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書き続けて報われてきたこと


最近、ある牧師が「希望とは革命的な忍耐だ」と言っていた。
私なら、そのあとに「作家でいることも同じだ」と付け足す。
希望は暗闇から生まれるものだ。
強情で意地っ張りの人間は、自分がその場に行き、
やるべきことに努めれば夜明けが来るだろうという希望を抱く。
ようは、待って、観察して、書くということ。
あきらめたりしないことなの。
私はあきらめなかった。
父が私を信じてくれていたからというのが最大の理由。
 ――アン・ラモット『ひとつずつ、ひとつずつ、書くことで人は癒やされる』


▼▼▼僕ほど書いてきた人もあまりいない▼▼▼


僕は文章を書いてきた。
書きまくってきた。
書きまくりやがってきた。
自分で言うのも口幅ったいが、
僕ほど書いてきた人もあまりいないのではないだろうか。
本を定期的に刊行するタイプの人ですら、
僕ほどには書いていないかもしれない、
って思うぐらい書いてきた。

でも、あまり文章のことで褒められることは少ない
(その他のことでも褒められることは少ないが)。

別に褒めてほしくて書いているわけではないから、
特にそれが不満なわけでも、
じゃあ書くのやめる、となるわけでもない。
僕が書く理由は僕の内側にあり、
「自己治癒行為」みたいな必然性もあったりするし、
「書くことで考える」というのが僕のスタイルなので、
むしろ僕の「思考するための執筆」を、
人に読んでもらっているという側面が強い。
お付き合いさせてなんだか申し訳ないという気持ちすらある。

しかし、である。

自分で言うのもなんだが、
僕ほど「書ける」人もなかなかいないのではないかとも思うのだ。
誰も言ってくれないから自分で言うけど笑。
こんなに書ける人は本当になかなかいない。
信じてほしい。なかなかいないのだ。

マラソンを100キロ走ったり、
フルマラソンでサブ4、サブ3のタイムを出したり、
トライアスロンを完走したりできる人はなかなかいないから、
それをすると周囲の人からめちゃくちゃ褒めてもらえるが、
文章をコンスタントに月に10万字ぐらい書いていても、
あまりそれを褒めてくれる人もいないし、
そもそも誰も何も言ってくれない。

あまりにもリアクションがないので、
いったいぜんたい誰か読んでくれてる人がいるかどうかも、
正直、あまり良く分からない。
だからこのメルマガは、
実は毎回、宇宙ゴミとなって、
本当に地球で読んでる人は誰もいないのではないかと、
時々、疑いたくなるぐらいだ。
あと1000年経ったときに、
地球外生命体がこのメルマガを宇宙ゴミの中に発見し、
改めて正式に宇宙ゴミとして再度捨てられるのかもしれない。

だとしたら本望だ。

地球外生命体は、
ホモ・サピエンスについての非常に偏った知識を手に入れ、
そして僕のメルマガを正式な宇宙ゴミに認定してくれるのだから。
書いた甲斐があったというものだ。


▼▼▼昔のブログ▼▼▼


2008年に公務員を辞め、
支援者を募って活動するために、
活動報告をオンラインでやりたくてブログを書き始めた。
そのときのブログ、
『陣内俊Prayer Letter ONLINE』は、
多分今はネット空間の宇宙ゴミになって、
mixiの投稿とかコミュニティとかそういうのと一緒に、
サイバースペースをゾンビのように漂っているはずだ。

あの頃、わりと読んでくれている人は多かった。
実数はよく分からんけど、
体感としては今よりも多かった気がする。
今よりも頻繁に、褒めてくれる人がいた。
宇宙ゴミになっている感覚はあのときは少なかった。

それには構造的な理由もある。

人間がネットを利用する時間は微増し続けているが、
全ネット利用時間に占める、
「文章を読む」の割合が、
「動画を見る」「写真を見る」
「140文字を見る」「ショート動画を見る」
っていう類いにどんどん押しのけられていった。

かくして不特定多数への「長文」は、
そもそも届けるのが難しくなったのだ。
ある程度の長文が喜んで読まれたのは、
眞鍋かをりとかが「ブログの女王」などと呼ばれていた、
ネット黎明期の2008年とかそれぐらいまでで、
この15年ぐらいは動画・ショート動画や写真などの、
視覚/聴覚コンテンツ一直線なのだ。
「認知的ケチ」というのだけど、
人間の脳は「省エネ」だから、
水が低い方に流れるのと同じで、
「楽なほうに流れる」わけだ。

じゃあ、書くのをやめよう。
TikTokでも始めよう。
とはならないのが僕の頑固なところで、
なんとか書き続けるためにフィールドを探して行き着いたのが、
メルマガとnoteでの投稿だった。


▼▼▼メルマガとnote▼▼▼


「そんな石器時代みたいなやり方してても、
エネルギーの無駄遣いだよ~」と、
素足に革靴にサマーニット、
黒縁めがねで不自然に日焼けした、
何でお金稼いでるか分からない六本木の社長が、
脳内で僕を罵倒してくるが、
そんな声はガン無視し続けている。

そして「クールポコ」のネタのごとく、
僕は2万字超えのメルマガを書き続ける。

「かっこつけて、
 Instagramのストーリーばっかり上げてる男がいたんですよ」
「なぁぁあぁにぃぃいいいい!!
 やっちまったなぁぁ!!!」
「男は黙って」
「メルマガ!」
「男は黙って」
「noteの有料記事!」
「いまどき誰も読んでくれないよぉ~」

でもね。

ずっと書き続けた結果、
2008年のブログのころより、
マジで文章上手くなってると思うんですよね。
自分で言うのも口幅ったいことばかり今日は言ってるけど、
文章の技術は相当なものになっていると思うのよ。

いやマジで。

もう10年ほど誰も褒めてくれないので、
自分で褒めるしかなくなったから言うんだけど。
一番かっこ悪いやつね。

昔のブログより確実に面白いと自分で思うし、
確実に上手くなっている。
もう、何かの賞とかそろそろもらっても良いと思っている笑。
何も応募していないから賞は向こうからはやってこなんだけど。
風車と戦うドン・キホーテのようだ。


▼▼▼車と雨▼▼▼


種明かしをすると、先週からのひきつづき、
『LIGHTHOUSE』で若林さんの言葉でこの記事を書きたくなった。

若林さんが「芸は車で時代が雨」って言葉を大事にしている、
って言ってて、これって自分の「文章」と同じかもしれないな、
って思ったからこの日記を書いている。

「時代がその人に追いついた」みたいな現象について考える。

出川哲朗さんとか、なかやまきんに君とか、
ハリウッドザコシショウとか考えると分かるんだけど、
彼らは突如人気者になったように見えるけど、
それは彼らが時代を「迎えに行った」からではない。
何十年も、ウケようがウケまいが、
理解されようがされまいが、
彼らは「自分が面白い」と思うことだけをやり続けてきた。
地下芸人のころと今とで、ザコシは同じことをやっている。
周囲の扱いが劇的に変わったのだ。
彼らは同じ芸風という車で爆進してきただけだ。
そしたらたまたまその芸風が、
「時代」という雨が降っているところに突入しただけなのだ。

車をいつまで運転しても雨が降らないと思うこともあるが、
そこで車をUターンさせたりさせる必要はない。
いつかは必ず雨雲の下に来るから、
ひたすら車を走らせろ。
空模様ばかり気にして、
笑いのフォームを崩すな。
そういう芸人論を先輩からのアドバイスとして大切にしていると、
若林さんは『LIGHTHOUSE』で言っていた。

僕の文章もそういうものだと思っている。
だから10年間誰も褒めてくれなくても、
僕は書き続ける。


▼▼▼妻と親友▼▼▼


あ。

褒めてくれる人はひとりいる。
僕の妻だ。
僕の妻は、
僕の文章のファンだと言ってくれる、
世界で数少ない人だ。

だから妻が読む限り、
宇宙ゴミになろうが僕は毎週2万字、書き続ける。

あと、さらに驚くべき事実を言えば、
僕は文章を書いてきたからこそ、
妻と結婚できた。

コレ本当。

妻が神田先生から僕を紹介されたとき、
「まず彼のブログを読んでみて」と言われた。
その文章に雷に打たれたように衝撃を受けたことは、
妻が僕と結婚してくれる気持ちになった、
大きな要因だと妻は言っている。
妻は僕の「文章に惚れた」のだ。

若者よ。

良い奥さんに出会うために、
毛先を遊ばせたり、
脱毛サロン行ったり、
メンズエステ通ったりしても無駄だぞ。

良い文章を書け。

「サンプル数1」の、
自分の体験押しつけ型のアドバイスで恐縮だが、
これぐらいは自慢させてくれ。

あと、僕の親友の幾人かは、
多分僕の文章を読んでくれていたからこそ、
親友になった気がする。
直接聞いたことはないが、
北海道の土畠君も僕の文章を読んでくれていたから、
僕を深くよく理解してくれて、そこから対話が深まり、
肝胆相照らす仲になった。

文章を書き続け、文章が上手くなっても、
トライアスロン完走ほどにはみんな歓声を上げてくれないが、
やはり人生は豊かになる。

僕は自分の文章に二つの意味で救われてきた。
ひとつは文章のもつ「自己治癒力」によって。
もうひとつは文章を介在した希有な出会いたちによって。

若者よ。

書け。

あんまり報われないが、
でも、書き続けると、
良いこともある。

良い奥さんに出会えたり、良い友だちができたりする。
でもこれって、人生でいちばん大切なことじゃないかい?

これからも書いていこう。

命ある限り、
僕は書き続ける。
いつか雨が降るかどうか分からん。
死ぬまで降らないかもしれない。
それでも僕は書き続ける。

何度も言うけど、
実利的な理由からではない。

魂のほとばしりを、
文章としてぶつける。
これほど心地よいことはないのだ。

曲を作ったり絵を描けたりする人は、
その表現に救われることがあると思う。
ダンスを踊れたりモノを作れたりする人もそう。
僕にとって文章はそういうもので、
自分の内面の奥底にあるものを、
外に取り出して表現できる「回路」なのだ。
これって自由なことじゃないかい。
最高の喜びじゃないかい。
僕はそう思うのだ。
書くことは「Way of Life」なのだ。

これは、本当だ。

信じてほしい。

終わり。


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参考文献および資料
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・『ひとつずつ、ひとつずつ、書くことで人は癒やされる』アン・ラモット
・『LIGHTHOUSE』Netflixドラマ


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