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再勉生活! 家族は苦闘

5月の終わり、4人家族はイリノイ州のほぼ中央に位置する大学町、Urbana-Champaignに到着し、横幅の感覚がついにつかめないままだった、巨大なアメ車を借りました。

ホテル住まいを数日で切り上げ、大学の学生向け家族寮に移りました。公園のような場所にブロックを積んだだけのような2階建てが幾つも並び、上下それぞれが2 Bed Roomのアパートになっています。

多くの米国大学と同じく、イリノイ大学(UIUC)は秋学期(8月下旬-12月末)と春学期(1月-5月初旬)の2学期制ですが、6-7月に夏学期が設けられ、短期留学生や高校生が受講できる仕組みがありました。
秋学期から入学する留学生用英語クラスもあり、教授の勧めで受講することにしていました。
私は最上級クラスに配属され、テーマを決めてのディベートや、状況を仮定しての寸劇の中で英語表現を学びました。
各国出身の若者とのフリートークは実に愉しく、しばしば調子に乗って、今ならイエローカードを出されそうなnaughty Joke(エロい冗談)を口走ったりもしました。

今でも覚えているのは、議題「お国自慢」の時に、フィンランドから来た女の子が、高校時代にはよくサウナパーティーを開いて楽しかった、と話したことです。
「え? それ、全裸でかい?」
「当然でしょ ── サウナなんだから」
「恥ずかしくならない? ……その……男子が興奮したりしないの?」
「するわけないじゃない。だって、サウナの中なのよ!」
……うーん、これは未だ謎ですね……ホントだろうか?

── この時期、家族は苦闘していました。

家族寮に住み始めた当日、
「家の近くにリスがいる!」
と歓声を上げていた子供たちにも、試練が待っていました……

Family Housingの自然環境はとってもいいのだけれど……。

不可解なことに、家族寮の1階は、地面と床の高さが同じでした。
引っ越した翌日から雨が降り出し、次の日に浸水(床下即、床上浸水)が始まりました。
リノリウムのようなパネルが貼ってあるだけの床はベチョベチョに濡れ、子供たちは滑って何度も転ぶ始末。

あるいは、家の中でも靴を履いている連中はさほど苦にならないかもしれない。私たちに割り当てられた建物が特に水はけの悪い場所だったのかもしれない。
いずれにしても ──
「こんなところに住んでいたら、病気になってしまう!」
大学職員の悪例代表のような寮担当に苦情を言っても、部屋の交換を頼んでもまったく埒が明かず、民間アパートへの引っ越しを決意しました。
(偶然ですが、豊田さんもこの後、同じアパートに引っ越してきます)

妻の英語はカタコト状態でしたが、娘たちをDaycare(保育園)に送りこむべく、巨大アメ車で連れて行きました。
大学町なので、先生たちもガイジンには慣れっこで、
➀ 子供を(通称など)どう呼べばいいのか?
➁ 母国語で「ウンチ」「おしっこ」をどう言うか?
の2点のみ確認すると、あとは不安げな子供を預かり、
「バーイ!」
だったそうです。

他の子供が何を話しているのかわからない状態の娘たちは、しばらくは夕方迎えに行くと、
「日本に帰りたーい!」
と半泣き状態だったようです。

5歳の長女はもともとおしゃべりで、友だちと「ごっこ」遊びを楽しむタイプだったので、新環境はかなり辛かったようでした。
ただ、ひと月足らず後にプール遊びが始まると、泳ぎの得意な彼女は、周りから、
「お、こいつ、なかなかやるじゃん」
と一目置かれるようになり、そうなると英語も加速度的に理解するようになりました。
「Physical」でも「Musical」でもいい、言語を必要としない「取り柄」を持つことは大切だ、と我々も学習しました。

3歳の次女は日本でも無口で、ひとり黙々と積み木やジグソーパズルを行うタイプでした。
アメリカのDaycareでもその路線を継続していましたが、長女が仲間に溶け込んだ後も、相変わらずみんなからぽつんと離れ「ひとり暮らし」を続けている姿を見ると、涙が出てきた、とよく妻は言っていました。

今ならネットで、しかも日本語で生活情報を得ることができるのでしょうが、当時はとにかく電話をかけるか、電話で話が通じないと、直接行って身振り手振り説明するしかありません。

私が学校に行っている間、妻は孤軍奮闘していました。
子供が熱を出すと、最初はアポも取らず、とにかく病院に担ぎ込み、必死の形相で説明していたようです。
「熱出して連れていくと、毎回耳の穴を覗き込んで、『Ear infection(耳の感染症)』だっていうのよ、毎回よ毎回! ……大丈夫かしらね」
文句を言いながらも、とにかく頼るしかありません。

州発行の運転免許証が無いと小切手が使えない店が多いとわかり、免許申請もまず妻が取りに行きました。
路上技能試験は、妻も豊田さんもまず落ちました。
「ボクは踏切で一時停止したら、試験官に『停まっちゃだめだろ!』って叱られましたよ。日本とは逆のようです」
偵察隊からの情報のおかげで、私は「一発合格!」でした。

夏学期最後にTOEFLに準じた試験がありました。幸い1番となり、修了式では副賞に大学のTシャツをいただきました。
教授の要請で2か月早く渡米したこともあり、まだ留学の入口前段階ながら、この結果をスポンサー(所属企業)に送り、安堵したことを覚えています。

〈この続きは……〉

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