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その「改行」に魂はこもっているか? AA

ネットでの文章によくある特徴として「改行が多い」というものがあります。ここで「やたらと改行が多い」と表現しなかったのは、そのネットの改行の多さに対して良し悪しを感じているからで、ニュートラルに自分の心を置きたいからです。

ネットにおける改行が多い理由は、それまで紙を中心とした文章に対するアンチテーゼだと感じています。要するに、「お前ら昔の文章は読みにくいんだよ」と改行の多いネットの文章は主張するのです。これは確かにそういう側面があり、意味毎に分節された改行なんかは、従来の改行の少ない文章に比べて読みやすいことが多いです。

一方で、三浦しをんさん『マナーはいらない』の中で「小説においてはみだりに改行を使う」ことに疑問を呈します。

(2021/10/15 追記「小説においてはみだりに改行を使ってはいけない」と主張しています。と書いていましたがコメントで指摘された通りで軽率でした…、なんなら三浦さんは本書基本自由に書くべきだと主張している。ここの部分では私の魂が抜けていたのでお詫びして訂正いたします。)

彼女の言葉を私なりに解釈すれば、改行一つにも神経を使って作品を作り上げるともっといい小説になるよ、と言っているように聞こえます。

これはネットにおける「改行の多さ」のアンチテーゼに対する新たな視点として見ることができるのではないでしょうか?

最初にも言いましたように、文章の改行が多くなったことは良し悪しの二面性を持ちます。今日はそこにスポットライトをあてて、よりよい文章を考えていきます。

そもそも「改行」が与える印象

改行が与える印象というものは、文章によって様々になります。『マナーはいらない』の中で三浦しをんさんは、場面の切り替わりとかでうまくアクセントとして使えるといいよねと言っています。小説においては基本、改行(一行空き)がありません。(マナーはいらないの中では「一行空き」と表現している、改行と一行空きは微妙に違うがここはプロ諸君はうまく読み取って欲しい)その中で改行(一行空き)を加えることは、文章に変化をつけることを意味します。

一方で、ネットの改行文化は文章の幅を大きく広げる芸術的な技法となっています。例えば、「あいしてる」という表現で改行を加えた場合とそうでない場合を比較すると・・・

あいしてる
あ    

   い

し  

  て

る 

このように文章で与える印象を大きく変えることができます。改行のない方は通常のあいしてる、文字通りの「愛してる」ですが、改行のある方は、通常ではない”あいしてる”、狂気を含んだような「愛してる」の印象を与えます。

大きな視点で見てみれば、改行というやつは「文章に空間を与えることによって、実のある文章に本来備わっているはずのない、虚を持たせることができる」という感じではないでしょうか。これが改行が与える印象と考えます。

「改行」と添い遂げて文章を書く

「改行」を自由自在に操れるようになるというのとは、少し違うものを私は求めます。なぜなら、さっきのあいしてるの表現は表現している最中に勝手に出てきたものだから。言ってしまえば、文章を作るうえで改行と添い遂げるような感覚です。

表現技法というやつは、使っていないと身につかないようです。逆によくない技法でも使っていると身についてしまうようです。

人の文章を批判する気はさらさらありませんが、あなたの文章は「結果的に無意味な改行」が多くなってはないでしょうか?もしくはこう自分に問いかけても同じだと感じます。「私の文章は改行がないことによって息苦しくなってないか」

改行に狂気を持たせて世に解き放つお手伝いをしていただけないでしょうか?(私には珍しい勧誘)

狂気によって文章は魅力的になる

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最後にもう一度この「あいしてる」を見てみたいと思います。

私は余程特殊な人でない限り告白にこのあいしてるは使うべきではないと感じます。なぜなら、告白という行為が元々狂気じみているのにそこに告白の文言まで狂気じみたものを乗っけると、本来うまくいったパターンでうまくいかなくなることがあるからです。

しかしながら、一部の「狂気が理解できる人間」にはこのあいしてるが刺さります。(当方はその効果を保証するものではありません)

そして多くの人を引きつける文章というのは、この「狂気」に似たようなものをまとっています。

何か尋常ならざるものに人は引きつけられるのです。

おわりに 私に狂気の源はあるのか

個人的には、あると思っています。通常ではない家庭環境とか色々な要素からみて。しかしながら、それを引き出すには色々修練が必要なようです。

狂気の沙汰ほど面白い
by赤木しげる

『アカギ』の中で主人公赤木しげるはこういいます。通常ではないような人間の感覚が面白さを作り出すというのは、ある程度そうであると感じています。

そして、狂気までも共存させる彼の生き方、というより生き様は『アカギ』という作品の根底に流れているようです。

私に狂気はまとえるのでしょうか?というよりもうすでに存在はしているので、それは出てくるのでしょうかが正しいでしょう。

物事の理屈の外に人間の面白さはやはり存在しているようです。

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