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長篠の戦いについて2

 皆さま、この度はご覧頂きありがとうございます。頑張って解説いたしますので、楽しんで頂けたら幸いです!
 
 もし見てよろしければnoteのハート❤️かTwitterのいいね!を頂けると大変励みになります。

※先にお詫び致しますがかなり長くなってしまいました。途中で嫌にならず最後まで見ていただけると嬉しく思います。場合によっては何回かに分け見るのをオススメします…
 また寂しいですが…休憩時間🌟を抜いて本編解説のみ見ていただくのも良いかもしれません…もしくは4.長篠の戦いについての解説から見てもいいかも知れません、悲しいですが…

 まず初めに、今回の趣旨についてご説明します。今回長篠の戦いについてよくわからないから解説して欲しいとの要望がありましたので、私が作成した地形図を元に解説を行うものでございます。
 地形図は国土地理院サイト傾斜量図を私の方で編集したものを活用しています。

 本解説はあくまで私個人の一意見でこれが正しく、他が間違っている等ということは決してございません。歴史自体色んな視点で捉えることが重要だと思います。それを踏まえた上で楽しんでいただけたら嬉しく思います。

解説に入るまえに

 今から解説する私の歴史の立場をご説明致しますと、長篠の戦いは基本的に二つあり、長篠城での戦い、設楽原の戦い、一般的に言われる長篠の戦いは設楽原の戦いなので、設楽原の戦いメインで長篠城の戦いはあまり解説致しません。

 作成した地形図は攻め落としたと言った記載から、馬防柵はわからないが、織田・徳川が守り武田は攻めの状況、防御のための施設(馬防柵、それに準じる柵、逆木等)はあっただろうという推測、三段射ちは分からないが鉄砲隊はいてもおかしくないだろうと言う推測、この状況下であれば騎馬隊(騎兵のみの編成)で突撃したとしてもあり得なくないだろう(理由は後程)と言う推測からなるもので、あくまで推測、考察の域をでません。

 また、今回の取り組みは歴史的な記述からではなく地理学的な視点で長篠の戦いを見る試みなので歴史的な史料との食い違いがあってもご容赦下さい。
(この前の長篠の戦いQ&Aでもやりました通り長篠の戦いは史料が少なく史料批判ができないので代わりに地形から読み取ろうとする試みです。えっ…なぜ、何?Q&Aを見ていない?noteのプロフィールから長篠の戦い1に行けばあるので是非見てください!!!🔥🔥🔥🔥🔥🔥🔥)
 それを踏まえた上で後拝読ください。
 お手元に私が解説する画像を印刷するか、復窓でご覧になるのをオススメ致しますが、随時画像も入れるので安心してください。

それでは本編解説始まります!

1.長篠の戦いに至る経緯の説明 

 
では初めに、そもそもなぜ長篠で戦いが起こったのかの経緯の説明からご説明いたします。
 武田信玄から武田勝頼に代が移りましたが、武田側の基本的な戦略としては、織田・徳川に対する短期決戦を狙っております。

 理由としましては、織田が西部と北部に兵力を分散している(あまり大規模な援軍がこない)内に東海地方を手に入れたかった(徳川を攻め滅ぼしたかった)、長期戦にすればするほど国力の差が大きくなってしまうため、短期にせざるを得なかったこと等が上げられます。

 武田の領地はご存知の通り山に囲まれている場所で元々米の生産力は高くありません。さらに、川中島の戦いを始めとする連戦が続き、兵力(労働力)が失われてしまったことも生産力の低下に拍車をかけてしまっています。

 さらに商業においても元々港がなく山間部で物流が遅く商業が発展しずらい状況でした。商業が発展していれば、米、もしくはそれに準じた物資で補うことも出来たのでしょうが、武田の領地ではそれも厳しいでしょう。

 それに対して織田は長期戦の構えです。
 織田としては武田と戦うよりも京都付近、畿内の平定を主にし、西側に兵力を集中したい状況です。更に物資は潤沢で清洲、境などの商業が活発な所を押さえているので、武田と争う必要がない、争いたくない状況です。

 その織田が畿内の平定に兵力を集中させている隙に武田が勝負に出たのが長篠の戦いに至る経緯になります。

※上杉や北条ではなく、なぜ徳川を狙ったのかと疑問に思われる方もいるかもしれませんが、これらの要因から織田に対抗するために徳川を狙ったと言っても良いでしょう。(上杉、北条を狙っても織田、徳川の勢力拡大が速くなるだけで後々戦力差で圧倒されてしまいます。北条、上杉狙ってもメリットがないどころかデメリットしかありません。)

2.長篠の戦い前の状況

 よく武田と織田・徳川の戦いとして長篠の戦いが挙げられますが、当然ながらその前段階の戦いもあります。それを簡潔に説明致します。
 下記の長篠の戦い状況想定図(画像1)をご参照下さい。

長篠の戦い状況想定図(画像1)

メインではないので流れだけをご説明します。
 
 武田信玄の病死から武田勝頼に代が変わってから勝頼に不満を持つ長篠城主奥平氏が徳川方に寝返ります。
 
 そこから勝頼よる猛反撃が始まります。まず先に挙げた画像1の苗木城~足助城を攻め落とします。(織田と隣接するところです)
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 ※本当は明知城、明照城、大井城などいっぱい攻め落としているのですが、マッピングするとえらいことになるので省略しています。
ご慈悲をー!😭😭😭 
 そこの地域を押さえたと言うことをお伝えしたかっただけなんです(ToT)
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画像1を見てもわかります通り、苗木~足助城を攻め落とすことによって、織田側から高遠城に抜けるルートを完全に閉鎖していることがわかります。

 画像1の見方としては赤色の部分が山間部で進軍ができない場所、黄色もしくは緑が進軍が可能な場所になります。
※どこぞの佐々さんではないので基本的に山を登ることは致しません。それを軍ですることは特例を除いてありません。

 この時点で織田側から武田側に攻めることはほぼ不可能になりました。勝頼が落としたこれらの城は自然地形が猛威を奮う山城(画像1の赤の色を見てもわかると思いますが)で並大抵では落とせない城です。そこを勝頼は織田が対応(援軍などを)する前に一気に攻め落とします。
(この時点で勝頼が無能なんてこと絶対ないと思います。)

  長くなってしまったので再度同じ画像1をはります。(スクロールするのも面倒でしょうから…)

長篠の戦い状況想定図(画像2)

 次に勝頼は高天神城を狙い攻め落とします。この時点で浜松城(徳川の本拠地)を包囲する方にしようとしているのがわかりますよね。

 そして長篠城を包囲します。(先に説明した通り長篠の戦いは一般的に設楽原の戦いを指すので長篠城の話しは割愛させて頂きます。)

 よくなぜ長篠にしたの?と質問される方もございますが、その事については下記の画像2を元にご説明します。

長篠の戦い状況想定図(画像2)

 主な理由としましては

1.高天神の方(西側)から攻めると織田の援軍が毎度来て浜松の包囲ができなくなってしまうため
2.西側から浜松~岡崎と落としても毎度織田の援軍が来てしまうので長期戦になる、織田の方に逃げられたら目も当てられない
 
が理由として挙げられます。

 とにかく短期決戦に挑みたい勝頼としては、速めに織田・徳川を分断したかったのです。
 なので長篠を落とした後野田城を落とし、画像2に記載した自然地形を利用して、織田からの進軍を防ぎたかったのだと思います。

 画像2にある自然地形は、行軍は可能ですが山間部での行軍になるので、伏兵、奇襲、撹乱挟撃何でもごされ、スパルタのテルモピュライと同じく少数の兵力でも迎撃が可能になる武田方にとって非常に有利な地形になります。
 
 当初私もあまり戦国期のことはやらないのでそこまで地形を意識するかな?と思っていたのですが、苗木~足助を完全封鎖したように、確実に地形を意識して戦略をたてていることがわかります。

 また、長篠の戦いにしたもう一つとして、逆に言えば長篠しかないことが挙げられます。
 勝頼の戦略から申し上げた通り、狙いは浜松城の包囲です。それを成すためには地形図から見てもわかる通り武田側は山間部なので進軍ルートが決まっているため長篠しかないのです。
 
 なので本来は苗木~足助城を落としたように織田の援軍が来る前に、電撃戦を仕掛けて一気に落としたかったのですが、織田・徳川も長篠しかない!と気づいてしまっているため、織田の援軍が設樂原に速く到着し、布陣してしまい、勝頼は長篠城の牽制として一部の兵を残し、設楽原の戦いに向かうことになります。
 それが長篠城の戦い、設楽原の戦いに至る経緯になります。



休憩時間🌟

お疲れ様です😅
 現時点で2000字を突破してしまいましたので、ここで休憩時間とさせて頂きます❗
 次が肝心な設楽原の戦い解説になります🔥
 この先また長くなるので、切りの良いところで何度かに分けて見て頂いた方が良いと思います😢
実は本当はもっと書いてましたが確認のために友達に見てもらったらウッ!てなってしまったのでかなり削りました!😭😭😭😭😭
 普段は((ノ∀`) アヒャヒャヒャうるさいのですが、人間本当に受け入れ難いものがあると、ウッ!てなって無言になるようです🤨
 ちなみにこの娘は歴史が大嫌いで桶狭間の戦いって信長と家康が東西に別れて天下を取り合った戦いでしょ?と意味のわからないことを聞いてきます。しかし歴史は嫌いなくせに私の見解は凄く面白くて好きだから良く質問してくるという、私以上に変わっている存在です🌟
 この友達から進められ、Twitterを1週間前にはじめ、noteはつい先日初めました…今までSNSに触れて来なかったのですが、今回はこのnoteで解説しようとする新たな試みをしています。 
 Twitterで本来やろうとしていたのですが、文字数の制限が足りな過ぎるので、この娘に相談したところ、Twitterで文字数足りないとか意味わからん、Twitterでなにしてんのと言われ、家に押し掛けられ、Twitterアカウントがばれ、活動を狂ってると言われドン引きされました…
 まだ1週間なのに…
 その上でnoteを勧めてくれ、設定とやり方を教えてくれる良い友達でもあります🌌。私自身普段は歴史等に関することで口出しをしないし、知らないふりを致します(歴史が好きと言う方にも)。同年(20)代の友達にたいしても、私から歴史等の話をすることはなく、その私の姿を見て寂しそう、自分では理解してあげられないけど他の人なら理解してあげられるかもと思い勧めてくれたそうです。
 私を本当の意味で理解してくれる友達に感謝しつつ現在活動を行っている次第です🌟
 締めっぽくなりましたがここからが本題ですよ?

休憩終了 以下本編の続きがはじまります!!
頑張るぞ🔥🔥🔥🔥🔥🔥🔥🔥🔥🔥🔥🔥🔥🔥



3.設楽原の戦いについて
 
 
ようやく本題の設楽原の戦いの説明に入ります。
 まずこちらの画像を元にご説明致します。
画像4だと見辛いかもしれませんので画像3も参考にして頂けたら分かり易いかもしれません。

設楽原の戦い地形図(画像3)
設楽原の戦い地形図(画像4)

 では、設楽原の戦いについて簡単にご説明致します。画像4をご参照ください。

 まず、長篠城を攻め落とすために武田が包囲致しますが、もう少しで落城のところでしたが、鳥居強右衛門等の尽力もあり(と伝えられております)持ちこたえます。(画像4  1.長篠城包囲)

 長篠城が持ちこたえている間に織田信長・徳川家康連合軍が設楽原の方まで援軍に来ますが、長篠城救援には向かわず設楽原に布陣致します。(画像4  2.設楽原の戦い)

 この布陣を行う際に馬防柵や三重の土塁、地形を切り出し急斜面にするなど、所謂、野戦築城が行われたとされています。(先に申し上げた通り馬防柵については解らないのですが、守りの体制なのでそれに準ずる防御施設が存在したとして解説致します。)

 織田・徳川連合軍、設楽原に到着の報を受けた勝頼は一部の部隊を長篠城牽制にあて、設楽原で迎え撃つ形で布陣致します。
 
 この時の兵力差は諸説ありますが、織田30000、徳川8000の計38000、武田は15000程と言われております。(史料が乏しく具体的な数値を挙げるのが難しいため、とりあえずそれぐらいと思って頂けたらと思います。)

 勝頼が設楽原に到着、布陣する頃に、すでに布陣をしていた徳川方の酒井忠次が長篠城を監視する砦に移動、奇襲致します。

 そして武田勝頼の号令の元、左翼である山形昌景が織田・徳川連合軍に攻めかかることによって、設楽原の戦いの火蓋が切って落とされました。
 
 結果は皆さんご存知の通り、武田の兵が織田・徳川の防御施設、鉄砲隊を破る事が出来ず多くの将兵を失い大敗を決し撤退いたしました。

 このことから武田勝頼は勝てるはずのない戦いに家臣の忠言を無視し挑み、大敗を決した愚将として扱われることがあります。

 では本当に戦略的に考えると勝頼の行動は間違っているの?騎馬隊を突撃させたと言われているけど本当にあり得るの?長篠の戦い(設楽原の戦い)についての私も見解について解説したいと思います。

4.長篠の戦いについての解説
 
 
では、再び先ほど使用した画像3、4を元にし説明いたします。

設楽原の戦い地形図(画像3)
設楽原の戦い地形図(画像4)

 設楽原の布陣において織田・徳川連合軍、武田軍は地形図から見てもわかるように山を背に広がるように将兵を配置致します。織田・徳川方は馬防柵などの防御施設を配置している状況です。
 
 確かに勝頼側にとっては、かなり攻めるに不利な状況です。では、この時に撤退するという選択は、あったのでしょうか?

 もしここで長篠城に戻り攻め落とす、あるいは甲斐に引き返したとしたらどうなるでしょうか。

 長篠城だったら長篠城がより強固になり、物資が蓄えられ、兵力が多くなってしまい、警戒が強まり、今のように長篠城を陥落寸前までもって行くことすら困難になってしまいます。

 そうして攻めかねているうちに織田の畿内平定が終わり、武田に兵力を集中されると勝ち目がない。だから今電撃戦を仕掛けているのです。

 勝頼が電撃戦を仕掛けたのは、前回から説明した通り国力で劣り長期戦になれば勝ち目がないため、織田の兵力が畿内の平定、北部、西武に分散している今この瞬間しかないからです。

 そして、今回来た織田・徳川連合軍は、来るかも…来るかも…来た!設楽原に築城急げ!という状況です。まだ比較的少ない兵力で、まだ野戦築城ですんでいる状況です。(といっても野戦築城築城ですが…)
 
 この状況を打破出来れば、その後の長篠城、野田城、自然地形を押さえ織田・徳川の分断、浜松城包囲、徳川滅亡までスムーズに行くでしょう。後は逆に武田が自然地形を利用して、北部、西部と連携して長期的な織田攻めも可能になります。

 それに勝算もなかった訳ではないでしょう。よくこの際に本当に騎馬隊で突撃することあったの?と言う議論がありますが、私はこの際に騎馬隊(騎馬のみの編成を含む)を突撃させる可能性は高く勝算もあったと考えます。

 
騎馬隊を騎馬と見ずに、騎馬=戦車(もともと騎馬は戦車として扱うこともあります)として活用し織田・徳川の馬防柵、それに準ずる柵、逆木等の防御施設を破壊し突破、その後敵前衛の鉄砲隊、弓隊を撹乱した後に歩兵も含めた戦力で攻める。そういった目的があるように思えます。(現代の戦いでも同じですよね、塹壕や有刺鉄線、トーチカが有るところに戦車を突入させ突破後に歩兵が進軍する)


 敵の防御施設さえ騎馬(戦車)で突破できれば、鉄砲、弓兵は陣形的に同士討ちになってしまうので、太刀打ちできなくなってしまいます。それを狙っての騎馬隊(戦車)突撃は戦略としても正しいと思います。(逆にいえばそれしかないから織田・徳川も野戦築城をしたように思えます。)

 
特に山形隊を先に出撃させたのも、敵の正面からではなく、回り込んで横から突撃しようとしたように思えます。(設楽原の戦い地形図 画像4参照)もし突撃が成功していれば敵の前衛(鉄砲、弓兵)を撹乱、無力化できたでしょう。

 そして一気に攻める訳ではなく段階的に攻めているのも鉄砲の弾込めを狙ってのことでしょう。

 ですから、勝機がなく、むやみやたらと突っ込んだ訳ではなく、目的は敵の防御施設の破壊と敵前衛の鉄砲、弓兵の撹乱と考えればかなりしっかりとした戦略だと思います。

 ただ、想定以上に鉄砲が途切れることなく続き(鉄砲三段打ちの由来)、防御施設を突破出来なかったことが最大の原因なのでしょうが、騎馬が突破出来なかったのも、鉄砲の弾が途切れないのもある意味合戦が実際に行われてから結論付いたことだと思います。


結論

 私の長篠の戦いの結論としましては、騎馬隊(戦車)での突撃はあった可能性が高い、武田勝頼は愚将などではなく地形を意識し戦略をたて電撃戦で城を落とす稀代の戦略家、織田・徳川は当初こそ勝頼の電撃戦に対応できませんでしたが、長篠城には向かわず、設楽原で野戦築城するその対応力、適応力が生んだ逆転劇、それが長篠の戦い(設楽原の戦い)と言えるでしょう。

 


終わりに
 皆さん最後までご覧いただき、ありがとうございます😭😭😭😭😭
  本当は軽い気持ちで軽くやるつもりだったのですが、熱がこもってしまいまして…
 何分戦国期は初めてで2日ぐらいでばっと作成したので、色々粗があるかと思いますがご容赦ぐださい😢😢😢😢😢
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  次回どうするか未定ですが見ていただけるととてもうれしいです🌟


 

 

 
 
 
 


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