見出し画像

ロマンポルノ無能助監督日記・第27回[池田敏春さんの言葉聞き『聖子の太股』書いて家を出る?]

「これからはビデオの時代だ。映画はもう終わりだよ」と啖呵きった撮影所制作調整課長・松崎恒夫氏の陣頭指揮で始まったエロビデオプロジェクト・・・

僕は30分の『セクシー・マリンブルー』をパラオで撮り不評、やはり30分モノのシナリオ『誘惑されて』を4期先輩の池田敏春さんの為に書いたが、「ここで脱ぐなんてゼンゼン聞いてないわよ、話が違うわ」と、夏木マリがセットから帰ってしまったことで、その作品は潰れた。

新宿中央公園で30人のダンサーを踊らせるという1日がかりのシーンは、全くの無駄になった。
(夏木さんには何の責任も無い。松崎氏の交渉ミスであろう)(松崎氏はプロデューサーやったこと無いし)

池田敏春さんは前年80年倉吉朝子主演『スケバンマフィア 肉刑 リンチ』で29歳で監督デビューしており、僕は、それを見てこの監督凄い!と思っていて、心の中では尊敬しており、根岸さんより上だろ日活の若手ナンバーワンだ!と思っていたが、それを言っても素直に受け取るような感じの人では無かったので、本人には「面白かったです」くらいしか言ってなかった。

画像1

ラストシーン、倉吉朝子が海岸でクラウチングスタートでヨーイドン!をして走る明るいスローモーションに熱く共感していたんだが・・・

画像2

この3年後ATGで、白都真里の海女が銛振り回して原発に殴り込みをかける『人魚伝説』(84年)を撮り、その25年後映画のロケ地である三重県・志摩の冬の海に素っ裸で飛び込み自殺した(2010年12月59歳)。
どことなく怖くて面倒臭い人だった。
だが、インテリヤクザぽくてカッコも良かった。
小柄で短髪、ちょっと足を引きずって歩く。
一度、俺むかし鉄道自殺しかけて片足先を切って無いんだよ、というようなことを本人が言っていた。
日活には親戚のコネで入ったんだ、とも言っていた。
大プロデューサー・岡田裕さんにも、ゴールデン街で絡み酒でしつこくしているところを見たことがある。
「なんとか言ってみろよ、岡田裕ぁ」
というような口調が怖い。

その池田さんと、やはりゴールデン街で飲んでいる時、
「金子おオマエいくつだ、26? まだ実家にいるって、それでオマエ監督になれると思ってるのか」
と言われて、はあ・・と口ごもった。
「冬の寒い日にな、アパートで風呂洗って入るんだよ。そんな経験もないでさ、監督なんかになれないだろうが」
風呂を洗うのと監督になることの関係ってなんですか、という口答えはせず、やはり曖昧にうなづいていた。

26歳で、まだ実家住まいしてる、というコンプレックスは確かにあった。
先輩たちは、皆独立して一人で暮らしている。
那須さんは真知子さんと暮らしている。同期の瀬川も結婚するらしい。
一期後輩の金澤・池田の二人も日活寮に住んでいる。

ただ、言い訳は、東京生まれ東京育ちで家に自分の部屋があって職場に近ければ(バイクで15分)、出てゆく理由が無い、ということだった。

家が裕福だった訳では無い。
長崎の三菱造船の労働組合が東京に持っている組合社宅を、労働運動つながりで、極めて安く借りている。
6畳・4畳半・3畳・台所・風呂・トイレ・押入れ・縁側庭付き一軒家・三鷹から歩いて20分が15000円。
同じ作りの家が6軒あり、僕が大学2年になった年に、一軒出て行って空いたので、弟と二人のための家としてもう一軒借りていた。
つまり、80坪の敷地内に3万円で2軒家を借りている訳だ。かなりボロいが。
6軒とも、三菱造船とは直接関係無い人が借りている状態。
わざわざ出る理由ないでしょう。家に5万入れてるし。

更に言えば、僕には“親への反抗期”というものが無かった。
親たちが世の中に反抗してるから、子供は反抗せず味方して育ったのが金子家。

小学校1年くらいだったか・・・
「なんでウチは貧乏なの?」と父に聞いたら・・
あ、その頃は初台で、3畳と4畳半二間のトタン屋根の崖下家に四人住んでいたから“貧乏感”強かった。
父は、グラフを描いた。
世の中は不公平で、多く儲けている人はいるが数が少ない、でも一生懸命働いても少ししか儲けられない貧乏な人が沢山いる。それをみんな平等にするために、お父さんたちは頑張っているんだよ。正しいことをしているから貧乏なんだ。
良く分かった。

小学校4年で、その父が「アメリカはベトナムから出て行け」という反戦ゼッケンを付けて出勤し出し、僕は母と共に「頑張って」とにこやかに言って送り出して応援した。意味は良く分かっていたから、恥ずかしいとか思ったことは無い。
高校2年まで8年間続いた。
両親ともインテリで優しく、生意気な事ばかり言う子供の人格を認めている人たちだった。
反抗期になる理由が無い。

ただ、気づくと、この育ちでは“モテる理由”も無いですね・・・貧乏なのにお坊ちゃん育ち、というキャラクター。
マザコンという訳では無いが、切り絵作家の母を誇りに思いながら、ご飯を作って貰って、描いたマンガや小説を読んでもらっていた訳だから。
・・・やっぱりマザコンのカテゴリー?ちがうだろ。

描いたマンガに「あんたの絵はデッサンが狂ってる」て言うし、小説には「なんにも分かってないって感じね」て言うし、8ミリ映画には「修ちゃんの学園日記みたいなものね」て言うし。

女子を家に連れ込んで何かすることも出来ないから“やっぱり家出なくては欲求”が次第に大きくなって来ていた頃でもあり・・・
なので、池田さんの言葉は強烈に心に響いたので、今でも生々しく思い出す。

また、池田さんはブライアン・デ・パルマの『殺しのドレス』を30回見たと言っていた。劇場で、でしかあり得ない時代。
僕は2回だけだったが、ミステリアスな美術館のシーンのコンテは暗記したい、いつかテレビ放送したらビデオに録画して暗記しよう、と思っていたくらいだった。

その池田さんと『エイリアン』の話になって、エイリアンは常に左から襲ってくる、と言っていた。
人間は心臓が左にあるから、左から襲われる方が怖いという池田さんの分析だった。
これが、『ガメラ』の時に思い出され、ギャオスが左から中山忍を襲撃するというコンテに応用した。

池田さんとは、中途半端な仕事でしか関わっていないが、結構影響受けてるよな・・・合掌。

そして、「聖子の太股」のシナリオだが・・・

アニメのシナリオも何本か書いて商業的な訓練もされ、シナリオでは重要とされる「絵が思い描ける」=「映像が想起される」という技術的なことは満たされているはず、として出した「聖子の太股」のシナリオ第一稿だったが、目の前で読んでくれた企画・成田さんの言葉は、ひと言、
「これは神棚にしまっておいて下さい」
のみであった。

この時の稿は、ファンキーさん(小原宏裕監督)には見せていないだろうし、どこにしまったか、もう分からない。
そんなにダメであったか・・・
三浦朗プロデューサーは、
「こりゃ頭で書いてるな。シナリオは足で書けや」
と仰る。『人妻集団暴行致死事件』で「ベストワンを狙う」と言った硬派プロデューサーだ。

「目黒川辺りを歩いてこいや。あの辺には安アパートがいっぱいある。高級マンションもある。安アパートから見上げる高級マンションて絵が、撮れるだろ」

・・・つまり、『天国と地獄』ですな、クロサワの・・・

「安アパートに住んでる三流大学の兄ちゃんが、高級マンションに住んでる青学あたりのセレブな姉ちゃんをゲットする話にしろや。カメラで盗み撮りしてよ。姉ちゃんも撮られてるうちにその気になるだろ。女のナルシズムが刺激されてよ」

というヤクザっぽくアバウトな言い方だが、企画意図とライターの力量から見ての、実に正解なオリジナルストーリーの発注であった。
池田さんの言葉とも、リンクしているのが今にして分かる。
“書くものに生活実感が無い”、ということであったろう。アニメならいいが。

言われた通りに目黒川、青山学院大学辺りをブラブラ歩いた。

秋に新規採用された早稲田卒の女子企画部員・栗原いそみさんの案内で、他の日活社員と一緒に早稲田祭にも行ったりした。
「映画は終わりだ」という人がいても、新たに早稲田から女性の新入社員が、明るく楽しそうに「ロマンポルノをやりに来た」と言うので、栗原さんの登場は大きかった。つい半年前までは女子大生だった人が、ロマンポルノの企画部員になった、というニュース。
“日活まだ終わらない”感というか・・・

実際に、この4年後、栗原さんの企画で『みんなあげちゃう♡』を撮ることになる。栗原さんからは「これは金子さんにしか撮れない」と言われた。(マンガ原作だから)(『みんなあげちゃう♡』大コケして日活やめたけど・・)

この頃、一人で飲み屋に入ることも多少していた。

新宿ゴールデン街までは面倒なので行かず、三鷹の住宅街・新道北にあるお店「ブラインドレモン」で大瓶ビール一本500円チャージ無しとかだが、思いがけず中学時代の同級生と会ったり、可愛い女性と知り合ってクドいてふられたりしていた。
最初にドアを開けるのには勇気が必要だったが。
映画論、文化論でムカつくこともあった。
つまり、かなりフツーになって来た、ということか。

初めて会った女性でも、隣りで飲んでいるうちに、好きだという感情になって、
“モテてるハズだ”と錯覚してクドく。
と、いう経験は、逐一、那須さんに報告していた。
「毎日、違う女の子を好きだ、という気持ちになってしまうんですよね」
と、言うと、那須さんは、
「その気持ちを忘れないようにすることだよ金子くん」
と、真面目な顔で言ってくれた。
「うる星やつら」の諸星あたるの気持ちも良く分かった。
小・中・高・大の学生の頃は、一人の女子を長く好きで片想いしていた。
ふと他の子がいいなと思うと、浮気心を自分で叱るようなところがあった。
だから、この変化は自分では新鮮だった。
そのうち、
「女なら誰でもいいと思ってるでしょ」
とか言われるようになってしまったが・・・
つまり、フツーになってきた、ということか。
「日活はしつこい」
とも言われたな・・・

目黒川・青学シナハン開始が11/7で、第二稿の脱稿が11/20だが、11/19に書かれたメモ書きを読んで、思い出したことがある。

父は、この年の8月から「地球から核兵器をなくそう」というゼッケンを付けて歩くようになった。
翌82年に「反核でゼッケン」という本を出版するが、「静枝さん、ゼッケン作って下さいよ」から始まる序文が、ちょっと痛ましい感じがする。
反戦ゼッケンは、母がミシンで作って、父がマジックで字を書いた。
その母に、もう一度ゼッケン作って下さい、と呼びかける前書きだ。

「我が家は貧乏だし、二人の子どもに残してやる物質的な財産はなにもない。でも、どんな財産を残してやろうか。それは平和だ。平和という財産を残してやることこそがぼくらの任務だよ」
と、書いている。

ベトナム戦争は72年に米軍が撤退したことで終わり、ゼッケンもそのタイミングで外せたが、それから10年近く経って、今度は「反核」ゼッケンをやろうとした父の決意は固いようだが、それって外すタイミングってあるのか?というのが家族の心配で、「老醜」と思われやしないか、と、この家族にしては珍しく「世間体」を気にしていた。

ベトナム反戦ゼッケンだって、組織から応援された訳じゃなく、批判もあったようだ。仲間であっても、応援しながらも、自分にそこまで出来ないとなれば距離を置くようになる。孤独になってゆく運動だった。

書いてあることというのは、母と弟と三人で話した内容だ。

僕は「イヤミな運動だ」と言って(スイマセンお父さん)、母は「老残だ」と言った。
タテマエとホンネを区別したく無い父の性格がすべてにわたって表れている、と三人で話すうち、母は「侍なんだよ」と言った。
僕は「侍じゃない。侍になりたいだけなんだ」
母「死んで侍になるんだよ。七人の侍みたいに」
そして三人で「菊千代だ」と、その名を思いつく。
『七人の侍』で三船敏郎が演じたキャラクター菊千代は、百姓だが、素性を隠して侍のフリをして壮絶に死んでゆく。
侍になろうとしたが成りきれず、死ぬ時に初めて侍になった菊千代・・オヤジそのものだ。(と、書いている)
母は「悲しくなってきちゃったよ」と目頭を押さえた。

ということがあった翌日、『聖子の太股』第二稿を脱稿している。

母は、そう言いながら反核ゼッケンを作り、一人の反核運動は、父が脳梗塞で倒れる2001年まで続いた。
(リハビリは2007年まで続き亡くなり、母も一年後仲良く付き合う)

こういう家に、飲み屋でクドいた女の子を連れ込む訳に行きませんですよね。
離れのような一軒家に寝泊りして、親と顔合わせないで済むとしても。
マザコンとかファザコンとかじゃなくて、ファミリーコンプレックス=ファミコンでしたか・・・?

また、この時、「うる星やつら」制作プロダクション・スタジオぴえろ社長布川さんから直接、オリジナルアニメ「アトン」のドラフト版企画構成書を頼まれて、同時並行で書いていた。

太陽系の外へ出たパイオニア10号が不時着したアトン星から、地球へ旅に出るアトン星人の子供たちの物語で、フランスのミュージカルが元になっているらしい。これを、少し詳しいプロットにして、頼まれなかったのにキャラクター原案のイラストも面白がって付けて書いたが、それは好評だった。

確かコクヨだったか文具会社がスポンサーになる予定で、「光るものがありますねえ」と言われたのが嬉しくて覚えている。

「聖子」の第二稿は11/21に日活へ、「アトン」の第一稿は11/24にスタジオぴえろに提出した。

11/28には「聖子」決定稿の原稿を、自分で吉川印刷に届けている。

三浦プロデューサーからは「まあまあ、書けてるかな。最初のやつと、読み比べてみろや」と言われたが、一稿は未だに読んで無い。

『ズームアップ・聖子の太股』は、俊彦(上野淳)が、アパートから望遠カメラを構えて聖子(寺島まゆみ)の部屋を連写している正面のカットから始まる。
2カットめ、聖子の部屋はセット窓外からの望遠ショット、彼女はパジャマから下着姿になって、女子大生のカジュアルな服を着てゆく。
そこに俊彦の呟き。
「おはようございます、聖子さん、今日もお美しい。あ、それは原宿で買った服ですね」
俊彦の部屋でのカメラは三脚で上向きに固定されている。

「お先にいただきます、聖子さん」とカップ麺をがっついた俊彦は、カメラのバッグを背負って外へ出る。
部屋の入り口には聖子の白黒パネル写真が飾られている。

2階のアパートの外階段に飛び出す俊彦の向こう側には、高級マンションがそびえている。俊彦「今行きます!待ってて聖子さん!」と叫び、走り降りて去ると「清風荘」の看板が読める。

ここは、シナハン(シナリオハンティング)で、僕が見つけた場所だ。

クランクイン12/19、アップ12/25、翌々日12/27には那須夫妻とタイに向かった。
カメラは杉本一海さん、チーフは1期上だが4歳年上の村上修さんで、僕は、セカンドで就いた。
書いた脚本の映画現場に、カチンコで就くのは日本映画史上、珍しいかも。チーフで脚本は結構あるが、日活ではこのケースだけではないか。

通常、ロケハンにはチーフが行くが、今回は僕も同行して、シナハンで歩いた目黒川近辺にスタッフを案内し、シナリオのイメージを伝えると、ファンキー監督は「なかなかいいじゃないか、ここ」と決定。制作部が交渉して「清風荘」の看板を付け、このアパートを元にセットを建てた。

聖子が目黒川沿いを歩いて橋を渡るのを、俊彦も着いて行き写真を撮りまくる。そこにクレジットタイトル。
青学裏で友人の奈保子(岸田麻里)と会った聖子、「まだバージン捨ててないの?」なんて聞かれる。定番のセリフだ。
そこへラジコンカーが聖子の足元に。
ラジコンカーに仕込まれたミニカメラのシャッターが切られ、聖子のスカートの中が撮られる。
物陰で操作している俊彦。

これは、馬場憲司「アクションカメラ術」に書かれてあった盗み撮りのテクニックのアイデアそのまま書いたシーンだが、現場で見てると、こんなに目立つラジコンカーに気づかないまま撮られるって不自然だよな、隠れている俊彦も丸わかりだし、と、書いている時は気にしてなかったが・・なんて、思っても、ファンキー監督は、気にせずバンバン撮ってゆく。早い。
手抜きと言われることもあるファンキーさん、言われても気にしない。
聖子が気付くと、俊彦はラジコンカーを回収して、ぴゅーっとばかり逃げてゆく。

俊彦は、三流大学生より落ちる「写真学校中退」ということにして、風呂屋の掃除アルバイトで、女湯に落ちている陰毛のコレクションをしていることにした。
「これは30歳主婦、これは18歳女子高生」とか言いながら集めてビニール袋に入れる。

先輩の義男は、バイク乗りの順子(浜口じゅん)(三原順子の当時のイメージだ)とのセックス部屋として俊彦の部屋を貸してくれ、と頼み、「後で見にこいよ」と言うので、俊彦は、自分の部屋で、義男と順子がセックスしている様子を窓から覗いてクラクラする。

夜、俊彦は聖子のマンションで待ち伏せしていると、大学教授の近藤(小竹林義一)の車で聖子が送られてくる。
聖子は、近藤と結ばれたいが決心がつかないので一人で部屋に帰るが、俊彦は完全に“聖子さんはあの教授にやられちゃった、聖子さんの為に童貞守って来たのに!”、と嘆く。

渋谷のカフェでも義男とバイトしている俊彦だが、そこへ聖子と奈保子が客でやって来る。奈保子「あのインケンカメラいるわ」聖子「出ようか」奈保子「からかってやろうよ」
そこへ順子もやって来るので、義男は順子に、俊彦にやらせてあげてくれと頼み、自分は別れようとする。
順子が怒りつつ嫌々俊彦を誘うと、俊彦は、奥に座っている聖子を意識して、
「僕、そんなんじゃありません、不潔な!」
と言うが、順子は俊彦を引っ張り出す。

また俊彦の部屋に戻すのも目先が変わらないので、順子がバイクで林の中に連れてゆき、そこでジーンズもパンティも脱いで「さあ、やって」と書いたが、ロケ地の現場が結構見晴らしよくて明るいし、いくらなんでもこんなところでそんなことにはならないだろと思ったが、ファンキー監督は気にしないでバンバン撮る。

杉本カメラマンは、僕に耳元で「今日ファンキー冴えてるぜ、これ面白えよ、コンテいいよ」と言って手持ちで撮ってゆく。

ここで、俊彦は「僕は聖子さんだけを想っているんだ」と言いながらも、カメラで順子の股間をポラロイドカメラで撮るので、順子は自分のを見てゲーとなり、白けて「そんな趣味良くないと思うよ、捨ててよね、そんな写真」と言うが、俊彦はポラ写真を見て興奮、順子に抱きつき、今度は「もうそんな気になれない」と言ってる順子を犯すように抱くと、順子は感じる。アレがデカいのだ。
(というのも定番)(『濡れて打つ』でもやりました)
終わっても入ったまま、「あんた、名前は?」「俊彦」「いい名前ね」とキスすると「もう回復?すごい、こんなの初めて」とまた始まる。

そして、俊彦は、順子の前で「こんな女」と聖子のパネルを捨て、また部屋でも何度も順子とセックスする。
「よっぽど溜まってたのね」と順子。

一方、近藤教授は、奈保子の部屋に来て、奈保子とエッチ。
その時、聖子がかけた電話を奈保子が足で蹴ったので、聖子には奈保子と近藤のセックス音が聞こえてしまう。
「やめて、やめてー!」と泣く聖子。

俊彦は盗み撮り写真を売っているが、ファンキー監督自ら演じる投稿写真雑誌編集長には、「同じ女ばかりだな」と不評。
だが、俊彦は青学近くで靴磨きしながら、歩道橋の女性のスカート中を撮っている時に通りかかった聖子を追いかけ、青山通りを横断、反対側の歩道に転がり落ちてくる聖子と重なってシックスナインの体勢になり、聖子のパンティに顔を付けると「ああ、いい匂い」となる・・・これ、実際の青山通りで撮ったはずだが、良くこんなこと撮れたな。

その写真はファンキー編集長にも好評で、「もっとスカートの中を撮れ」と、お小遣いを渡される。
俊彦は、再びパネルを飾り「聖子さん、一時とはいえ、浮気してすいません」と謝る。

夜の新宿中央公園ロケで、デバカメ写真を撮りに来た俊彦は、「みちる、みちる」「咲子、咲子」と盛り上がっているカップルを盗み撮りしていると、公園のデバカメグループから、俺たちの縄張りを荒らすな、と殴る蹴るされる。
(注:デバカメ=《明治41年(1908)風呂帰りの女性を殺害した女湯のぞきの常習者、池田亀太郎という出っ歯の男のあだ名から。》だそうです)

そして、たまたま近藤教授が車で聖子を連れて来ていたところに出くわす。
(わー、ご都合主義!)
聖子は、もう近藤から離れようとしているが、近藤は運転席から助手席の聖子に襲いかかったその時、俊彦のカメラがフラッシュを焚き、
「大学教授の乱行!週刊誌に売り渡す!」
と叫ぶと、「なんでフラッシュなんか焚く!?エッチしてるカップルが逃げるだろ」とデバカメグループが、更に俊彦を殴る蹴る。
その隙に近藤教授がカメラからフィルムを抜き取って逃げ、聖子は呆然と俊彦を見ているが、自分を救ってくれたことに感銘を受け、傷だらけの俊彦を抱き寄せた。

俊彦が目覚めると、そこは自分が毎日撮っていた聖子の部屋。
聖子は優しくお粥を口に入れてくれる。
「あなたに撮ってもらおうかな、私の写真」と言うので、俊彦は聖子をレオタードにして連写、連写、そのうち、シャワールームで聖子は、言われるままにレオタードを脱ぎ捨て素裸となり、俊彦も裸になって聖子に抱きつく。

そして、最後にめでたく二人は結ばれる。

俊彦は「やった!、俺は聖子とやったぞ!」とガッツポーズ。
シャワーに聖子の足先へ血がしたたる・・・

現場では、自分の書いたことが、こんなことになってゆくのか・・・と、誇らしさなどは無く、逆に恥ずかしさの方が大きく、それほど嬉しくは無かった。

セリフが良ければ、ほくそ笑んだりしたのかも知れないが、上手くいってると思えるのは、俊彦が、聖子一途と言いながら、目の前に女体があれば抱きつく短絡性が笑えるくらいか・・・上野淳の頑張りで。

「カメラを向けられ、犯されたかようにその気になってしまう」聖子の気持ちって、そうは書いたけど、かなりシンドいよな、と思いながら、カチンコを打っていた。

それでも、寺島まゆみ、体当たりで演じてくれて、翌82年1月21日映画は完成、レコードも出して歌手活動を始めたこともあって“ロマンポルノの聖子ちゃん”というキャッチフレーズが浸透、2月26日、武田一成監督・風祭ゆき主演『闇に抱かれて』とのカップリングでヒットし、続編が決定して、また脚本を依頼された。

だが、1/21の0号の時には「三浦さんに喫茶店で説教され落ち込む」と書かれてある。

「三浦さんの言う通りだ。とばかり思っていいのか、とも思う。確かに『聖子〜』はほめられた写真ではなかった。しかし『もっとリアルに書くべきだった』とか言われても・・・クソ!見放されたような侮辱されたような気が今する。マイナーであればそれでいいのか。メジャーであればそれでいいわけではないのだが・・」

1981年の10月、11月は、セクシービデオの仕事が一段落して、アニメ脚本と「聖子〜」脚本の発注が並行してあり、「アトン」の企画構成も同時に作業出来たが、12月になると『聖子〜』現場が優先となり、アニメは断らざるを得ず、「アトン」も、他の人(辻真先さん)に受け継がれて行ったようで、その先は実現していないが、どうなったのか気にしながら『聖子〜』をやっていた。

12月前半『聖子の太股』準備の頃、日活撮影所に社長秘書Nさんが配属され、彼女の礼儀正しい挨拶に、心にざわめくものがあった。
法学部卒でしっかりした感じで笑顔が薄く、今までに会ったことの無いタイプの女性であった。
実家にいたままで監督になれると思ってるのか、という池田さんの言葉が耳に蘇って、焦りを感じ、ざわめきが大きくなっていった。

引っ越したのは3月3日で、受験中の弟が迷惑がっていた。なんで、こんな時期に、と家族からヒンシュクを買った。なんか理由を言ったと思うが、真の理由は言えない。

引っ越した先は、家から歩いて10分ほど三鷹に近い方で、新道北のブラインドレモンのすぐ近くで、風呂はついてなかったので、冬に一人で風呂洗う経験は、更に、それから数年後、監督になって下北沢の風呂付きアパートに越してから、になる。

母の死後、家計簿をめくると、この日のことがメモされていた。

「修介、家を出る。やっぱり寂しいね。26年一緒にいたんだものね」

Nさんが、そのアパートに来たのは・・・・

・・・to be continued

(チャリンの方は、本文長くなり過ぎカットした部分と、ネットで見つけた「アトン」企画書のURLを)

ここから先は

544字

¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?