私の母の日本軍⑤卒業と玉音放送

玉音放送

耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、もって万世のために太平を開かんと欲す

ポツダム宣言を受諾した、大日本帝国

1945年8月15日に戦争が終わったと思う日本人は多い。だが、戦争はまだ終わらなかった

関東軍が武装解除命令を拒んだ事で中国共産党軍は関東軍に攻撃を仕掛け、8月15日から11月末までの間に戦死した日本軍将校の数は2900名に上る

ソ連は、降伏調印が行われている9月2日に、北方領土の歯舞島攻略作戦を発動している。また、武装解除され投降した日本軍捕虜らが、主にシベリアなどへ労働力として移送隔離され、抑留された日本人は約57万5千人に上る。厳寒環境下で満足な食事や休養も与えられず、苛烈な労働を強要させられたことにより、約5万8千人が死亡した

1945年8月15日は停戦宣言の日であり、1952年4月28日に発効されたサンフランシスコ講和条約を終戦日とする説もある


大学を卒業したからと言って、晴々とした気持ちではない

奇しくも、コロナウイルスにより自粛を強いられ暗い雰囲気が漂っている今は、終戦前と似たような雰囲気なのだろうか

大学9年目(6年生の1回目)

8年目の1月から実習が再開する。行きたくなく、どうしようもなかった

ただ、1月から3月までの実習は無遅刻無欠席だった(医学部では、当たり前)特段、褒められる事はないが

4月からは、2週間毎に違う診療科の実習があった。基本的に全て理解不能だった

ほとんどの先生は優しかった。懇切丁寧に、医学について教えてくれる。レポートも業務が忙しい中丁寧に添削される。だが、医者にならないにも関わらず、時間を奪う罪悪感に満ちていた

「自分がいなければ、医学部に入りたい人が医者になれた」

色々疲れた…

プライベートでは、人と会っても意味が無いと思った。お金も無く、家に引きこもった

精神的不調は自覚していた。人生が楽しくない事は大学入学前、いや、中学頃からそんなに変わりはなかった。運動や食事、瞑想、カウンセリング、精神科など鬱な気分を解消する方法は幾らでもあっただろう。だが、noteで自分の過去を書いて公開するぐらいしか、気持ちをスッキリさせる手段が見当たらなかった。だから、卒業をただ待つだけだった

どうしても会いたい人、もしくは友達に誘われたら外へは出ていたが、基本は家にいた。家にいてもプライムビデオやyoutubeで動画を見る気にもならなかった。ただ暇な時間を暇なまま消費していた。暇は苦痛で、電車に乗って元町中華街と渋谷を往復したり、スーパーで何も買わないのに陳列された商品を眺めていた。最寄駅の隣、3個先の駅まで散歩するのが日課になった

本やインターネットでインプットするのも飽きた。情報過多で、アウトプットが無ければ何の意味も無い

イベントにも行かなくなった。確かに友達は増やせるし、手数を増やせば色々な可能性が広がるのは間違いない。だが、目的が無いにも人に会うのは気が向かなかったし、やりたい事を人に話すのはストレスが掛かりすぎて不可能に近かった

友達に会うのも億劫になった

「何をしているの?」と聞かれて「何もしてないよ」と答えるしかなかったから。普通の医学生なら、勉強をこなして医者になるから問題は無い。僕の場合、医者にならず何もしていないから、進路について聞かれたくなかった

寧ろ何もしていないから、友達と会っても話す事は無かった。初めて会う人なら過去にあった面白いことを話せばいいが…どんどん人に会わなくなっていった

バイトは知り合いのツテで、家庭教師をしたり誰でも出来る簡単な作業をしていた。そもそもお金に対する執着心が薄かった。この9年間、あまり稼いでいない。恵まれていると言えばそうだ。良い事なんだろう。それ故、欲しい物も無かったから、最低限のお金があれば生きていけた

バイトに向かう途中で、「何をやっているんだろう」と電車の中で泣いた。自分が情けなかったし、学校を辞めたくても辞められない。お金と時間をドブに捨てているが、何も出来ない自分に悔しかった

医学部に行かされた医学生の匿名記事を読んだり、医学部で医者にならない人間を探していた。手塚治虫を筆頭に、安部公房とかゴジラの監督、探せば無限にいた

他大学でも似た境遇の子はいた。ブログを通じて、わざわざ連絡をくれた

その子の親は医学部以外の大学は存在しないと考えていた。GPSで監視させらていたそうだ。僕の親より遥かに厳しい。だが、仲間が見つかったからといって、心のモヤモヤは取れなかった

はてなブログ、google、togetter、など色々なサイトでも毒親や教育虐待の記事を読み漁った

教育虐待という言葉を知った。だが、自分の母を虐待者と認定する事はできなかったし、殴られたりもしていない。ネットに挙がっている壮絶なエピソードを見ればそこまで激しくはない。僕自身、精神疾患にもなっていない(多分)

「ここまで酷く無いな…」

様々な要因が、僕を憂鬱な気分にさせた

医師国家試験は、受けない

医師国家試験(6年生の2月に2日間かけて行われる医師としての医療行為を行う資格を得られる。医学部卒業とは別。ちなみに、医学部を卒業すれば、年に1回永久的に受けられる)(以下「国試」と略す)の日時が迫っていた。僕は受ける気がなかった

周りの医学生は国試の勉強をバンバンしていたが、僕だけがしていなかった。そもそも、5年生の最初に買う問題集すら買っていなかった

仲の良い友達に国試を受ける様に言われた。嬉しい反面嫌だった。医者にならない気持ちがあまり伝わっていなかった。そもそも受けないと決めているのに。察して欲しかった

「医師の資格を取った方が良いよ」という風に言われたが、そもそも医師以外の職業をやるなら医学部にいる意味は無かった。国立で学費が安いならまだしも。私立で2番目に安いとは言え、360万/年の学費を払って医者にならない事は頭がおかしくなりそうだった

母親に国試用の問題集を買えと言われた。断ると何度もしつこく言われるから、面倒くさくてお金を借りた。借りた10万円は、生活費に消えた。問題集を買う気は起きなかった、どうせ勉強しないのだから

留年をしてから、母にLINEをすると嫌味を言われ続けていた

「学費を稼ぐ為の、パートが大変だ」

ついに、母のラインをブロックした

医師免許は取らない理由は様々ある

勉強する気力がない
別に必要がない
医者になる時/必要になった時に取れば良い
国試に落ちて合格率が下がると、大学に申し訳ない

だが、1番大きい理由は親の言う通りになりたくない事だろう

反抗期だ(それなら、大学を辞めて家を出ろよと言う話かもしれないが)

親の敷いたレールの上で生きて、人形の様に支配されるのが嫌だった

高学歴ニート

実習は11月まであり、2週間の休みがたまにあった

本当にやる事がなく、ずっと家に引き籠った

学校がある日は、生活リズムも良く朝は起きれた。ただ、毎日が暇で翌日の予定が何も無いと、起きる理由も無く早朝の5時まで眠れなかった。不眠症だ

夜も余りにも暇で、公園に行ってベンチで2時間佇んでいたり、ブランコを1時間漕いだりしてた

ある日、10月に林修の「高学歴ニート」という番組の打診があった。僕は、学生なのでニートでは無いのだが、医者にならない旨を伝えると面白がって番組に出て欲しいと言われた(炎上による視聴率を狙ってたのかも)講師は、橋本徹だった

番組に出るのは(まだ学生な事もあり)怖かったが、親の心を折るために出る事にした。まだ医者にならない現実が分からなかったからだ。発言はほとんど出来なかったが、中学の同級生や5年ぶりの友達から連絡がきた

一つ言っておくと、これはテレビのやらせ。台本が予め決まっていて、収録の最後に言わなかったセリフを撮り直した。また、高学歴ニートと言いながら皆働いていて、年収1000万円もいる。大企業で働いていないだけ。非常に下らない番組だ

何するの?

夏頃から自分の過去の話をする様になった。医者にならない事をカミングアウトしたからだ。それまでは、なぁなぁに流していた。「まだ診療科は決まっていない、精神科かなぁ〜」と

というより、医者にならないと言っても誰も信じなかった。「医者は高給なのに。どうして…」一時的な気の迷い・ギャグだと思われるんだろう

時折、友達に会うも3回留年した事を告げれば「お金持ちだね笑」と言われ、医者にならない旨を告げると「なんで医学部に入ったの?笑」と聞かれる。答えられない自分がいて、お茶を濁していた

ある日、年下の男子と飲む事になった。彼は身体的欠陥を抱えていた。人に言えない悩みを彼も抱えていた。自分の悩みを打ち明けてもいいかなと思って、母親の事などを話したら「上級国民ですね」と言われた。「贅沢な悩み」なのかもしれないと感じ、泣いた

初めて会った子に「医者にならない」旨を伝えたら「じゃあなんで医学部にいるの?興味ない学部に入るなんてあり得ない」と言われた(様に感じた)自分が行きたくない学部に行っちゃう場合もあるんだよ

友達にやりたい事を出来ない事を伝えて、「医学部だからさ…」と言うと「そんなの関係ないよ。私だって〇〇学部だけど、関係ない事してるよ」と言われた。確かに関係ないから、僕のメンタルが弱いだけかもしれない。だが、普通に就職をしている人に言われるのは腑に落ちなかった

就活しないで怖くないの?と聞かれる様になった。根拠のない自信、揺るぎない覚悟があると言われると微妙が、不安はほとんど無かった

就職が悪いという訳ではない。自分のやりたい事にマッチしているものが必ずしもない訳では無い。だが、やりたい事が複雑に絡みすぎ、部分的にしか重ならない。自分自身がコントロール出来ないことに違和感もあった

1月、慶應大学のカウンセリングに行く。あまり意味はないだろうなと思ったが、無料な事もあったから

気晴らしにはなり、今までにあった事やその時の感情を洗いざらいぶちまけた

ただ、あちらは”仕事”だからか、聞いてくれているのは嬉しいが何か釈然としない

結局、カウンセリングに行っても心が晴れる事はなく、途中で行かなくなった

卒業

実技の試験は僕だけが落ちて、掲示板に貼り出された。とはいえ、単位を落とす事なく何とか卒業出来た

卒業という名の玉音放送は流れた

だが、僕の中で戦争はまだ終わっていない様に思える。何故だろうか


卒業式は、コロナウイルスの影響で中止になった。僕は、何も感じなかった。元々親と行くのは嫌だと思っていたから、寧ろ安心した

卒業の一報が家に届くと、家族で話し合いをしたいと言われたが、断った。話し合いは今まで出来なかったからだ。親の意見を一方的に言われる

そのまま家族とは一言も話さず、荷物を全て纏めて、逃げるように家を出た

母のLINEはブロックし、父のメールは無視している。絶縁状態だ。もう会う事は無いかもしれない

なぜ、この様な面倒くさい事になったのだろうか?

それは、今の日本の教育・受験システムが本質的な原因だ

叩き台としての新事業を次の記事で纏めていく

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