見出し画像

ハイデガー流不安とは何か(&自己啓発本が売れる理由)

はじめに


今回は、ハイデガーの不安論をここに綴ってみます!
前回、ハイデガーに即して「恐怖とは何か」を見てみた(下記リンク)わけですが、そこでも述べたように、ハイデガーは、恐怖との比較を通じて「不安とは何か」を探究しております!

ハイデガー流恐怖とは何か?|koten.book (note.com)

てなわけで、恐怖論だけ書いて不安論をやらないというのは、少しどこか気持ち悪さを感じてしまったので、お時間ある方はお付き合いください!

前回同様、ハイデガー『存在と時間』の光文社古典新訳文庫、今回は5巻(「最後に」で六巻)を参照しています!以下で引用を行う際は、ここからの引用ですので、頁数表記以外は割愛します。 

それと、『存在と時間』を読んでいない人にも分かるように書こうと思うので、少し粗さが出る点はご容赦ください!(ただ今回はリクエストではないので、引用は多めにします)

軽く前提

まず前提として、ハイデガーは私たち人間(現存在)は、日頃「頽落」として存在しているといいます。
「堕落」とイメージは近いですが、日頃からあまり何も考えず、世間や「ひと」に合わせてばかりの形で過ごしていることを(「頽落」と)指しています!
頽落の状態というのは、確固たる自分を持てていないというわけですね!(この頽落は、堕落のように何か悪いといったものではなく、価値判断を伴わないものです!)

じゃあ、なぜ私たちは頽落して過ごしているのかというと「不安」のせいです!「不安」が私たちを頽落させてしまうのだと!
こういった文脈で不安探究が始めるわけです

不安とは

「不安が〈何を前に〉して不安を感じるかというと、世界内存在そのものを前にしてなのである。」(31頁)

何やらスケールのでかい言葉ですが、世界内存在とは、(正確さを欠いた言い方ですが)私たちが今見て過ごしているこの世界のことです!
色々なものが繋がってできているこの世界を前にして私たちは不安を感じるのだと言っているわけですね笑

「恐れ」の場合は、脅かすという性質を備えた有害なものが迫ってきて、今の私の存在を変えてしまうのでは無いかという危惧に対して、私たちは「恐れ」を感じているのだという説明がありました。

これに対して、「不安が〈何を前に〉不安を感じているかということ、それはまったく未規定なものにである。」とあります。(同頁)

ふむふむ、とりあえず一旦重要なのは、「不安をもたらすのは、未規定性」であるという点です!
これはつまり、「あれ」や「これ」と言った脅かすものが、明確じゃないということ自体が不安の特徴なわけです。

不安はどこにあるのか?


「不安は自分が何を前にして不安を感じているかを「知らない」のである。」(32-33頁)

引用でもこの点が、くどく主張されているわけですが、注意点があります!
何に不安を感じているか「知らない」ということ、そして、「どこにもない」ということを、「何もない」と同じと捉えてはいけないようです!
(ややこしいですね💦)

「知らない」&「どこにもない」≠「何もない」

この定式を覚えておくとして、ハイデガーに言わせると不安は、「「そこに現に」あるのであり、しかもどこにもないのである。(略)息もできなくさせるほど近くにあるが、どこにもないのである。」ようです
(頭パンク案件)

現にあり、近くにあるが、どこにもないのが不安…「灯台下暗し」ってことなんですかね笑

不安とは〇〇です

はっきりそれが何なのか言ってほしいですね!
ですが、実は私たちはもうすでにそれを知っています!

冒頭にあった「世界(内存在)」です!!!世界が私たちを不安たらしめているのです!
「不安を感じさせる〈何を前に〉は世界そのもであるということを意味しているのである。」(33頁)

たしかに、世界は、現にあり、めっちゃ近くにありますが、どこにもないものと言えそうです笑(「これが世界です」と明確には指せないので)

「いや、なんで世界が我々を不安にさせるねん!?」というごもっともな質問が飛んでくるかと思います笑
少し、他の引用より長いですが見てみましょうー

「これが告げているのは、世界内部的な存在者は、そのものとしてまったく重要ではないものであり、そのために世界内部的なものがこのように意義のないもであることを背景にして、世界がその世界性においてひたすらなおも迫ってくるということである。」(34頁)

世界内部存在者がまったく重要ではない、即ち、私たちを含めたあらゆる存在者はまるで重要ではない虫けらも同然で、なんの意義もないことが「不安」をもたらすということです!

「ニヒリズム」や「虚無」と言えばいいでしょうか?
私たちは、なんの理由も意味もなく、この世界に生まれ過ごしております!
この事態が私たちを「不安」へと導くわけですね…

故に、「不安が〈何について〉不安を感じるかというと、それは世界内存在そのものであるということを意味するのである。」(35頁)
つまり、世界に生きて存在することそれ自体が「不安」をもたらすのだと!

意味を与えてもらうと楽になる

「あなたの人生は〇〇のためにある!」「あなたは〇〇するために生まれてきたのです!」と言った自己啓発本の類が売れる理由は、まさにこの点です!

私たちの存在は、まるで無価値で何の意味をなさない、ニーチェ風に言うと神という絶対的な価値は死んでいる、これが私たちの世界です!

しかし、それだと「私たちはどうすればいいんだ…」と「不安」になってしまうわけですね!

そして、この不安から目を背けるツールとして、自己啓発本が一役買うわけです!(これは別に悪い事ではなく、私たちという不安を抱えて生きる人間にとっては仕方のない事態です)
まさに、世間的な考え(流行りの自己啓発本等)に流され、不安から目を逸らして、頽落的に生きたくなるわけです!

不安、不安、不安、・・・どうしましょう?

先述したように自己啓発本及びセミナーで不安から目を逸らすというのは、悪い事じゃないですよ?
「頽落」という言葉に善悪の価値感は伴っていないと言いましたので、この行為を非難しているわけではないのです!

ただし!!!

世界そのものがマルっと無価値で、それが「不安」の要因だというハイデガーの主張を思い出してください!

「世界そのものがマルっと」なわけですから、この中に、そのセミナー講師や自己啓発本も当然に含まれています。

なので、ハイデガーに言わせるならこれらは、根本的解決策にはなりません! 

という指摘は、させていただきます笑

不安は何をもたらすのか?

今見たように、セミナー講師も自己啓発本も、それどころか世界にあるものすべてが「無意味」です。
これは、即ち、「孤独」です。

悲しい結論です……

否!!!!!!

ハイデガーが向かったのは、悲しい結論ではございません!
「孤独」というのは、何ら悪いものではございません!
(この孤独の重要さを説いている本として、谷川嘉浩『スマホ時代の哲学 失われた孤独をめぐる冒険』があるので、是非読んでいただきたいのですが、孤独は一人で悶々と考える時間を得ることができます!)

ハイデガーはこの不安による孤独化から「投企」しろといいます!
「投企」というのは、自分のやりたいことの人生計画※のようなものです!

※(但し、世界が無意味なものなのでこの「投企」は本来は、有無を言わさず強制的に行わされるもので、その点を留意してハイデガーは「計画」と言わずに「投企」という言葉を使うわけです。なので厳密には「投企」=「人生計画」とは異なります)

今や私たちは孤独です。それはつまり、いい加減な世界の価値観に閉じこもる必要はないということです!
そういう意味では、不安のもたらす孤独は(自分の固有性に投企する)自由への道です。

ハイデガーの不安論は、このような結論に辿り着きます!

さいごに

さて、光文社古典新訳文庫5巻の『存在と時間』における不安論に即してこれまで色々みたわけですがー…

要約して言ってしまえば、今自分は何をどうすればいいのかが分からないというこの「分からなさ」が不安をもたらすのだ、と言えそうです!

更にハイデガーの結論を見るに、「その不安を直視しろ、不安に耐え忍ぶのだ、引き受けろ」っていうわけなんですよねー
「臭い物に蓋をする」じゃなくて、引き受けろってことなので、それ相応の「決意or覚悟」が必要です!

なので、六巻ではこの「決意性」という概念に焦点をあてた主張が展開されているのですが、その決意性がどのようなものかを見てみると、

「もっとも固有な負い目ある存在へ向けて、沈黙のうちに、不安に耐えながら自らを投企することである。」(249頁)

私はこの「不安に耐えながら」に重きを置いて生きていきたい(投企したい)と考えています!
昨今少し言われ始めた「ネガティブケイパビリティ」を大切にする考え方とかなり相性がいいですよね!

「ネガティブケイパビリティ」というのは、答えを直ぐに出すのではなく、不確実さや分からなさを抱えることのできる能力のことです。

簡単なファーストフードのような答えにすがって生きるのでなく、(「NARUTO」の自来也が言うように)忍び耐える忍者が如く、答えの無さという不安とともに私は生きようと思います。

以上

ご感想等はこちらまで!活動の動力源になります!
コテン@koten.book (古典的名著を面白く普及(@koten.book) • Instagram写真と動画

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?