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む 「昔話」


むかし、むかし、あるところに……という昔話に、子どもの頃引き込まれた。テレビ放映されていた「まんが 日本昔ばなし」のオープニングとエンディングの歌をいまだに歌える。昔話はいまでも2019年に亡くなった市原悦子の声で再生される。小学生時代、我が家には「テレビは一日30分」というルールがあって、しかも見て良い番組は親が指定していた。「キン肉マン」などはあまり良い顔をされなかった。屁で空を飛んだり、顔が和式便器のクリーチャーがいて、それに流されている人がいる映像は、「なんとなく教育に悪そうだ!!」という警戒心を親に抱かせたと思われる。

その点「昔ばなし」はPTA公認みたいなところがあって、30分超えて見ていてもあまり注意されることはなかった。いろんな話しがあるのだけど、時々、なんか怖いやつとか、なんか後味が悪いやつとかがあった。そういうのは子どものころは「ハズレ」だと思っていたけれど、いつまでも覚えているのはむしろそういう回だったりする。

大人になって河合隼雄の本で「神話・民話」と「昔話」が違う、というのを読んで納得した。民話や神話は最初、「オチのない話」のまま語られる。すっきりしない謎めいた話しだ。それが時間を経て語り継がれると、「昔話」に変化する。「オチのない話」は必ず、勧善懲悪の教訓めいた話しに変化するのだそうだ。「良い人は報われる・悪い人は最後に泣く」という。

しかし、人生の真実は往々にして不条理のほうにあり、だから原形としての神話・民話には不条理なものが多い。たとえば「三年寝太郎」に教訓はない。無理矢理教訓に還元しようとすると、「よく休むと力が出る」とかになるのかもしれないが、そういうことを言いたいわけではない。そもそも、神話や民話って、何か言いたいことがあるわけではない。古事記とかもそうだけど。これが昔話の「こぶとりじいさん」になると完全な教訓・勧善懲悪になる。なぜ語り継ぐうちに人はそういう話に変化さてしまうのか。「公正世界信念」というのがそれに関与していると言われる。

「まんが 日本昔ばなし」の、なんかすっきりしない話しの方に僕がむしろ惹かれたのは、きっと教訓めいた勧善懲悪だけでは世の中は語りきれない、と本能的に知っていたからだろう。キリスト教徒になった今、僕は聖書を還元主義的に「勧善懲悪」の話として読むことがあまり好きではない。士師記とかの「で、何?」みたいな話しの方に、芳醇な「意味の可能性」が内在しているように思う。


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