン氏。文民とは「軍人じゃない」ということです――ここまでが、総選挙を実施して民主化が成ったミャンマーについて書いた記事。
 その後はミャンマー国軍が2021年2月1日に、当時のウィン・ミン大統領、アウン・サン・スー・チー国家最高顧問らを含む政権幹部らを拘束。非常事態宣言を発出し、全権を掌握してクーデターを実現、軍事政権に逆戻りしてしまいました。

ジャーナリストという職業は、あらゆるところに行けるチャンスがある、と思って筆者はこの仕事を選んだところがあるが、世界にはこの業種を極端に嫌う国があり、一般人以上に入れないのが、なかなかつらい。

タイの隣国、ミャンマーも、現在(記事初出の2008年当時)はそういう国である。

この国には都合3回入国したが、そのうち2回はタイ最北端のメーサイから日帰りでタチレクに、またその近くにある「ゴールデントライアングル」(タイ、ラオス、ミャンマーの3カ国国境が交わる付近)のチェンセンからメコン川の対岸にあるタイ資本のカジノに3時間入っただけである。

ここは入国してもミャンマーの輪郭をめるだけの小旅行なのでジャーナリストでも大丈夫だったのだろうが、最大都市ヤンゴンなどから取材のために入ろうとすると査証(ビザ)が滅多に出ないのである。

まともに入国できたのは2007年3月27日の国軍記念日に際して、軍事政権が実質2005年に遷都した新首都ネピドーへ外国人記者を「招待」したときだ。初訪問だった。航空便が利用できないため、最大都市で旧首都のヤンゴンから北へ400キロメートルにあるネピドーまで、昭和50年代製の日産サニーで片道約10時間かけてノロノロと移動した。

2時間も走ると道路はデコボコになり、未舗装部分も多く、道路沿いに建つアバラ家や、床がなく土の上に商品を並べる店の様子から貧しさが伝わってくる。車はデコボコ道のため時速40キロ以上は出せないうえ、エアコンを動かすとパワー不足で時速20キロに減速する。

幹線道だが街灯や道路灯はなく、暗闇の中を走っていると目の前にわらを山と積んだ牛車が突如として現れたり、真っ暗な中を人が独りで歩いてたりする。なかなかスリリングだった。到着した首都にはヤンゴンから移転した省庁の建物や公務員が住む小ぎれいなアパートが立ち並んでいるが、当時はあちこちがまだ工事中で殺風景。まだまだ都市の体をなしていなかった。

それに比べると、同国最大の都市であるヤンゴンの街並みの美しさは抜きんでている。建物は古く、貧しい家屋も多く、喧噪はバンコク級だが、背の高い豊かな街路樹に囲まれて優雅な面持ちだ。

同じ英国の植民地だったシンガポールの街を、50年前で時間を止めたままにしたら、こんな感じだったかもしれない。昼はとてもゆったりした気分で歩ける街なのだ(夜は電気がないため暗く、発電機から出る排ガスで息苦しいが)。

そのヤンゴン中心部に立つ寺院「シュエダゴン・パゴダ」は、社寺仏閣が好きな筆者にとっては「ミャンマーの至宝」と思える素晴らしさだった。中心部にそびえ立つパゴダ(仏塔)の高さは台座から約100メートル(326フィート)。その周りに大小の塔やほこらが数百あり、中には金色や乳白色の仏陀像が微笑みをたたえて鎮座ましましている。

多くの人が白い大理石でできた床に座り、仏像や自分が生まれた曜日を司る神像に熱心に祈っている。いや、心を落ち着けて深い呼吸に集中しながら祈っているので、瞑想していると言った方が良いのだという。

院内は靴と靴下を脱いで素足で歩かねばならない。暑季の日差しが照りつけた石の床は焼けるように熱くなり、慣れていない筆者は「アッチアチアチ!」と小さく叫びながらピョコピョコと歩く。

顰蹙ひんしゅくをかってもおかしくないのだろうが、だれもとがめず、笑みをたたえている。市内各所から見える金のパゴダの足元には、安寧の祈りの場が広がっていた。

そんな場に集まった僧侶や市民を軍事政権が武力弾圧したのが、2007年9月26日。観光ビザで入国していたジャーナリストの長井健司氏は翌27日、国軍の銃弾にたおれた。その場に花をたむけることもできないまま、まもなく1年が過ぎようとしている。

(初出:フリーペーパーweb「泰国春秋」2008年9月15日号)

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ミャンマーではその1962年にクーデターが起きて以降、軍人が国を掌握する時代が続いてきました。その間、2010年に選挙が実施できるようになるまで、非常に閉じられた世界が続いてきたのです。「南の北朝鮮」などと言われてきた時代もあったのです。

当時は、ミャンマー独立を率いて国軍を創設したアウン・サン将軍の娘であるアウン・サン・スー・チー氏も、国軍によって自宅軟禁されていました。その国軍が主導で民主化スキームを作って、徐々に「開国」していったのですね。

2010年からの短期間で、ここまで社会状況が変わった国も珍しいのではないでしょうか。今や、「アジア最後の経済フロンティア」として、外国からの投資が押し寄せていて、日本人も、日本企業も、こぞってミャンマーを目指している感じがあります。

ただ、短期間に「脱・北朝鮮」的な変貌を果たした社会が、このまま安定するのでしょうか。次期ミャンマー大統領もスー・チー氏の側近であり、同氏が率いる政党がうまく安定的に社会と経済を発展させられるかは未知数な部分が多いと新聞などでも指摘されています。

またも、時計の針が逆回りしないことを祈るのみです。

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――と、上まで書いたのがこのnoteに投稿した2016年3月時点のこと。しかしというか、やはりというか、2021年2月1日にまたクーデターが起きて、ミャンマーは軍事政権時代に逆戻りしてしまいました。今では民主化時代から文字通り「隔世の感」があります。

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