意識高い系の脱構築的試み

最近、「意識高い系」という言葉が蔑称の意味で使われているという現象があるみたいですね。

この驚くべき事態に対して、はたまた考えてみようかなと思っております。

まず、「なぜ意識高い系が蔑称され始めた?」という疑問ですが、一要因としてあげられるのが、嫉妬・妬みの感情でしょう。

ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェの言葉を借りるなら「ルサンチマン」です。

意識高い系と言って相手を蔑む言動は、せいぜい自分に無いものを相手が持っているという「羨望」の感情が闇堕ちした結果でしょう。

「別に羨ましくない!こんな頑張ってる奴らは、愚かだ!」と言って自分の立場を正当化しようとするわけです。

当然、真っ当な主張ではないので、「意識高い系」と揶揄して、ごちゃごちゃ抜かしてくる人は、相手にする必要がありません。

更に、もう少し踏み込んだ考えをしてみましょう。
果たして、「意識が高くない人」なんているのでしょうか?或いは、多いのでしょうか?

よく「意識高い系」と揶揄される人は、本から学びを得ている人達です。

これは、確かに比較的に「意識が高い」でしょう。
先に、私の考えを表明すると、「意識が高い」というのは、何ら悪いことでもなく、蔑称されるようなことでは、当然ありません。

スポーツに熱心に取り組んでいる人は、「スポーツに対して意識の高い人」です。
音楽に熱心に取り組んでいる人は、「音楽に対して意識の高い人」です。
そして、学びに熱心に取りくんでいる人は、「学びに対して意識の高い人」です。

こう考えると、「意識が高くない人」の方がよっぽど少ないでしょう。
皆、何かしらに対して、熱心に、或いは、こだわりがあるはずです。

「意識高い系」という言葉が蔑称として扱われるのは、少々お門違いな話です。

しかし、(相当ぶっちゃけますが、)「意識高い系」と呼ばれる人達の中には、確かに蔑称されてもおかしくない人もいると思います。

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