見出し画像

それでもボクはしんじない

信仰が人を人たらしめるのか?

 「信仰」 と聞けば、最近世間をにぎわすのはもっぱら、宗教2世であろうか。ヒトが、子供から大人へと「成長」する環境は、ある程度子供自身には選択できず、子供はその家庭のしきたりに従って「生かされている」。それはある意味で、生きる上での対価であり、自由だとか、人権だとか、平等などの概念が浮かび上がる前には、パターナリズムで父権的な世界観に、違和感を感じることは、少なくとも今より知覚しにくかったのだろうし、それを認識した上でもどうしようもなかったと考えられる。

 恐らく、この「信じる」行為は人がひとである上でとても大切な役割を果たしている。それは、家庭内のしきたりに盲目的に従えというのではないが、そのなかで利用できるものを利用することが、やはり時代を生きていく中で有効であることを意味している。

 例えば、お箸の使い方一つとってみてはどうだろうか。子供は、(あるいは外国人と置き換えてもよい)、大人の箸の使い方を真似て、使いはじめる。真似るという行為の前提には、真似る対象の動作が正しいと仮定することが含まれている。やはり、大人を(あるいは日本人を)信じなければ、棒切れ二本である箸を使いこなすことは、中々難しい。

信仰と人

 結局のところ、知性を持った人間は、他者を信じていきることが効率的であることが多い。その信仰の対象となる行為の裏側にはやはり、信仰の積み重ねがある。誰かがやってきたからその行為は、その時代において合理的である可能性が高い。いまの時代、川に洗濯しにいく人は少なく、一方で200年前にはそれがあたり前であったのだ。

 信仰の積み重ねの中で、人は進歩してきたのであろう。一方でその信仰を疑うことによっても人は進歩してきたのであろう。だからこそ「地球ではなく、太陽が動いているのだ」という天動説は否定できる。(これもやはり究極的にはそう信じられているだけなのであるが)

 しかし、それも信仰に裏打ちされた世界であるからこそのフロンティアである。

国家

 国家という信仰は、この数百年、その国家以外の民族を駆逐するのにうまく機能してきた。言い換えれば、国家内部にいきる人間を保護するためにうまく機能してきた。同じような言葉を使い、同じような生活をし、同じような場所に住む人々は、ある意味ゆりかごのような庇護下で、その信仰を刷り込まれてきた。

 グローバル化が叫ばれた10年前には、神が死んでいったように、国家は死んでいくように予見された。その「信仰」はやはり少し間違いではあったのだが。

 どっかの馬鹿が戦争を始めたのもやはり、国家という信仰によってである。この信仰の解体は、この世紀で行っておきたい。信仰で争って、死ぬ人々がいなくなるために、自分の信じたいものを信じて生きていけるように(ここは難しいのだが)。という私の信仰のために。

信仰がもたらす狂気

 信仰がもたらすパワーとも言える。どっかの国家は、ろくでもない戦争を引き起こすし、どっかの宗教団体は、ろくでもないテロを起こすのである。何かを信じて疑わないことは、とてもパワーになるし、盲目的でいられることは、少し羨ましいとも思う。恋という信仰は盲目なのだ。

 それでもボクはしんじない

 信じないという宗教を信じる。

 信仰が人を人たらしめるのは、やはりそうであって、私も少なからずそうやって生きていくだろう。しかし、信じないのが基本路線である。

 と書いてきたが、この発言も信じてはいけない。絶えず検証し、人が何を言っているのか、言っていることが正しいのか、信じる対象がなにであって、信じようとしていることが正しいのか、考えて行動することしかボクはできないのであろう。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?