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坐禅と男女同権と平和への願い(推敲後)

 現在、正法眼蔵全講(岸沢惟安老師)を拝読している。これは分厚い本が24巻ある為、読み終わるまで10年はかかると思う。(諸行無常ではあるのだが、修行生活を疎かにしたくない為、少しずつ読むことにした)「しるべし仏家には教の殊劣を対論することなく、法の浅深をえらばず、ただし修行の真偽をしるべし  正法眼蔵 弁道話巻」
 正法眼蔵礼拝得髄(しょうぼうげんぞうらいはいとくずい)の巻に非常に感動する。道元禅師が鎌倉時代にすでに男女同権(フェミニズム)を説いているのである。
 「いずれも得法を敬重すべし、男女を論ずることなかれ、これ仏道極妙の法則なり。」
 「仏法を修行し、仏法を道取せんは、たとひ七歳の女流なりとも、すなわち四衆の導師なり、衆生の慈父なり」
 「女人なにのとがかある、男子なにの徳かある、悪人は男子も悪人なるあり、善人は女人も善人なるあり」
 「また日本国にひとつのわらひごとあり。いわゆるあるひは結界の境地と稱し(しょうし)、あるひは、大乗の道場と稱して、比丘尼女人等を来入せしめず。邪風久しく伝はれて、人わきまふることなし」
 また臨済禅師の元で修行してから、女性の末山了然尼(まっさんりょうねんに)の元で更に修行した志閑(しかん)禅師の話も尊敬すべき古事として書かれている。
 道元禅師は3歳で父を、8歳で母を失い、お線香の煙の揺らめくのを見て諸行無常を感じて出家されたと伝えられている。お母様(摂政関白 藤原基房卿の娘、藤原伊子様)への思いをこの巻の文の中に感じるところもある。
 テオドア・ルートヴィッヒ・アドルノの研究にある、「権威主義的人間」性が道元禅師にはみられないということも、大切なところだと思う。(なんらかの権威に価値を置き、その権威に依存的に従おうという性向を持った人)研究の発端は、第二次世界大戦時、なぜこれほどまで多くの人がたんたんとした事務処理をこなすかのようにユダヤ人を殺害できたのかという疑問だった。そして発見されたのが、「権威主義的パーソナリティ」であった。(この研究の先駆者には、エーリッヒ・フロムがいる。フロムはすでにナチスのファシズム台頭を受け入れた中産階級、下層階級の人々の社会心理学的分析を行っていた。そしてフロムはその研究から「社会的性格」という適切で便利な用語を生み出していた)「哲学書100冊から世界が見える」白取春彦著より (たしか、エーリッヒ・フロムは禅だけではなく、薬師寺の管長であった橋本凝胤僧正様とも親交があった)「自己の依り処は自己のみなり」「他に依存する者は動揺す」「仏道をならうというは自己をならうなり」という法(坐禅)をどこまでも敬重することが大切で、なんらかの権威に服従するという事ではない。一人一人の考え方が、戦争の原因となってしまう。
 「われわれには、いつもクセがつけられておる。権力者やらそれに付随する教育者やら思想家やら、その他もろもろクセをつけるのに努力しよる。それで、そのユガメラレ方は念が入って複雑きわまる。しかし、このユガミの取れたところが真の仏教の智慧である」
 「歴史あって以来、ケンカが絶えたことはないが、どんなに大きな戦争も、その根源はイガミ合うという心である」(澤木興道老師)
 「科学的進歩と道徳的進歩の間にある深淵の橋渡しをするため、私たちは情熱的に、根気強く努力しなければならない。人類の抱える大問題の一つは、科学やテクノロジーの豊かさとは対照的に、精神の貧しさに私たちが苦しんでいるということである。物質的に豊かになればなるほど、私たちは道徳的、精神的には貧しくなってきている。人は誰でも、内面と外面の、二つの領域で生きている。内面的なものというのは、芸術、文学、道徳、宗教などに表される精神的な目標の領域である。外面的なものというのは、さまざまな装置、技術、機械、およびわれわれの生活手段などを総称している。今日の私たちの問題は、私たちが外面的なものにまぎれて、内面的なものを失ってしまったということである。つまり、生きる手段が、生きる目標を遥かに追い越してしまったのである」マーティン・ルーサー・キング牧師
 「誰でも夫婦ゲンカしておるとき、妄念でしておるとは思わない。ところが坐禅しておると、それが妄念であるとよくワカル」
 「科学は他人からのモライモノのうえにツミカサネがきくから、どんどん進歩しよる。それにひきかえ、人間そのものは他人からモライモノできぬし、ツミカサネもきかぬから、ちっとも偉うはならぬ。だから頑是ない餓鬼が、凶器を振りまわすような恰好になって、危うてしょうがない」
 「今の科学文化は、人間のもっとも下等な意識をもととして発達しておるにすぎぬということを、忘れてはならぬ」(下等な意識とは、「自分だけはラクしてトクしたい」、そのためには「他人とイガミ合わずにはいられないという心」)(大阪朝日新聞連載 内山興正老師 宿無し興道発句参より澤木興道老師の言葉)
 エマ・ワトソン氏の男女同権についての国連でのスピーチの動画の中で、イングランドの政治家、哲学者であるエドマンド・バークの、「邪悪な勢力が勝利するのに必要なことは、善良な男女が何もしないことだけだ」という言葉が紹介されていて、印象に残った。日本では女性の政治家や、管理職はまだまだ少なく、女性の権利を護る意識も足りなすぎるのではないかと思う。日本のペスタロッチと呼ばれた東井義雄先生が、女性の先生には子供の泣き声を聞き分ける「耳」があり、男性の先生ではとても及ばないところがあると書かれていたことも印象に残っている。
 お地蔵さんのご真言は、オン カカカ カビサンマエイ ソワカ であるが、カカカは笑い声を表して、(呵呵大笑など)日本の古来の母の呼び名であるかかさまはここから出ているという。カビサンマエイは、莞爾(かんじ、微笑み)と訳されるという。たしか、インドのラビンドラナート・タゴール(1913 ノーベル文学賞)が、大正時代に来日した時は「日本人は、花を愛するように、子どもを愛している」と語っていたのが、次に来日した時には、「日本人の子どもを見る目が、冷たく厳しい監視の目に変わってしまった」と語っていたという。日本の「母」という言葉に込められている願いを尊重しなければならないと感じる。
 「高所は高平、低所は低平」(典座教訓 てんぞきょうくん)という言葉もある。自然的生命はどの人にも平等だが、この自分を生きるのは自分だけ、というように、平等の面と配役という面をどちらかに偏らずに見て、そのどちらも働かせて、全体の利益のために生き生きと活かしていかなければいけないので、平等だけにこだわって執着してはならないという面もある。
 また、礼拝得髄の巻にはお釈迦様の言葉「無上菩提を演説する師に会わんには、種姓を観ずることなかれ、容顔を見ることなかれ、非をきらふことなかれ、行をかんがふることなかれ。ただ般若を尊重するがゆえに」という言葉も引用されている。(完壁な人間などいないのであるから、人の欠点を見ずに、長所を見て学ぶということ、どんな人からも学んでいくということ、そして師とは自己自身がする坐禅だということ)どこまでも、表面的なところを見ずに、男女と頭で分別(分け別ける)する以前の生命、心を大切にしたい。そしてSDGsの、ジェンダー平等を実現しよう、人や国の不平等をなくそう、平和と公正をすべての人に、という目標に向かって、精進していきたいと誓願している。


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