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ロマンポルノ無能助監督日記・第26回[「うる星やつら」「ブライガー」書いて押井さんの超昔話から1981年の映画情勢〜『聖子の太股』へ]

記録はしてないが、「うる星やつら」の3話4話ぶんのギャラは、合計12、3万くらいだったと思う。30分番組だが、実質は26分で、各話13分。
それを7/24~7/28の5日で書いている。
ダイアリーには日々、「うる星・15枚」「うる星・25枚」とか、ペラ(200字詰め原稿用紙)の枚数を記録している。
日活の月給は10万切る時があったから、これはとても効率いいバイトだ。
残業が多い月は15万まで行くことはあったが・・・いや、入社した年は、20万越えた月もあったが、「経営健全化闘争」で残業料自体が大幅カットになり、入社3年目のこの頃は、初年度よりも年収は下がっていた。

あ、KK)ニツカツサツエイジヨの「給与所得の源泉徴収票」が、ダイアリー裏表紙に、ご丁寧に貼ってあるぜ!
支払い金額は1,984,077円、控除後は1,238,800円。手取り少な・・・
そこに手書きで原稿料607,900と書き入れていて、アニメ4、にっかつ直し1とかメモされている。給料の半分じゃん。
これで「金子は最近、金儲けに走っている」とか言われたんだな・・・

飲み代は殆どかからない奴だったから、使うのは映画代と本代だけで、金は多少貯まってる。家には60万(月5万)入れていたハズ。
引き出しには、年末年始の那須さんとのアジア旅行のために常時20万くらい置いている。銀行口座を作るという考えはまだ無かった。

翌年、家の近所(歩いて10 分)に風呂なしアパート(6畳二間3万4千円)を借りて一人暮らしを始めたが、空き巣に入られて引き出し預金25万取られてしまい、以後、銀行口座を作った。
母が「そんなに家に持って置いてるなんてバカじゃない」と怒ったから。

押井さんからは、アニメやった方が儲かるよ、と何度も言われた。
シリーズ構成を担当した山本優さんからは、
「お前、書けるんだから、俺のチームに入れば結構稼げるよ」
と言われたが、いま助監督やめたら、監督になる道は無くなる、と思って、やめる気持ちに揺らいだ事は無かった。親父からは「いつ“助”の字が取れるんだよ」と言われていた。
山本優さんは明快な人で、なんでアニメライターになったかというと「金になるから」であった。

「うる星」を書くのは楽しく、滅多にアイデアには詰まらなかった。

4話の「つばめさんとペンギンさん」は、ラムの甥テンちゃんが、つばめに自分のオヤツ(成長促進剤)を上げると、大きく太って飛べないペンギンのような体格になってしまうという原作から、『高校大パニック』を思い起こして、高校内を逃げ回る展開にして「校内をペンギンが逃走中!」という教師のアナウンスを入れて、生徒たちのパニック描写を書いた。

最後には、雛もろとも巨大化し、東京タワーをへし折って巣を作る、というラストシーンにしたら、後年、偶然『ガメラ』でもギャオスが東京タワーに巣を作る展開となり、この時に書いたことを思い出して、一人でウケた。

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パラオ撮影セクシービデオの方は、撮影所のお偉方に見せたが、な〜んにも言われなかった。(8/4 試写)
同期の山田耕大は、音楽と共にパラオの風景の中にいる女優が、しどけなくしていてなかなかヌードにならないので「はよ脱げや!」とヤジを飛ばした。

このパラオエロビデオが、監督昇進への評価に繋がるとは到底思えず、多分逆の評価になっちゃうかもと危機感を持っていて、「うる星やつら」が10月にオンエアされて、脚本で自分の名前が世に出る方が、プラスの評価になるのではないか、と希望的観測を抱いていた。
「アニメージュ」などのアニメ雑誌に、小さく名前が載るのが嬉しかった。

まあ、でも実際は、会社の重役はTVアニメなんかは見ず、企画部の若手のあいだで、「金子最近、表でアニメのホン書いてるんだって?」という噂が広まり、じゃあホンペンも書かせてみようか、という後の『聖子の太股』脚本依頼への展開になった。

そうなる以前にも、小沼勝監督から、直接、自主企画の『老女のたのしみ』の第一稿を書いてくれないか、と頼まれ、手製のカレーをご馳走になった。
この頃は、八幡山のご自宅に片桐夕子さんがいたが、カレーを作ったのは小沼さんで、ヘビーなビーフカレーだった。
これは、小沼さんが荒井晴彦さんに頼んだものを、『わたし熟れごろ』を一緒にやった荒井さんが、ベースになる最初の稿を書いてみないか、そのくらいなら出来るだろ、オマエの勉強にもなるし、と僕にふったのだった。

セカンドで就いた風間舞子主演『あそばれる女』の現場で、小沼監督と気が合った、というのでは無かった。
むしろ、しつこい現場に参ったし、演出的なことで、夜、家に電話して来られるのにも参った。
が、「金子には吸い取られてるような気がする」という言葉を貰って、先輩助監督から聞くと、それは金子、すごいことだぜ、と言われた。
助監督から吸い取って演出している小沼さんに、そんな事を言われるのは、お前大したもんだよ、とのことだった(゚∀゚)。

ハヤカワノベルでロバート・クレインの原作。
87歳の異常な老母がいる40歳を越えても童貞マザコン弁護士の前に絶世の美女が現れるが、彼女と結婚するため、なんとかこの老母を自然死させよう、マヌケな強盗に殺させよう、とするブラックコメディで、小沼さんは、これをATGでやろうとしたのだろうか?それは分からないが、とにかく第一稿は、金子の思うように書いてくれ、と言われて、そう言われると逆にかなり苦しんで書いた。

自分で覚えているのは、裁判所に突然、人間の大きさの巨大アリが証人としてやって来て大騒ぎになる、という展開を苦し紛れに書いたことだが、これは「うる星」を書いた影響だろうが、小沼監督は、読んで「アリかよ」と笑っていた。
このかなり後で、荒井さんが、アリは外してきちんとしたものに改稿して印刷された台本を見た事があるが、結局、実現はしていない。お金も貰って無いが、別に気にはしなかった。
・・・勉強になったかどうかは・・?・・いや、なりました(゚∀゚)。

組付の助監督としてまとまった仕事が決まらないでいると、時々、1日2日だけTV『プロハンター』の応援に駆り出されたりした。
藤竜也、草刈正雄らを、生き生きさせている長谷部安春監督は、ロマンポルノを撮っている時より「仕事人」ぽい感じであった。
デビューしたばかりで可愛らしい名取裕子が、ベテラン俳優に臆せず現場の華として馴染んで、輝いていた。

不思議な仕事としては、ソ連のスパイ映画。
横浜中華街でのロケに1日手伝いに行ったが、そこは「中国」の設定だということで、乞食みたいな服を着せ、顔を汚したエキストラを10人くらい歩かせるなか、カッコいいスーツのソ連スパイが目深に帽子を被り、ピストルを構えて電柱の影に隠れるカットを撮っていたら、中国人商店主が、“中国をバカにするな”と怒り出して、撮影が止まった。
ソ連と中国が仲の悪い頃だ。
かつて日活大作『戦争と人間』でソ連ロケがあったから、その筋から来た仕事であろう。

この間、「うる星やつら」からは、正月スペシャル「あたる源氏平安京へ行く」の依頼があった。

原作は、数ページの見開きカラー版だった気がするが、殆ど使っていない、ほぼオリジナルだ。この回は前後編の“大作”なんで、気合が入った。
次次回くらいに新キャラクターとして登場する面堂終太郎の紹介だけして欲しい、と言われ、正月カルタをやっている諸星家に突然現れ「僕は近々レギュラーになる面堂終太郎だ」と言わせて、ひっこませた。
そしていきなり、舞台は平安時代になり、レギュラーは皆平安貴族になっている。そこに、23世紀からUFOで来た“鬼”たちが、退治された“黒歴史”を改変するため桃太郎を拉致しようと、次々子供を誘拐するので、平安貴族の面堂が「平安防衛軍」を組織するが、現代から来たラムが、桃太郎を探し出して鬼に立ち向かわせる。が、桃太郎はガリ勉のエリートに過ぎなかったので一瞬で負け、平安京は鬼に支配される。
ここまで前編。スラスラ書けた。
ラムちゃんも鬼の娘だから、鬼から「お前、俺たちの仲間だろ」と言われ、「あんたらはお伽話、ウチはSFだっちゃ」と書いた。これ、自分らしいセリフだな。
鬼のUFOを「流星号」と名付け、「流星号、応答せよ、流星号!」という「スーパージェッター」のセリフを入れたりして、自分で面白がった。

あたる源氏は相変わらず女ばかり追いかけていたが、鬼に取り入って大臣に出世する。そこへ、ラムのUFOからテンちゃんが時限爆弾を仕掛け、モテモテ面堂の防衛軍も入り乱れての騒乱のなか、核兵器が爆発、その衝撃で時空が歪み、平安京と現代が合体してしまい、現代の友引町に平安貴族が現れ、あたる源氏もあたる本人と対面・・・はっきり言って収拾は着いていない。
それでも良いという世界だと言われていたので。

押井さんからは「金子の(ホン)はアイデアが詰まっている」と言われ、ベテランライターのようなルーティンになっていないところが、この「うる星やつら」スタート時の押井さんのやりたい方向性にとっては、使いやすかったのだと思うが、批判もあったであろう。ムチャクチャだもんね。

「うる星やつら」第1回2回の初号試写は、9/24に調布の東京現像所で行われた。テレビ放送10/14の約2週間前だ。
この前日9/28に渋谷の東急名画座で『の・ようなもの』と、その上階の東急レックスで『スキャナーズ』を見ている。

『の・ようなもの』は、日活スタジオセンターで仕上げ作業が入っていたので、食堂にポスターが貼られていたが、また新人監督かよ、いいのかよ、こんな訳の分からない奴らばっかりデビューさせて、とか思ったり(嫉妬)、実際、仲間同士でポスター見てそう言って嘲笑っていた。

ポスターだけでは、「これはなんなんだ?」という感じである。良く見ると秋吉久美子も出てるし、入場料995円だって言うので、普通は見ないだろうが行ったら、結構面白くて、驚いた、というよりアセった。

千円出して、五円のおつりで「ご縁がありますように」と窓口で言われた。
落語家修行の話が、切なくおかしげな青春物語になっている。
去年就いた児童映画『お母さんのつうしんぼ』の時、藤田弓子さんの付き人で可愛らしくて好きになりかけた女の子が、麻生えりかの名前でデビューしている。本名、なんだったっけかな・・・えりか・・・?
棒読みの伊藤克信が、なんとも言えない味を出している。
落語家修行という古臭い話になるかと思いきや、渋谷界隈でアイビールックでお洒落で、映画屋みたいに貧乏臭く無い。
パンフレットも買って、森田芳光という奴の名を覚えた。
ネットは無いから後はキネ旬の記事くらいしか情報は無いが、8ミリからスタートした奴で、そう言えば、キネ旬に「『ライブイン茅ヶ崎』に感動した!」という片岡義男の投稿が載っていたな、あいつか・・・大森一樹なんかより才能あるんじゃないか・・まだ、わからないが・・

山田耕大は、この『の・ようなもの』を見て、天才だ!と思って『家族ゲーム』をオファーしに行ったと言う。
パラオエロビデオに「はよ脱げや!」とヤジ飛ばしていた頃だよね・・・
“俺も助監督にならないで、8ミリで自主映画作っていた方が良かったのかなぁ”とか、一瞬思ったが、いやいや、到底そこまでの才能とかパワーは無い、運良く日活の試験に受かった事が、ここまで来られている「人生唯一の幸運」クジなんだ、と思ったりもしていた。
アニメのシナリオも、日活助監督という身分があるから、来てるんじゃないのか。

その後、森田さん本人に聞いたら、
「大森が『オレンジロード〜』の頃、俺は佳作座でモギリだからな」
というのは、大森一樹監督が松竹で『オレンジロード急行』でメジャーデビューを果たした3年前78年のゴールデンウイークの頃、森田さんは、名画座の老舗・飯田橋佳作座でバイトしていた、という意味で、
「映画館の床をモップで拭きながら、いつか勝ってやる、と思ってたんだよ(ザマーミロの顔)」
と言ったのは、『家族ゲーム』でベストワンを獲った時だった。

8ミリでも、映画を撮った人って、「監督」なんです。

大学映研で押井さんと映画話を喋っている時って、当然、二人とも将来は映画監督になるつもり、というか、既になっているつもりで、見て来た映画をバカにしあっていた。
敬愛する深作欣二作品ですら、荒っぽい演出になっているところをあげつらって、思い出して笑った。
『仁義なき戦い』で松方弘樹ら大勢死んでも、『代理戦争』では眉毛剃って別人役で出て来たのなんて、大笑いのタネだ。
押井さんも、自分の眉を触って「眉毛剃ってさあ」と笑っていた。
それらの笑いの理由は、自分が監督になったら、そんなヘマはしない、ということであったのかな・・・
最初から読んでくれている人は、ここでナルホドと思うかも知れない。
大学の映研でこうして監督気分で押井さんと映画喋り倒していたことが、無能助監督が誕生してしまった大きな理由なんじゃないのか。

映研的に見ると、この1975年頃の日本映画では、映画に独特の編集リズムがあるフカサクに比べると、他の監督は物足りなかった。(実際、当時、深作監督は映研派とか呼ばれていた)(深作監督は、75年には東映で5本撮っていた)
“映画を見ている快感”がフカサクのなかにある。失敗しても、確かにある。
だが、深作欣二になれるか、と問われたら、そんな自信は無い。それどころか、学芸大から映画界に行けるのかという大きな不安・・というか、普通は無理だと思えるところを、根拠の無い自信で支えていたというか・・映画撮ってるから、これでも「監督」なんだから・・
でもプロの監督になるには、とりあえずは助監督になるしか無いんじゃないか、という話になった。

助監督は体力勝負らしい、という話を聞いた押井さんは、6年生になってランニングを始めた。
2日でやめたが。
ゴダールの『勝手にしやがれ』なんて、面白いなんてもんじゃない、と呟く押井さん・・・助監督への道など無いと分かった卒業年の頃、突然「教師になる」と言い出した。
卒業しても、就職のあてが無いと、結婚出来ないから。
その時はがっかりした。
自分も学芸大から映画になんか行けないだろう、という現実を見せつけられた気がして・・・そうかぁ、押井守も教師かぁ、と思った。
ところが、今から考えると、何故なんだろう、と思うが、押井さんは、教員採用試験の申込を、僕の同学年だから二年生だが二浪してるから二歳上の友人に頼んだ。
『キャンパスホーム』で任侠研究会のヤクザをやってくれた仲西さんという人に。
その仲西さんに、押井さんが、
「仲西さん、こないだ頼んだ採用試験の申し込み、出してくれた?」
と言った時のことを良―く覚えている。映研の部室でだった。仲西さんが、
「あ、忘れちゃったあ」
と言ったのだった。
この瞬間、押井さんの教師への道は断たれたのである。
結果、アニメ監督の道が切り開かれた訳だが。
そんな大事な申し込みを、何故、人に頼んだのか謎だが、ウイキペディアにも載っている話だから、ここで先輩の秘密を暴露している訳ではない。
みんなでゲラゲラ笑っていた。もう押井さん教師は無理じゃん、手遅れじゃんと、深刻なのに笑ってしまうというやつだ・・・その笑いのなかには、押井さん、教師にならない方がいいと思うよ、という意味もあったと思う。

そして、卒業の1ヶ月くらい前に、押井さんは誰かの紹介でラジオのADの仕事が見つかり、小さなプロダクションに就職した。
面白い仕事では無かったようだ。
僕が3年の時に、押井さんはたまに映研の部屋に来て、愚痴をこぼしていた。
ピンクレディーのインタビューをした、という話はうらやましかったが。
そのADも1年は続いたと思うが、給料の不払いでやめてしまった。

教師になろうとしたのは、その時だったかも知れない。時系列の記憶は混乱している。仲西さんも、自分が4年だから、採用試験の申し込みをする時期で、そこに押井さんが頼んだのかも知れない。
僕は、採用試験は受けないと決めていたから。
映研の部室で仲西さんが「あ、忘れちゃったあ」と言った記憶は強烈に残っているが。

その後CMばかり見続ける「CMモニター押井守」という名刺をもらったことがあり、新大久保のビルの一室で狭く、テレビが何台かある部屋をのぞいた事がある。
この時はゾッとした。
人生の袋小路みたいに見えて・・・押井さんはどうなっちゃうんだろう、と思った。それは、自分の将来にも被るように思えた。
それから暫くして、ある日タツノコプロに入ったと言うのでびっくり仰天である。
駅のホームから見たビルに、「社員募集」の文字が見えたのだと、言う。

「履歴書持って、飛び込みで行ったんだよ。アニメ業界って高卒ばかりだから大卒は珍しいんだよ。しかも教職持ってるし。学芸大の美術科って言ったら、結構ステイタスあって、ラジオのディレクターもやっていた、って、あることないことでアピールしたら、その場で採用。俺も、度胸つていた」

へえ〜
映研ではアニメに関しては、僕の方が詳しかったのに。
漫画では手塚・石森・横山とかの横綱格比べると大関格の吉田竜夫が、弟の関脇格の久里一平とタツノコプロを設立していたのは良く知っていたが、「宇宙エース」は関脇格の感じがあった。面白いんだけど。
「マッハGOGOGO」とか「紅三四郎」とか「ハクション大魔王」とか「みなしごハッチ」とか・・・関脇格だな、やっぱり・・・ファンの方すみません。
「科学忍者隊ガッチャマン」は、タイトルで引いてしまい、「新造人間キャシャーン」にも心躍らず・・・
押井さんが入った頃には、「タイムボカンシリーズ」が始まっており、絵コンテを映研部室で見せてもらったことがある。
これが、本物の絵コンテかあ、と感動したものである。
そのタツノコプロから、今のスタジオピエロにどう移籍し、出世して行ったのかは、僕は知らない。

回想の回想(1977年ころ)から回想(1981年)へと戻る。

「うる星」のシリーズ構成の山本優さんは、他にも仕事を抱えていて、『銀河旋風ブライガー』を、合計2本頼まれた。

これは、宇宙の「なんでも屋」=J9(ジェイナイン)三人組のアニメで、時代劇「三匹の侍」を宇宙版にしたようなコンセプトで、“お呼びとあらば、即参上”というキャッチレーズであった。

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僕が最初に書いた「怒りのクーガ」は、虎のようなロボットを開発した女性学者が、悪の組織に騙され、ロボットクーガは巨大化して狂い、宇宙空間に逃亡してしまう。それを捕獲することで金を得ようというJ9の活躍を描く。
山本さんからは、とにかくカッコ良く、キザなセリフでやってくれ、ということで、直しはあったが、気に入られたので、もう一本受けた。

10/15には、日活撮影所試写室で、根岸吉太郎監督・荒井晴彦脚本『遠雷』を見た。
丁寧に描かれた、都市化しつつある地方農村の青年の物語だが、永島敏行が、お見合いしたその日にラブホテルへ行って、石田えりの巨乳に驚いて「ペロリだな〜」と言ったのは、そのまま、見た僕の実感でもあった。

佐藤忠男氏がシナリオ誌に書いた「どの人物にも共感出来た」という批評にも、なるほどそうだなと感心し、人物たちがリアルに生きている、というのは見ていて思った。名作が目の前で誕生したのだった。

最初に就いた監督の“大出世作”として誇らしく喜ばなきゃきゃいけないと思いながら、やっぱり嫉妬していたかな、やっぱり・・
荒井さんが、根岸さんを褒めまくるのにも嫉妬してたろうか。
荒井脚本に根岸演出というゴールデンコンビの誕生だ。後に『ひとひらの雪』を産み出す。

ただ最後に桜田淳子の「幸せの青い鳥」を永島敏行と石田えりが皆の前でアカペラで歌うところで、クックックック〜と手のフリを入れて歌うのは恥ずかしく感じてしまった。まあ、それも狙いなのは分かるが・・・
この直後、10/24には一般公開になっている。

那須さんは「あっちもこっちも“農村の都市化”ばかりだね。“農村の都市化”の、なにが面白いんだかねえ。わざわざ映画にしなくっても分かってることだろ」と言っていた。

この年のキネマ旬報ベストテンは、1位『泥の河』2位『遠雷』3位『陽炎座』4位『駅STATION』5位に神代さんの内田裕也主演ロマンポルノ『嗚呼おんなたち猥歌』となっている。
森田芳光『の・ようなもの』は14位だ。

この時代にあえて白黒スタンダードサイズで撮られた小栗康平監督『泥の河』は二回見た。
自分の生まれた昭和30年(映画では31年)の大阪・中之島の風景に、切ないまでの郷愁を感じた。

「うる星やつら」最後のシナリオは、16話「ああ個人教授」17話「戦慄の参観日」であった。
最後となったのは、多分、フジテレビ側から切られたどうか分からないが、僕も日活の仕事が忙しくなって受けられなくなった、という事情が重なる。
出来は悪くなかったと思う。

「ああ個人教授」は完全オリジナルで、スーツケースに詰められた現金で友引高校に雇われた“バカ生徒をちゃんと教育するスパルタ教師”が、ラムちゃんを見たら一目惚れして狂ってしまい、最後には何万光年も果ての惑星に飛ばされてしまう。
この中ではロリコン=ロリータコンプレックスの定義を、錯乱坊に語らせた。

でも次の「戦慄の参観日」にはこの教師は脇役で出て来る。
授業参観に来たラムちゃんの母親と、面堂の母親が対立して、面堂母は面堂家の私設軍隊を投入、ラム母もUFO軍で応戦して、友引高校を舞台に宇宙戦争が勃発するが、突然、正義感を抱いたあたる母が仲裁に入り、バカラ勝負となり、親の総取りで大金持ちになって狂う。
面堂家とラム母から、諸星家は総攻撃を受けて大爆発のキノコ雲、親父はローンの支払いがまだ、と嘆く。

こんな調子で書いているところに、日活の企画部に呼ばれた。

防衛庁の乃木坂寄りにある本社ビルの屋上に、違反建築のプレハブ小屋が建てられて、そこが「日活企画部」であった。
そこからだと防衛庁が丸見えで、スパイ活動が出来るなと冗談を言い合っていた。
いろいろな人が出入りして、ライター陣も思い出を語っている。
10/24に行くと、7年後に『1999年の夏休み』の企画もやってもらう成田尚哉さんに会った。

成田さんは、ベストセラーになっている馬場憲司(後に石川さゆりと結婚〜離婚)の「アクションカメラ術」を見せて、これをネタに話を作れないか、と言って来た。
寺島まゆみ主演の『聖子の太股』の企画である。監督は小原宏裕さんであると。

この本には、女子のスカートの中をどうやったら撮れるのか、その方法が書かれてある。
わざと女子の前で転んでその瞬間にシャッターを押すとか、靴の爪先のところに小型カメラを隠して、シャッターは自分の手元に隠すとか、今なら犯罪指南書として摘発されるだろうが、これがベストセラーになっていて、PART3まで出ていて、馬場憲司は高額納税者になり、KKベストセラーズ社屋の柱の1本ぶんの売り上げになったそうである。

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“ロマンポルノの聖子ちゃん”で売ろうとしていた寺島まゆみが主演と決まっていたのでタイトルはこのように既に決まっているが、内容は、松田聖子とは全く関係無い。寺島の役名は聖子にしたい、とは言われた。
そこで、ストーリーを思いついた。
電車で向かいに座った女の脚に刺激を受けた男が、カメラでその彼女を追いかけまわして盗撮から愛し合うようになり結婚する、という・・・

成田さんは「書いてみる?」と言ったので、1週間で書いて持って行くと、目の前で一読するなり、「これは、神棚にしまっておいて下さい」と言われたのだった。


・・・to be continued


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