岡本太郎の武蔵野
岡本太郎が秋田、岩手、京都、大阪、出雲、四国、長崎に赴き綴った「芸術風土記」には、未完の一章があった。武蔵野についてだ。
この文章が書かれた1960年代前半は、まだ昔ながらの武蔵野の姿があった。母・かの子の故郷でもあった武蔵野だ。彼女を仲立ちに太郎はこの地に結び付けられた。もうすでに縄文は彼に発見されていた。「われわれの祖先」という言葉には一万年以上の射程がある。
宮本常一の武蔵野
同じ頃に武蔵野に移り住んだ民俗学者がいた。宮本常一だ。1961年、常一は、三田の渋沢敬三邸から府中市に居を移し、1981年に没するまで生涯の住処とした。
日本中へ旅をしている合間に、この武蔵野を見てまわっていたという。彼はしかし、そこで失われていく武蔵野の風景をみていた。
2人の眼差しが交じわる先に
岡本太郎と宮本常一が作家の深沢一郎と共に対話したのは、1960年のことだった(「残酷ということ─『日本残酷物語』を中心に─」1960年『民話』第18号))。
宮本常一と岡本太郎の写真
彼らの眼差しの交差を通して、いくつもの武蔵野を見つけることができるだろうか。