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留学に行くことの本質的な価値【後編】

【前編】では、

⑴多様な価値観を受容するという土壌ができる。

について書かせていただきました。

今回の後編では、

⑵一次情報として現地を肌で感じ、経験することで、自分事として考えられるようになる

についてお話ししたいと思います。

留学に行きたいと思う理由、行った感想の多くに「留学に行くと視野が広がる」と言う人は多いと思います。文字にするとなんだか味気なく、いかにもテンプレートのようなフレーズです笑
ですが、やはりこれはあながち間違ってないなというのが私の考えです。

「視野が広がる」という言葉を自分なりにもう少し深掘りしてみます。

言葉だけを見ると、見えている視点の幅の広さが想像されます。

一方で私は、自分が世界を見る視点の高さの基準が一段上に高まる事だと定義しました。

『視座が高まる』という言い方が近いです。

イメージとしては、見る視点の高さが高くなることで、山の上から下を見下ろすように、結果として幅広く物事が見えるようになるのかなと思います。

ここで留学の話に戻りますが、私は昨年のベトナムとカンボジアのインターンシップの参加が人生初めての海外でした。

そして実体験から感じたのは、やはり自分が肌身で感じた一次情報から得られる経験にまさるインパクトは他になく、その経験こそが自分の視座を高めるきっかけになるということでした。

もちろん学校や日々のニュースで新興国の様子や場合によっては貧困地域の様子などを「知って」いました。しかしこれは人の体験談や画像、映像による二次情報・三次情報です。

カンボジアに行っていたというと、多くの人に「学校作ってたの?地雷大丈夫?」と聞かれるわけですが、それはたまにテレビの特番でやっている映像からのカンボジアのイメージでしょう。そういった現状が未だ多く残っているという前提ではあるものの、いったいどれだけの人が首都プノンペンのカオスな発展ぶりを想像できるでしょうか?プノンペンに限って見れば、多くの人がスマホを使いこなし、中国資本による高層ビルの建造が真っ盛りで、10台すれ違う自動車のうち8台がレクサスSUVというのがリアルです。
それは確かに首都プノンペン市内のしかもごく限られた場面かもしれません。しかしそれも含めたリアルな姿を見ることで、少なくとも「カンボジアはかわいそうな国」といった感情的なイメージではなく、具体的に現状はどうであって何が課題であるかを考察することが出来ます。

留学に行く前は、日本における日本人的な価値観の枠の外に思考が及んでいませんでした。しかも厄介なのはそのことに自分では決して気がつかないのです。

実際に海外に行き、日本と異なる価値観、現地の空気を経験することで、自分がいかにそれまで思考の枠が日本に限定されていたかを知りました。

そして、それまで遠くの国で起こっているニュースとしてしか聞いたことがなかった「情報」が、初めて自分事として考えられるようになりました。

このように考えると、究極的には自分の目で見て肌で感じた経験・一次情報からしか、自分ごととして考えることはできないという結論に至りました。

経験の積み重ねが、最も自分の視座を高めるきっかけになると気がつくと、未だ経験したことのないものを見てみたい、行ってみたい、挑戦してみたいという気になります。

私はアジアには行ったことがあるけれども、ヨーロッパやアメリカ、アフリカには行ったことがないので、それらの国の多くのことを「知って」いるかもしれないけれど、自分事として考えられていないのだろう。だから行きたいと思うのです。

高校生の時に、就活生と同じ視点を持つことが難しいように、大学生の時に社会人の視点でものを考えるのが難しいように、自分が経験するまではその視座に本当に達することは困難だということです。(だからこそ、経験できる機会には限界がある中で相手や上司の視点に立つために想像力が求められるのです。)逆に言えば経験さえしてしまえば以外とその視座に達してしまうことも難しくはないのではないでしょうか。

それくらい私は「経験する」ことの価値を感じており、留学で得られる経験は日本では決して経験できないものだと確信しています。


まとめ

自分が肌身で感じた一次情報から得られる経験に勝るインパクトは他にない。

「経験」は自分の視座を高め、自分事として考えられるようになる。

留学は日本では決してできない経験を得ることができる。

最後までご覧いただきありがとうございました。

私の留学経験についてはぜひこちらもご覧ください。


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