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渡来する人々の土地 旧高麗郡

埼玉県日高市には、明治時代まで高麗郡と呼ばれる土地があった。現在は高麗郡という地名はなくなったものの、駅名や山、川、神社、寺などあちこちにその名前が残っている。

唐と新羅によって滅ぼされた高句麗の亡命者達1,799名が集められ716年にこの地に郡をつくったと、続日本紀には記されている。高麗山聖天院の境内には、高句麗王族の末裔といわれる高麗王若光の霊廟が祀られている。


初期は高句麗人同士で婚姻していたが、鎌倉時代には和人とも交わるようになったという。この土地でたまに見かける韓国式の石像や柱も、よくよくみると、昭和や平成に建てられているものだとわかる。祖国と繋がっているよすがは高麗神社に代々伝わる家系図だが、しかし、これも鎌倉時代に一度火災で焼け、再編纂されたものだ。
もはや高句麗的なるものは高麗という名以外にあまり残されていない様に思えるが、調べてみると、また違う様相がみえてくる。それは東国武士との関係だ。




高句麗は騎馬民族であったことで知られる。彼らは、馬を育て操る技術を持っていた。当時、この地域一帯は、馬を育て天皇へ献上するための牧が広がっていた。馬は日本列島にはおらず(正確には氷河期以降に一度絶滅した)、古墳時代に大陸や半島から運ばれてきた動物だ。高句麗人たちがこの地で馬を生産する役目を担っていたことは想像に固くない。そのうち、馬を扱う人々は荘園を持ち、武力を蓄え徒党を組み始める。東国武士の発生だ。彼らが、武蔵七党、平氏、源氏の由来となったという説がある。
かくして、政権は東国武士たちによって奪取される。武士の時代が始まる。

『武士道』『菊と刀』など、日本人のアイデンティティの一つとして語られる武士。そのあまりにも日本的と言われている存在の初源に半島の存在があるのだとしたら。もちろん、1,300年も前のことだ。混交習合は繰り返され、今の朝鮮(高句麗だった土地は今の北朝鮮の位置にある)と同じとは言えないだろう。

この前みた飛鳥や奈良には、半島や大陸の強い影響がみて取れる。キトラ古墳の絵は百済人の作といわれている(百済郡は大阪にあったらしい)。日本という国の成り立ちに彼らの存在は余りに大きい。



このことを考えるとき、調べるとき、とても難しく感じる。それはおそらく何かしらのイデオロギーの問題に触れるからだろう。同じエビデンスであったとしても、日本側からみるのと朝鮮側からみるのとでは見解が異なることがある。
神道の神さまの中には、朝鮮から伝わったと言われているものは多い。しかし、だからといってそれらを全て朝鮮オリジンだとも言い切れない。朝鮮の神仏もまた大陸を伝って来たものが多い上、列島にある信仰と習合したものもあるだろう。逆に日本から朝鮮へ伝えたと主張する説さえある。高句麗の家系を引き継ぐ高麗神社も、長らく山岳信仰の修験者であった時期もある。オリジナルとはなんだろうかと考える。

例えば「帰化人」と「渡来人」という言葉の間にもある種の思想が含まれている。「帰化」とは、本来戻るべきところに帰ってくる、同化するという意味合いがある。対して「渡来」はアイデンティティを失わないままに訪れ、場合によっては訪れた土地を自分のものにすることもある。どちらを使うべきか避けるべきかは簡単ではない。
文献や研究書をただ読むだけではその偏りを見分けることは難しい。双方の資料を見比べるしかないのかもしれないのだけど、それも大変だ。とは言え、どっちも合っている、両方間違っている、という判断も適切とは言えない。〈真実の濃度〉の問題だ。

だから今は、判断保留という選択をするしかない。白黒つけずその状態を保つこと。ただ単に勉強不足なのだ。もう少し潜ってみよう。

高麗の土地を自転車で走る。
武蔵野台地と秩父山地の間にある、気持ちの良い場所だ。

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