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「逃げてもいいんだよ」を綺麗事にしないために-現代の「逃走論」を考えてみる-

目次


・はじめに
・前稿のあらすじ
・博打とは逃走
・二つの博打
・勉強とは何か
・勉強の例
・家庭菜園と創造
・「努力の結果がでる」と「努力が報われる」の違い
・まとめと結びにかえて

はじめに


本稿は、以前書いた「人はなぜ生きるのか?」という王道の哲学テーマについての所感|koten.book (note.com) こちらの試論(以下「前稿」と略)の続きという立ち位置です。
ですが、前稿を読んでいなくても話は分かるように書くつもりですので、未読の方でも興味があれば是非お付き合いください。

前稿のあらすじ


「人はなぜ生きるのか?」という問いから、私が着陸した答えは、「変化の博打性に魅入られて」というものでした。
これはつまり、(微小な)変化が時間の流れの中で生じているので、変化そのものを楽しんで生きてみてはどうかというものです。

しかし最後、単にダラダラと過ごしていてもいいわけではないという点を指摘し、こちらの動画を紹介して終わりました。


本稿はこの部分(単にダラダラしない点)を掘り下げていく形のものです。
よって、動画の要約的側面も(かなり)兼ね備えていますので、是非この後ご視聴されてみてください。

博打とは逃走

前稿・先述のように、私は人生において「変化」に重きを置いています。
なので、当然の帰結として「変化」を促進する動きに対しては、肯定的です。

そして「変化」は、どのように変化するかは分からない(つまり、良い変化もあれば、悪い変化もある)ので、ある種の「博打」を勧める形になったわけです。

ここでこの「博打」という言葉を、上記の動画及びドゥルーズ(+ガタリ)や浅田彰先生に即して、「逃走」と置き換えることができます。

例えば、今務めている会社を辞めるというのは、今ある環境から立ち去り(=逃走)、そして、新たな環境などの変化をもたらす行為(=博打)です。
(その逆でも構いません。新しい仕事をやる場合は、その仕事を始める以前の環境からの逃走であり、それがどのような変化をもたらすは分からない博打です)

このように、私の言う「博打」は、彼らの言う「逃走」と同じ意味作用があるということになります。

つまり私(や上記の論客)は、「逃走」することを推奨する「逃走論者」です。
現に、浅田彰氏の著書には、「逃げろや、逃げろ、どもまでも」を標語とした『逃走論』という本があるぐらいですし、こういった考えは実在します。

「博打」とは、「逃走」であり、それは肯定的に捉えられるべきものだというのがまず大前提であることをお伝えします。

二つの博打

「じゃあ、会社やめてとりあえず宝くじ買ってみたり、パチ屋に入り浸ってみるか~」とか「適当なユーチューブ撮って、バズることに期待しよう~」

という「単純な博打(=逃走)」をやれとは言いません。
(まぁ、やるなとも言いませんが、私がここで推奨したいことではありません)

上記の「完全に運任せの博打」に対して、私が推奨しているのは、「努力を伴なった博打」です。

このことを千葉雅也先生は、「蓄積+偶然性」と言っており、何か努力によって蓄積したものを持って、逃走(=博打・偶然性)しないとダメだよと言っています。

そうしないと、逃走の果て、野垂れ死ぬ可能性がでてしまいますので。

では、ここでいう「蓄積」こと「努力」とは何か?
「勉強」をすることです。

勉強とは何か

勉強といっても、学校で習う「国・数・英・理・社」といったものに限りません。
(限らないだけであって、これらが対象でも構いません)

ここでいう勉強の対象は、「ファッション」や「包丁さばき」、「コーヒースキル」に「芸術・美術」「哲学」「文学」、更には、「アニメ・漫画」から「ITスキル」に「スポーツ」と広範囲なものです。

これらの対象を勉強という形で、努力・蓄積をしていき、そして、逃走を試みるべき時に試みよという主張をしているわけですね。

では、勉強とは何か?
ここはご察しかもしれませんが、千葉先生の著書である『勉強の哲学』に即した説明をしていきます。

勉強とは「アイロニー」と「ユーモア」を伴なったものということなのですが、この言葉は本書を読んでいない人には伝わらないと思うので、本書で使わていたこれらに変わる一般用語として、「比較検討をすること」と言わせていただきます。

勉強=比較検討をすること

この比較検討を「単に考えること」という意味で済ませてはいけません。

ここでの「比較検討」とは、①「それは何故そう言えるのか?」を問い、②「他の視点ではどんなことが言えるのか?」という問いを(ある程度まで)深堀することです。

また、『勉強の哲学』に即すと、「勉強とは自己破壊である」というテーゼがあります。

即ち、今ある自分から別の自分へと変化する作用が勉強にはあるのだというわけです。
(何かを勉強する以前と以後の自分を比較してみると分かりやすいよいでしょう)
勉強にはそもそも変化を促進する効果が付いてあるもので、これも抑えておいて欲しい点です。

勉強の例

例えば、「正義」というものについて勉強してみる場合を想定してみましょう。

まず、教科書的なものが必要だと思いますので、それ(「正義」に関する教科書)を読んでみます。

そして「なるほど~、ロールズって人は、公正・平等ってものを正義だと考えたんだね~」と知り、彼の思想が気になったとしましょう。

なら次のステップとして、①「どうして、ロールズって人は、公正・平等を正義だと考えたんだろうか?その思想過程はどのように位置づけられたんだろう?」と自ら問題を提起し、彼の『正義論』を読んでみたり、或いは、その解説書を買って読んでみたりするわけです。

この動きを何度か繰り返し、ある程度「正義」というものが分かってきました。

では次の段階として、②「ロールズの正義論がだいたい分かったけど、ロバート・ノージックって人は、ロールズと真逆の正義論を主張しているのか~、彼の視点も取り入れてみよう」と別の視点から正義について考え始めます。

またこれらは、公共哲学という観点からの正義論ですが、法学や政治学など他学問の視点からも正義について考えることができます。

このように勉強をするというのは、①「どうして〇〇なのか?」②「他の視点ではどうか?」を問う行いであると言えます。
(詳しく知りたい方は千葉さんの『勉強の哲学』を推奨)

家庭菜園と創造

勉強は、自分の内に家庭菜園を育むことと比喩できます。

つまり、「うちの家庭菜園では、水仙の花とサボテン、あとは、金柑の木があります」というように、「私には、哲学と法学、あとコーヒーの知があります」みたいな感じで、自己の内に勉強による家庭菜園を育んでいるわけです。

この家庭菜園の比喩は、動画内での発言を拝借したものなのですが、個人的には「どうぶつの森」の世界観を想像しました。

どうぶつの森も時間をかけて努力(例えば、魚を釣ったり、木を植えたり、お店や自分の家をでっかくしたり)して、自分独自の村(=家庭菜園に当たる)を創造していくゲームです。

「創造」という言葉が出ましたが、ドゥルーズも「創造性」というものに非常に価値を置いており、そもそも「逃走」とは「創造的なもの」と言っている哲学者です。

となると、「勉強-逃走-創造-博打-変化」という概念群は切り離してはいけないものと言えそうです。

「努力の結果がでる」と「努力が報われる」の違い


私が推奨している「努力を伴なった博打」というのは、このような意味での勉強と逃走を行っていくこと(創造的なもの)です。

ここで、「努力(=勉強)をしても結果が出るとは限らないだろ!」という批判があるかもしれません。

この批判をしてくる人(のみならず大勢の人)は、「努力の結果=努力が報われる」という図式で捉えていると思われます。
しかし、この両者は私に言わせれば別物です。

「努力が報われる」というのは、自分が目的とした事柄に対して(直線的に)結果が出ることです。
例えば、甲子園を優勝を目指して努力し、それを成し遂げたのであれば、これは「努力が報われた」です。

そして、必ずしも「努力が報われる」わけではありません。
上述の甲子園の例からも分かるように、努力が「報われる」のは一校だけです。

しかし、「努力の結果は出る」可能性は非常に高いです。

例えば、甲子園は一回戦で負けてしまったけど、えぐい程努力はしていた。だからか、プロから勧誘を受けた。
あるいは、将来学校の体育の先生になる際に、野球部時代の努力(による知識)が役だった。
若しくは、子供が野球を好きになったのでアレコレ教えてやれる、キャッチボールの相手もしてあげれる。

などなど、「ズレた所」「意外な所」から結果が生じることがあります。

このように勉強という努力もズレた所で結果が出てくる可能性が非常に高いと思います。

それこそ個人的経験則ですが、哲学を勉強してインスタで日々発信していることが、出版される本のコラムを書く未来につながるなんて微塵も思っていませんでした。
(アバタロー著『人生を変える哲学者の言葉366』の1~4章のコラムは私が書かせていただいてます)

このことから、「勉強や努力をしても意味がない」という主張に対して応答が可能なものとなります。
意味があるかどうかは、事後的にしか分からず、しかもそれが、ズレた所で生じる場合が大いにあるということです。

これを「努力によるズレた結果」と称しておき、この「努力によるズレた結果」を敏感に察知しようとする心持が重要だと考えられます。

まとめと結びにかえて

まとめましょう。
①まず、前稿で生きるうえで「変化と博打性」に重きをおくことに帰結した
②博打とは、逃走であり、これは肯定的なもの
③その「博打=逃走」には二種類あり、「努力も伴った博打(=逃走)」を推奨
④どんな努力をするかというと勉強であり、それは比較検討を行うこと
⑤勉強とは、創造的なものであり、家庭菜園に例えることができる
⑥「勉強(努力)-逃走-創造-博打-変化」の連なりがポイント
⑦「努力(=勉強)は、報われないかもしれないが、結果が出る可能性は非常に高く、これを察知すべし

これらを加味するに何が言えるか?
バブル経済下における80年代の逃走論は、「逃げろや、逃げろ、どこまでも」でした。

これが、アップデートされ、「逃げろや、創れ、賭けてみろ」+「学べや、変われ、結果を察知しろ」のWキャッチフレーズが結論かなと思われます。

もちろんこれは、謳い文句であって、このような生き方を強制的したいわけではありません。
別に今の環境が居心地いいなら、逃げず・学ばずで問題ないでしょう。

しかし、何か閉塞感を抱え、社会にうまく適応できずに苦しんでいる方がいらっしゃるのであれば。
是非、これらの意味での「逃走」を試みてください。

以上

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