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[小説を読む意味について]-哲学者はどう考える?-

「小説を読む意味って何ですか?」って質問に対する回答は巷で溢れています!

この質問に対するインフルエンサー的な回答はだいたい、「好きだから読む、あくまで個人の好みで、好きじゃないなら別に読まなくてもいい」みたいな感じですね!

なるほどなるほど、確かに嫌々読んでも仕方ないですからね~、間違った主張ではない

だけどぶっちゃけこの回答、「小説を読む意味をちゃんと考えてない、無難な回答に逃げてるだけ」にしか映らないですけどね(煽)
なんなら、質問の回答にもなってないし笑

少なくとも、リチャード・ローティという哲学者に即すなら、もっと明確な回答があることになります!
その点をご紹介してみようと思いまーす!

小説を読む意味は、このローティーさんに言わせると「連帯」を促すためということになります!
つまり、人々の結びつきを促すことに役立つと考えるわけですね👍

どういうことかと言うと、社会の中で苦しんでいる人々というのは(一定数そういう人達がいるのは前提として)、この苦しみを言語化しろと言わても当人達には出来なかったりします

これを言語化するのが、文学者や小説家(若しくはジャーナリスト達)です!
彼らは、苦しみを被っている人々の感情や環境を巧みに描きます!
(自分が抱いてた苦しみを上手く言語化してくれた小説って恐らく皆さんもあるのではないでしょうか?)

例えば、「奴隷制」の悲惨さを描いた文学作品はいくつかございますが、この奴隷制の悲惨さたるものを繊細に書いた作品が人々に渡ったとします

すると読者は、「こんなの許していいの…!?」と「感情」が動かされるわけですね~

「奴隷」というのは、その社会から「排除」(「連帯」とは真逆)されている人々です
つまりどうなるかと言うと、「奴隷制はよくないだろ!ちゃんと同じ仲間として接さないと!」と人々の連帯運動が生じるわけですね!
(事実、奴隷制を描いた文学作品が流行り、奴隷解放運動に繋がったというケースもあるようです)

別の言い方をすると、文学は人間や社会の残酷さを自覚でき、その残酷さを減少する作用があるというわけですね!

ちなみに、なぜ「哲学」や「社会学」といった学問でなく、「文学(小説)」なのかというと、社会を連帯という方向で促すには、理路整然と分析を述べるより、感情に訴えかけるものの方がよいからです!
(この説明で行くと「映画」などの映像作品にも、この力はありそうです)

例えばですが、今年の芥川賞作品である『東京都同情塔』は、「なるほど、寛容の行き過ぎで、感情的な苦しみを受けてしまう人がいるのか~」と、これまで何も思っていなかった一定の人達(本作だと被害者感情ですね)に対して「共感」を抱かせてくれます!
(私は現代日本で寛容の行き過ぎを批判する程、寛容の流布は微塵も生じていないと考えているので、これはあくまで例ですし、まだまだ寛容をうたわないとダメだと考えています)

もし現在、犯罪者が野放しにされているような事態になっていたと仮定すれば、「それは不味いだろ」といった「連帯」を本作は生んでくれるわけです

以上がリチャード・ローティに即した、「小説を読む意味論」です!
本稿は、『100分de名著 ローティ「偶然性/アイロニー/連帯」』に即したものになりますので、是非読んでみてください!
(原著を読んでないので、だから今回の投稿はnoteにしました笑)

さて、最後に個人的な考えです!
以上のように、文学という言葉の力は絶大です。しかし、言葉の力は人間の残酷さを減少させる力があると同時に、むしろ、残酷さへと向かわせる力があると考えています。
(この点もローティは小説論に入る前に指摘しています)

つまり、一歩間違えれば、小説が社会を残酷で苦痛な悲劇的状況下を促進させてしまうこともありうると考えています。
であるのならば、私は(言葉の芸術性を描く著作は別として)、何か思想や社会的批評を込めて物語を書くのであれば、しっかりその分野を勉強して書いてほしいと強く思います。

この主張が現代の作家に届くかは不明(というか多分無理)ですが、今これを読んでくれている未来の作家さんには届くやもしれません!
是非、この観点を忘れないでいてほしいですね!

以上、哲学的視点による小説論でした!

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