山本浩貴(いぬのせなか座)における「中二病」の変形Transformについて

 第6回歌舞伎町のフランクフルト学派のゲストに、いぬのせなか座の山本浩貴さんを迎えます。イベントの詳細は、上の宣伝文、および西村さんの告知をご確認ください。以下に続くのは、山本さんについてより詳しく紹介するために、私が勢いで書いた文章です。ちゃんとしたプロフィールと活動来歴は、いぬのせなか座のホームページをご覧いただければ。



 山本浩貴のことが最近少しずつわかってきた。いぬのせなか座を中心とする山本の活動はおそらく、中二病的なのだ。ただし、中二病を別の形に変換する運動が常に付随している。

 先に断っておくと、本稿はほとんど具体的論拠を持たず、私の直観と妄想で書かれている。突然書きたくなったので書くことにした。批評というよりは二次創作と捉えてほしい。山本氏には最大限失礼のないようにするので、笑っていただけると幸いです。でもたぶん、間違っていることは言わないと思う。

 ここでいう「中二病」は、「コミュニケーション不全や実存的不安を基調とした、退廃性とロマンティシズムを持つ表現」をおおよそ想定している。まぁwikipediaの項目に書かれている内容とほぼ同じだが、14歳ごろに少なくない人が持つ恐れや痛みに寄り添う、という特徴を本稿では強調したい。「中二」という響きが世俗的に偏りすぎるなら、「ジュブナイル」という言葉に変えてもいいかもしれない。

 先日、World’s End Girlfriendの新作爆音暗黒視聴会に行ってきた。World’s End Girlfriendは前田勝彦によるソロユニットで、2000年前後から今に至るまで活動を続けている。エレクトロニカやアンビエントに類する電子音楽が基調となっているが、ボカロカルチャーや岩井俊二的なイメージとも隣接している。少女の声や、聖歌隊のコーラスが壊れた電子リズムの上を通り抜け、物語的な手触りを聴くものに残す。つまり、その音楽に「中二病」的な要素があるのだ。そもそもユニット名が、すでに退廃性(=World’s End)とロマンティシズム(=Girlfriend)を含んでいる。その、145分に及ぶ新作アルバムの視聴会が、ヒューマントラストシネマ渋谷で26日の夜に行われた。映画館の音響を駆使した視聴会から受けた刺激についても語りたいところだが(とりあえず、ミュージシャンはどんどん映画館で視聴会やればいいと思う!一番集中していい音響で音楽を聴かせられる場所だから)、ここでの重要なポイントは一つ。山本浩貴がいたことだ。

 視聴会が終わった後に偶然出会って驚いたのだが、そこで彼は「高校生の頃(World’s End Girlfriendを)聴いてたんですよね」と語っていた。私の中でいろいろなことが一つにつながった。『新世紀エヴァンゲリオン』から文化や表現に興味を持ったと言っていたこと、日本のホラー映画を多く鑑賞していること、大林宣彦や大森靖子や最果タヒを好んでいること。これらすべての特徴が「コミュニケーション不全や実存的不安を基調とした、退廃性とロマンティシズムを持つ表現」への近似性を示しているではないか。そうか!山本君は中二病なのか!私は、彼への親近感を深くした。

 ここでの親近感は、同じ趣味嗜好を持っているから故ではない。エヴァは私も小学生のころから影響を受けているが、大林宣彦はそんなに観ていないし、Jホラーは怖いからなるべく観たくない。そうではなくむしろ、自らの趣味嗜好を変形させる、あるいは歪ませることに至ってしまう山本の性質について、尊敬に似た愛着を抱いたのだと思う。

 「無断と土」でも「死の投影者projectorによる国家と死」でも、あるいは大江健三郎論「新しい距離 大江健三郎における制作と思考」でも、山本の文章にはあらゆる文脈の凝縮と変形が確認できる。荒川修作が、吉本隆明が、折口信夫が、アントナン・アルトーが、ニコラウス・クザーヌスが、ウォルター・ベンヤミンが、その他諸々の誰かの言葉が一つの場へと呼び寄せられ、星座をかたちづくる。そこには、多種多様な引用の鮮やかさや絢爛さではなく、凝縮された場を用意することで自らを変容させなくてはいけないという、義務感と切迫感が重くのしかかっている。

 ここからが主に私の推測および妄想だが、山本が変容させるべきだと考えているのは自らの「中二病性」なのだ。死に近づくことに恐怖と蠱惑を覚え、大事な人が笑うなら世界を敵に回してもいいと盲信する対幻想を抱き、あらゆる他者を拒絶することでなんとか生き延びる14歳の心性。彼はそれを否定するために、苛烈な変容を自らの課するのではない。中二病の自分を殺さないためにこそ、変容の作業は要請される。山本といぬのせなか座における、幾重にも折り重なって歪められたテクストの透明さは、あの日の自らの心を、社会化させないまま他者に送り込むために必要とされる。本当に自分を守るための行動の集積が、山本の言葉となるのだ。結果、彼のテクストは、透き通った重力として、読者に向かって確かな質感を伝える。

 私は、山本の文章と彼の人柄に触れて、私自身の中二病的な性質もどうにか開いていきたいと思った。それも、社会に容易に流通する語り方抜きで、届けるべきだ。村上春樹の小説も、ROUAGEやTHE SMITHSの曲も、小花美穂の漫画(というか『こどものおもちゃ』)も、私の心に決定的な痕跡を残してきたはずなのにまともにテクストに変換できたことがない。語るにしても、思い出の想起や被害者の立場のような流通しやすい道具立てでしか語れていない。それらの(自分にとって)中二病的な対象を直接的に論じるというより、ある種のトランスフォームの中で、一つの重さを与えたい。透明な重力を伝える義務が、私にもあるように思うのだ。

 山本浩貴と共に語りたいのは、そうしたトランスフォームの倫理についてである。

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