私の母の日本軍①慶應義塾大学「教」医学部「学派」

日本軍

それは天皇陛下に身を捧げ殉じた、今は亡き組織

日本軍が存在していたのは、たった80年前だ。だが、社会の変化は著しく早く、我々の記憶の彼方から消えようとしている

日本軍の上下関係は厳しく、指導という名の虐めが頻発する。そして、虐めの種類も多かった。ベッドのメイキングが少し乱れていただけで殴られ、靴磨きで汚れが残っていれば蹴られる。”体の両横にある机の上に手を置き、ただただ自転車漕ぎをする”といった虐めもある。その最中、敬礼や手放し運転など理不尽な指示も飛んだ

いじめ

では、日本軍と母親がどう繋がるのか?

それは”閉鎖的”という観点だ

高校2年生が終わった春休みに遡る

高3、部活を辞めろってよ

高校2年~3年の間の春休みから、母から「早く帰ってきなさい」というメールが多くなった。おかしいとは思いながらも、部活動(ESS)をこなしていた

そして「劇の本番前(11月)は忙しくなりますよ」という同意書を親に渡した。大したこと無い紙切れだ。親にハンコをもらうだけ。だが、それで事は済まなかった

僕が寝ている時に、急に部屋に入り「心配で眠れない!!!!!!」と叫ばれた(その日から、階段を上がる音が聞こえると動悸がする)

嘘だろう

と思った

(何が心配なの?成績足りてるのに…)

母からの、部活を辞めろというメッセージだった

そのあとの事は全く覚えていない。母親とは、部活をやって勉強には何も支障が出ない事を話し合ったはずだが、その記憶が無いという事は何も分かり合えなかったんだろう

部活はむしろ息抜きだった。居場所でもあったから、それが無くなれば1年間は勉強するだけで、他には何も無い。むしろ部活を継続した方がメリハリがつく。そして、部活を辞めて勉強に専念しろというメッセージは、医学部以外に行く事はダメという意味だった

部活を辞めてまで、医学部に行く情熱は無かった

そもそも、医学部に行くという目的が無ければ部活は選び放題だった。成績を取らなければならないという制限があるから、(正直な話、カーストが低いけど楽しそうな)文化系のESSに入った。そしてESSは緩い部活で、基本は週1回、文化祭前になって平日の2,3時間と土日の日中が潰れる位だ。体育会系と違い、肉体的疲労も無いので夜に勉強は出来る。勉強との両立は、完璧に可能だった。だが、母と分かり合える事は無かった

ああああ

(※1 ヒストリエ3巻)

理工学部は定員割れで、留年ギリギリでも行けた。僕の成績は1年次8.3、2年次8.8だったので、3年生は極論テストが全部白紙でも第2志望の理工学部は確実だった。つまり、部活を辞めるという事は、医学部以外は禁止という意味だ

気づいてしまった

あぁ。医学部に行きたいのは自分じゃなく、母親だったと
医学部に行く理由が無くなった
そして、医学部に行く理由、医学部に入り医者になる意味を改めて考え始めた

自分の人生に選択権が無かった事に初めて気づいた

今までの人生は、虚構だった

夢から覚めた

医者になる理由

今までは、親の敷いたレールの上に乗って生きていた。良くも悪くも楽だった。だが、そのレールが無くなり、自分自身の足で歩く時、どこへ向かえば良いのか分からなかった。また、親が決めた事が全てで、自分が欲しいものを明確に言えない「なんでもいい症候群」に罹っていた僕は岐路に立たされた

勉強をする”意味”や学校に行く”意味”すら考えたことがなかった。ロボットから人間に進化した、とも言える。中学受験も習い事も中高の勉強も”やる意味”を考えた事がなかった。言われるがままだった

頭が良いから医学部に行く。それは、高偏差値集団の中では当たり前なのかもしれない。だが、それに疑問が生じた瞬間、何の為に医者になるのかを考える必要に迫られた

僕は日本軍の下等兵だった。母親という日本軍の上層部の通りに、軍務令を処理し続けていた。ついに、疑問が出てきた。だが軍の上層部(親)に作戦変更、作戦が正しいかどうかを話し合おうとしても取り合ってくれなかった

しかし、考えても何も分からなかった。医者はおろか医学部の先輩との絡みも無かった。医学部の先輩の先輩は見つかったが、ほとんど聞けなかった。医学部が何をするのかも全くわかりえなかった。医者がやりたい事なのか分からなかった

そして、他にやりたい事もなかった。興味がある事は何も無い。数学が得意だったから理系志望というだけだった。だから、医学部か理工学部。もし医学部が最低限の成績で行けるなら、理工学部に行っていたのかもしれない。数学が得意なら、今だったらプログラミングを学んでエンジニアになるんだろう。そんな職業が存在する事すら知らなかった


当時は総理大臣の名前も知らない世間知らずだった。新聞もテレビ欄しか読まないし、ネットで検索するのもアニメかエロ動画ぐらい。学校という狭い枠の中でやらなきゃいけない事を自分の意思とは無関係にやっていた(やらされていた)。それに疑問を感じなかった。そして、学校に無関係な情報は全て遮断していた。当然だ、テストには出ないのだから

そもそも医学部に行くという目的が無ければ部活だって選び放題だった。成績を取らなければならないという制限があるから、(正直な話、カーストが低いけど楽しそうな)文化系のESSに入った。そしてESSは緩い部活で、基本は週1回、文化祭前になって平日の2,3時間と土日の日中が潰れる位だ。体育会系と違い、肉体的疲労も無いので夜に勉強は出来る。勉強との両立が可能な部活さえ辞めなければならないとしたら、僕に人権は存在しない

だが、成績を取らなければ怒られる事を敏感に感じ取っていた僕に、勉強を頑張らないという選択肢は存在しなかった

母親に反抗する為だけに、理工学部に行く事を決断できなかった。進路選択の紙は、親の同意が必要なので第一志望は医学部と書かざるを得ない。取り得る手段は、最後のテストを全て白紙で提出する事ぐらいだった。最後のテストは返却されないので、点数が誰にも分からない(から、親に責められる事はない)ちなみに、生物のクラスで前の席だった子は、似たような境遇だったのかもしれない。彼は、同じように成績を取っていたが、最後のテストでわざと悪い点を取って医学部に行かないと言っていた。実際に、彼は医学部にはいなかった(彼は今何をしているんだろう、と密かに気になっている)

母親に「なんで医学部がいいの?」と聞くと「モテるし、就活無いからいいじゃん(笑)」って。他人事だった。さらに、

「お金を払ってるんだから、親の言う事を聞け」
「今まで掛けた塾のお金が勿体ない」
「学費にいくら掛かってると思ってるんだ!」


と色々な事を言われた。いちいち、罪悪感をなじってくる。学校も受験も塾も、自分から行きたいと言い出したわけじゃない。むしろ、塾は必要ないから辞めたいと言ったら反対された。親の言う事に反抗できない、自分の我を押し通せない良い子だった

「遠い親戚の〇〇君は、医学部に行きたくても行けなくて薬学部に行ったんだから!」
「折角成績が良いのに、勿体ない」
「勉強しか出来なくて、中途半端なんだよ!!」
「学部なんかで悩むな。医学部に入ってから、やりたい事を探せばいい」


何をしても母は僕を医学部に入れようとした。医学部に入ってからその事を詰めたら「そんな事は言ってない。外科とか内科とかで悩んでたから、学科は後で決めればいいって意味だ」と言われた。高校生が行きたい診療科で悩む訳が無い

「理工学部に行くなら、学費は出さない」と一回だけ言われた気もする。気もする、というのはあまりにもショックで記憶が曖昧だからだ

好きで塾に行っているわけではない。親に塾へ連れて行かれたから行ったのであって、医学部に行かないといけないというルールがあるなら塾には行かなかった、そして成績も取らなかった。僕は、医学部も含めた全ての学部に行けるために成績を取っていた。だが、塾へ行き多額の金を注ぎ込み医学部に行ける成績を取った事で選択肢が逆に狭まった

「医学部に行かないと勿体ない」

これは何百回も言われて、祖母にも言われた。だから、勿体ないという言葉は地球で一番嫌いだ

慶應義塾大学「教」医学部「学派」

慶應義塾

母親は、慶應「教」という宗教の信者だった。エルメスのバッグやベンツの車などのブランドと一緒だ

人は何かにすがらないと生きていけない

だから、分かりやすい学歴を信仰する。それは一種の宗教だ。ただ、僕の母親は慶應「教」だけでなく、その中でも医学部「学派」を特に信仰していた

医学部に行けば救われる。
医師の資格があれば、一生食う事に困らない
医者になれば幸せになれる

確かに、現代の日本では確かに事実かもしれないが、18歳の僕には分からなかった。母親を改宗させる事はできなかった。オウム真理教の様に、 ISの様に、一度信じ込んだ教義を他人が辞めさせることは難しいのかもしれない。慶應や医学部はカルト宗教では無いが、医学部が全てとなると心苦しかった

母親と喧嘩をして「死ね」と何百回も言った。それでも母親はへこたれず、「絶対に親に感謝する!!」と。自分が間違っているという認識は1ミリも無かったから、話し合う土壌はなかった

話が通じないと分かってから、家にいる間はずっとイヤホンをして音楽を聴きながら暮らしていた。起床をしたらすぐイヤホンをつけて音楽を流して朝ごはんを食べる。帰宅する時は必ずイヤホンをする。勿論、ご飯を食べる時もだ。寝る時は耳栓をしたり怖くてイヤホンを外せなかった日もある。少しでもイヤホンを外すと、すかさず嫌味や意味不明な事を言われるから外すことはできない。これは家を出るまで続いたので、10年間になる

医学部or理工学部

部活には隠れて行っていた(親にはバレていたと思う)学ランを着ていくとバレるので、卒業した先輩からわざわざ学ランを借りた。だが、外に出る方向が駅の方に向かっていると嫌味を言われた「そっちは図書館じゃない」と

毎週、母親から20行以上のメールが来る。「医学部に行かないと一生後悔する」という内容だ。来るたびに毎回消去していた。2年生までは夜遅くまで遊んでいても何も言われなかったが、3年生になってからは、すぐ連絡が飛んでくるようになった。元々の粘着気質もあり厄介だった

夏休みも必要ないのに塾を増やされ、医学生による家庭教師も週1でつくようになった。勉強時間を増やす為か、部屋のテレビは回収された--テレビはあまり見ないから、問題なかった--

母親は重度の心配性だった。僕を医学部に行かせたかった理由は、周りの母親へのマウントもあるかもしれないが、一番大きいのは”医者が安定している”イメージだろう。医師と聞くと国家資格があるので食いっぱぐれる事はないと想像してしまう。母親はバブルの時に就職したが、その後の不況・就職氷河期で資格が無いと食ってはいけないと思ったのだろう。確かに、大企業でもリストラされる時代だ。心配性が、教育ママを生んだ。(気持ちが分からないでもないが)、「あなたの為」と言われると心苦しかった。自分の子供を医者にしたい気持ち、それは完全なエゴだ。「あなたの為」、これは卑怯な言葉だった

医学部に行く”空気”は完全に醸成された。今更、作戦を変更する事はできなかった

父にも散々言われた「部活を辞めないなら、人間をやめろ」言われた事を記録し将来突き付けようと思ったが、可哀想だと思って辞めた

父は無能だった。母と僕の間に入って調停する事はなかった。むしろ、母親の味方であり僕の敵だった。母親に小一時間下らない事を言われれば、精神が参るのは気持ちとして分かる。が、それでも大黒柱としては頑張って欲しかった(祖父の”男らしさ”があれば、なんとかなったのかもしれない。この経験が、いつか話すであろう”男女別の教育”の興味への原点だ)

母はいつでも「今我慢すれば、後で楽になる」と言っていた。その言葉は欺瞞に満ちていた。中学受験、学校のテスト…永遠に我慢が続き、いつまで経っても楽しくならない。働いて年収〇〇円になれば楽になる、結婚すれば楽になる、会社(病院)を定年まで働いたら楽になる…

老人になったら楽しくなるの?
遅すぎない??
死ぬ間際が、1番楽しいの???

我慢するのは大事だが、今を犠牲にする人生にうんざりしていた

どんどん、自分の進路をどうすればいいか分からなくなった。他大の医学部は受験をすれば多分受かる(中学の同級生は国立大医学部に行った)だが、慶應医学部を受験で入り直す可能性は低い。理工学部に行けば、母親の思い通りにならずに済むが毎日文句を言われる事は必至だ。慶應医学部に行けば、何も言われない安寧な暮らしが待っている

学校の担任との3者面談でも、母は担任を圧倒していた。僕が喋る時間は与えられなかった。英語塾の先生にも電話が行き、周りの堀を埋められる如く逃げ場が無くなっていった

そして、今までに掛けた時間--サンクコスト--が僕を圧迫した。医学部に行く必要がなければ、勉強は最低限しかしなかっただろうし、もっとカースト上位の部活で楽しくやってたかもしれない。部活が基本的にはほとんどないカースト下位の部活に入ってる僕は野球部の人間に「毎日何やってるの?w」と聞かれる。バカにしているのかは分からないが、舐められていると感じていた。だから、医学部に行かなければ全てが無駄になる、そんな思いもあった

鶴岡というバイオ系の研究をしている慶應のキャンパスにツアーへ行った。そこの人に進路の悩みを相談したら「親とよく話し合ったら?」と言われた。これは、家族問題(毒親)あるあるだが、親と話し合う事自体が出来ないから問題になっているのだ。話し合いが出来れば、そもそも問題は生じない。母は、テロリストなのだ。交渉の余地は無い

その帰りに鶴岡の医者の家に父親が同伴して無理やり連れて行かれた。今まで会った事も、存在すら知らなかった。脳外科医だった。それが彼と話した最初で最後の日だった

理工学部に興味を出す為にも、研究室のワークショップにも行った。面白かったが、これをやりたい!とまではいかなかった

結局…

小学校の同級生の、医学部志望の友達に相談した。「親が言うから、行くのは違うんじゃない?」と言われた。正論だった

そんなに仲が良いわけじゃない女友達にも軽く聞いた
「医学部に行くか迷ってる??贅沢な悩みだね笑」
と言われ、話はそこで終わった。他人からすれば、医学部に行ける事は絶対的な善なんだろう

そして、仲の良い医学部を目指している違う学校の女友達に、医学部の為の勉強が辛い事を相談された。僕は成績が医学部合格に達しているのにも関わらず、医学部に行くか悩んでいた。そんな事は口が裂けても言えなかった。胸が痛く、罪悪感に包まれ、自分の悩みは打ち明けられなかった

医学部or理工学部に行くかを決める期限が迫っていた。医学部に行ってから、合わなければ転部すれば良いという考えが頭の中を駆け巡っていた。自分を無理やり説得していた

結局、医者になる意味はおろか医学部に行く意味は見当たらなかった
勉強のスランプも起きつつあったが、良くも悪くも成績は落ちなかった
第一志望は、医学部にした

学部の合格発表があった

医学部に合格した

葛藤した気持ちを抑えながら無理やりにでも喜んだ

そして、帰宅すると父親にバカにされた
「部活をやりながら医学部に行けたと思って驕るなよ」
と。それも、医学部合格が決まった日だ。よく覚えている

(こいつは、何を言っているんだ。死にたいのか?殺すぞ)

父親との信頼関係は0になった、いや元々0だったからフリ切って−5000ぐらいになったという方が正しい

最終的に、僕は自分の進路について考える事を先延ばしにし、束の間の安息を得た

母も父も僕が医学部に行った事で、安心した。しかし、それが泥沼の戦争の始まりとは誰も知る由がなかった

そして

妹の受験が始まると同時に、母の日本軍がまた目を覚ました

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