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関東平野の北限へ古代の道は続く 下毛野の栃木

栃木へ。
鬼怒川を始め左右の山々から流れる川がつくった関東平野の北限。縄文海進時には県内域まで海岸が近づいていたという。


元々は「毛野(けの、けぬ)」という地方豪族が治めていた地域が、2つに分かれ(群馬が上毛野[かみつけの]国で栃木は下毛野[しもつけの]国)、大宝律令の頃に東山道に組み込まれた。古墳の多さはヤマト政権との強力な繋がりゆえだ。新羅からの渡来人がこの地に来ていたことも分かっている。渡来人と馬と道と最新技術、ここでもセットになっている。




東山道は白河峠を越え多賀城まで繋がっていた。この地から蝦夷征伐に駆り出された兵士も多くいたという。常陸国と下毛野国は共に畿内と繋がり蝦夷の領域との前線基地として機能していた。

一方で、当時の東国の人々は太宰府まで徴兵を強いられてもいる。東西の境界線の防人を担っていたのだ。そのうち武力を蓄え、平将門の乱を鎮めた藤原秀郷、源平合戦で活躍した那須与一、室町幕府を開いた足利尊氏など、強力な武士団が生まれてくる。

江戸期に入ると、日光街道、奥州街道を担う拠点になるものの、後期には飢饉などにより疲弊荒廃し人口も2/3となってしまう。明治期は戊辰戦争の舞台にもなる。
現代は農業も盛んで、日光や那須、益子などの観光資源もあり、工業地帯も一定あるなど、産業バランスがいい。栃木の印象は頗るよい。



この地を走る。関東平野の平坦な道が続くけれど、左右には山が広がり、少し奈良でみた景色に近い感覚を覚える。餃子は食べ損ねてしまったけれど、久しぶりに益子のstarnetには寄ることができた。益子はこんな地理上にあったのだなぁ。


なんとなく、この関東平野、身体的に理解してきたような気がする。そうすることでまた武蔵野の輪郭がみえてくる(あ、いや、まだ房総半島があるか)。

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