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亡き父の、車にまつわる3つの話

父が死んで5ヶ月が経った。
去年12月に他界した父の話を、1台の車を通して綴りたいと思う。


まえがき

ココイチのカレーは死んだ父の味がする。父とは半別居で食卓を囲むことはほとんど無かったが稀に連れて行ってもらった温泉の帰りによくココイチに行った。二人して辛党なので3辛とか頼んでサウナ以上に汗をかき、店を出たときのあの夜風の涼しさが気持ちよかった。汗を撫でる心地よい風は、露天風呂にも似た清々しさをくれる。父の車にはいつもスティービーワンダーか久保田利伸が流れていた。父は代え難い時間を延ばすように遠回りの帰路を走った。

僕は小学校のとき1年間だけ柔道を習っており、父に送迎してもらっていた。仕事帰りの父の車はいつも時間通りに道場前に停まっていた。車内はとても清潔に整理整頓されていて、後部座席下に傘が1本あるだけでゴミ一つ落ちていなかった。車に流れていた浜田省吾、安全地帯、徳永英明はこのとき覚えた。いつもスーツだったけれど、たまに作業着のときもあったりして、疲れた顔や弱音は一切出さなかった。これが九州男児なのか。だが僕の飽き性が災いして無断欠席していたある日、父は部屋に来た。怒られると思って布団に隠れていたら「嫌なら辞めてもいい」とだけ言い残して出て行った。いつまで経っても息子の出てこない道場前で待つ父を想像すると申し訳ないことをしたなと思った。

 去年、母方の祖父が亡くなり葬儀に出席するため帰省したときのこと。僕と弟は、おばあちゃん家の最寄駅に到着。この日は珍しく父が迎えに来るという。しかし約束の時間を過ぎても父の車は一向に現れず、何度電話しても出ない。30〜40分は待っただろうか、仕方ないのでタクシーを捕まえて帰った。その30分後に帰ってきた父は「ごめん道に迷った」と言った。何度も通い慣れた道を迷うなんて有り得ないと思ったけれど、その父の姿を見てすぐに合点がいった。痩せた身体に覇気のない声、今にも倒れそうな千鳥足。父は鬱病だった。父は高校卒業から約40年勤続した会社を1年前から休職していた。完璧主義の父は悪化する腰痛を誤魔化しながら働いていたらしく、一度職場で倒れ搬送されたこともあったという。長らく疎遠だった父の晩年の話を聞くと胸が張り裂けそうだった。両親は別居していたので父は実質一人暮らし。父は休職しても生活リズムを崩さなかった。早朝に起きて新聞を取り、近くのコンビニまで車を走らせ、帰ってくる。なぜ分かるかと言うと、生前に最寄りのコンビニで朝食を買う父の姿が防犯カメラに写っていたからだ。警察で見せてもらった。さらに驚いたのは、防犯カメラに映る早朝の父はスーツ姿だったこと。映像は死亡前日の様子なので毎日そうだったのか定かでないが、プライドの高い父はスーツを着ることで体裁を保っていたのだろうか。亡き父の車からはスーツのクリーニング受け取り券(領収書)が見つかった。父がクリーニングを出した日付は勤労感謝の日であった。こじつける訳じゃないけれど、父は自らの頑張りを称えていたと同時に、そうでない現在の自分に絶望していたのではないだろうか。家の隣に建った新築アパートによって太陽光の絶たれた部屋で毎日をやり過ごしていたんだろうか。想像でしかない想像するしか今さら何もしてあげられないけれど。

 父の死因は火災による焼死で、実家は全焼した。火災の原因はトラッキング現象。直接の死因は(死体検案書によると)焼死の疑いとされた。発火元は父の部屋。デスクトップパソコン裏のコンセントからの発火ではないかと言われた。実家は木造二階建てで、父の遺体は真っ黒な残骸に埋もれていたらしい。その残骸の中に読めるか読めないか微妙な書類が見つかったそうで、現場検証を行う警察官から母に連絡があった。「遺体のすぐ近くに〇〇(僕の名前)と書かれた書類がたくさんあるのですが、○○さんと言うのは…」と聞かれたそうで、母は「うちの息子の名前です。長男の教科書かノートですかね。父の部屋のちょうど真上が二階の押し入れだったものでそれが焼け落ちてきたのではないかと…」僕はこの話を聞いた時、何とも説明し難い涙が流れた。かろうじて認識できたのは、教科書やノート、デュエルマスターズのカードくらいだった。ランドセルや絵日記、卒業アルバムその他はすべて煤となり、遺書は見つからなかった。ガレージの車は無事だったものの鍵が見つからずディーラーに依頼して開けてもらった。作業員は細い鉄の棒を窓ガラスの隙間から滑り込ませて、内部ドアロックに圧力をかける。警察や遺族が見守る中、数時間の格闘の末に解錠させた作業員はこちらの興奮を受けてニコッと笑った。車内は相変わらず清潔に整理整頓されていた。遺書などが無いか警察の調査が入る間、作業員のおじさんは僕と弟に気を遣って相手をしてくれた。古い社用トラックの窓ガラスの隙間に薄い鉄板を滑り込ませ、5秒足らずでピッキングしてみせた。まるで手品師が子供を笑わせるような。父には言えないけれど、こういう人が父親だったら…と思ってしまった。父と遊んだことと言えば数える程しかないけれど、大学まで通わせてもらったことには本当に感謝している。

あとがき

冒頭のココイチの話には続きがあって、父のこと書こうと思ったキッカケがありました。
なぜか最近すごくココイチに行きたくなって、昨日の晩にやっと行った。頼むのはいつも同じ、ポークカレー普通サイズの1辛。注文の品が揃い、カレーを一口食べたとき、父のことを思い出した。なぜか。そのときは分からなかったがすぐに記憶が戻ってきて、よく父に連れられたあの味だと気づいた。公立高校に落ちて私立高校に通わせてもらっている僕は、罪悪感からいつもポークカレーを選んだ。父は何でも好きなのを選びなさいと言ってくれるけれど、「具なしが好きだから」と言ってあらゆる魅力的なトッピングを遠慮した。今思えば馬鹿みたいな遠慮なんだけど、まだ心の距離があった父を目の前に、ポークカレーとは500円も差のある手仕込みとんかつカレーを選ぶことは出来なかった。それでも父と食べるポークカレーは美味しかったし、忘れられない。
話は変わるが、来月結婚を控えている。結婚報告を受けた母はひとしきり喜びと祝いの言葉を並べた後に、こう謝罪した。「私たち夫婦は会話や話し合いが年々無くなり、その溝が深くなり過ぎたと思っている。やがて仮面夫婦になった。幼少期から学生時代まで、賑やかな家庭ではなかった。寂しい思いをさせてしまい、ごめんなさい。私は笑い声が絶えない普通の家庭を望んでいた。が、違った。だらだらと言葉並べているが一つだけ言いたいのは、多少に関わらず、どんな些細なことでも話し合う、会話の多い夫婦であって欲しい。すると、お互いを自然と頼りあう仲に必ずなる。私の言えたことではないが」と。あなたたちはコミュニケーションを諦めた。計り知れず抗えない事情があったかもしれないが、問題はそれに尽きるだろう。大人になって両親を憎んだことも自分自身を憎んだこともあったけれど、僕らは同じように傷付きながら自立できたんだと思う。僕は父のようになるのだろうか。先のことは分からないけれど、ただコミュニケーションだけは諦めたくない。それはココイチでも車の中でもいい、雑談したり喧嘩したり相談したりする場所を生涯、絶えず守り続けたいと思う。

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