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楊範・鄭令蔓伝 壮途編 六「あれがこんなところに現れるとは!」

六「あれがこんなところに現れるとは!」

「どういうことだ?禹王の墓にだれか出入りしたのか?」

 ユウジンは少し驚きを顔に出した。既に何度か紹介しているように禹王は聖天子である。墓を暴くどころか立ち入ることだってとんでもない不謹慎な話だった。少なくともユウジンのような根っからの中原の人々にとってはそうである。

 もっともヤンはそこまで「墳墓は神聖なもの」という意識をもってはいなかった。いや、「神聖なもの」というのは重々承知なのだが、墓荒らしがいるということだって判っている。百年前の動乱の時代には「死人に宝など要らぬ」といってめぼしい王家の墓を破壊しまくった群雄もいたのである。聖天子だろうが神だろうが金目のものがあれば、いずれは暴かれるのはしかたがないことかもしれない。

「どうでしょうか…こういう神社みたいなところですから、王家の墓とかとはちょっと事情が違うような気もするんですが…」

 リンクスはヤンとユウジンにちょっと複雑な表情で首を傾げた。そもそも伝説上の聖王である。この社が本当の墳墓である可能性は低い。となるとそこまで金目のものがあの祠にあって、いまさらそれが盗難にあったとかいうのも妙な話である。

「ううむ…まあたしかにそうかもしれん。管理人が閉め忘れただけかもしれんな…」

 釈然としない表情でユウジンはうなずいた。時間のほうもそろそろ遅い。あまりここで長居していると、家路につくのは夜になってしまう。いや、いっそこのまま山頂まで登って会稽の夜景見物としゃれこむのも悪くない話かもしれない。

「いっそそうしますか?ヤン殿?」
「悪くないですね、それも…」

 テレマコスにそうもちかけられたヤンは苦笑してうなずいた。まさかヤンもテレマコスもその瞬間が大事件に遭遇するきっかけだとは想像もついていなかったのである。

*       *       *

 夕日で真っ赤に染まった山道をヤン達は雑談しながら登っていった。禹王の祠から山頂まではそれほど遠くはない。ちょうど日が沈んだころに山頂につくことになる。
 初対面の緊張がとけたユウジンはテレマコスらと段々気さくに話すようになった。この巨漢の青年はテレマコスの見たところかなりの剣の腕である。あまり口は上手ではないようだが、その語る内容は典雅で相当の学識があることがうかがわれる。
 ヤンは簡単にユウジンの略歴を紹介した。

「ユウジンは有名な鬼谷子きこくしの門下生なんですよ。」
「ヤン殿、恥ずかしいから勘弁してくれないか…」
「ほぉ、鬼谷先生ですか…」

 実はテレマコスは鬼谷子の噂を聞いたことはない。いや、それ以前に中原社会の民間の有名人についてなどまったく予習してきていないのである。中原語を覚えて、数名の権力者のことを調べる程度が関の山だった。まあ遠いサクロニアでは中原の存在は知られていても、そこの細かい人名とか歴史とかはほとんど情報が無いというのが現実である。「中原語を勉強する」というだけで随分苦労したのであるから、これはしかたがないことだろう。

「高名な先生とはうかがっておりますよ。それはそれは…」

 と言う具合でなんとか調子をあわせているテレマコスだが、内心は赤面ものだった。まだまだ世間にはいろいろな研究者がいるものである。

 そうこうしているうちに、ついに彼らは会稽山の山頂にたどりついたのである。丁度太陽が沈み、空が茜色から紫、夜の濃紺色の見事なグラデーションを描いているという一種最高の時刻だった。

「素晴らしいながめですね!」
「これは…なんと!」

 山頂から眺める光景はあまりこういう芸術めいた話に興味の無いテレマコスすら息を飲むほど素晴らしいものだった。既に空には明るい星と細い三日月が輝いている。

 西のほうには低い山並みがつづき、それが真紅の空にシルエットとなって幻想のような風景を産み出していた。東の方には会稽郡の夜景と、そしてその向こうに暗い海が広がっている。会稽の街には既に小さな明かりがあたかも星のようにきらきらと光り始めていた。
 ユウジンは懐から酒どっくりをとりだすと、それを陶器のぐい飲みに注いだ。

「どうだ、みんな、一献?」
「いいですなぁ」

 こんな素敵な光景の中で飲む酒は格別である。一行は暮れゆく黄昏を眺めながら何も言わず酒を飲みかわしていたのである。

 ところが…

*       *       *

「テレマコスさん!麓から人が来ています!」
「?ここの夜景を知っている人かな?」

 のんきそうに答えたテレマコスだったが、リンクスの声はそんなのどかなものではなかった。いや、テレマコス達が酒を組みかわしている間もこの少年兵士は周囲に気を配っていたに違いない。
 リンクスの緊張した声にヤンもユウジンも不思議そうな顔をした。こんな時刻にこの山頂に敵がやってくるということは考えにくいからである。しかしリンクスのまじめな表情を見ているうちにヤンは表情を変えた。

「リンクス君の言う通りだ!随分大勢みたいだぞ!」
「…そうだな。物々しい足音だ。」

 足音にも表情はあるものである。ヤンだけでなくユウジンもそれがあまり穏やかなものではないということが感じられた。先を急ぐ集団に特有の「どさどさ」とした慌ただしい足音なのである。ヤンはわずかに警戒感を表情に出した。

「そのへんに隠れたほうがいいな。下手に接触するのも危険かもしれない。」
「盗賊にしては変な話だがな」

 せっかくの風流を邪魔されたせいなのだろう。ユウジンは不快そうな表情でそういう。彼らは手早く宴席を片付け、近くの潅木の陰に隠れることにした。

 しばらく見ているとリンクスの言う通り、麓のほうから十数名の男達がやってきた。そろいもそろって黒い布を口に巻き、顔が判らないようにしている。これはさすがにテレマコスでも怪しいということが判る。

「盗賊か何かでしょうか?」
「何にせよろくな話ではないな…」

 連中はものかげに隠れている彼らには気がつかず、そのまま山頂の開けたところで車座になって座った。周囲の素晴らしい夜景を見るでもなく、なんと宙を仰いでいる。まさかこんな怪しい連中が天体観測でもあるまい。
 テレマコスは彼らの視線を追いかけて同じく西方の空を見上げてみた。いましがた日が沈んだばかりの西の空はまたほんのり赤みがのこり、それはそれでなかなか美しい。地平線の向こうにある太陽の光をうけて、遠くの雲がまだ斑に赤く輝いている。と…
 驚いたことにその雲の中の黒い斑点が動いたように見えたのである。

「むっ⁈」
「テレマコスさん?」

 テレマコスは驚いて懐から遠眼鏡を取り出した。伸縮式の片眼望遠鏡である。魔法工業技術が発達しているサクロニアではそれほどめずらしいものではない。前後に合成水晶でつくられたレンズがついていて、遠くの映像を拡大する機能がある。
 遠眼鏡をのぞいたテレマコスはその黒い斑点をじっと見つめた。背景が茜色に輝いているのでシルエットがはっきりと見えてくる。左右に広い翼のようなものがあって、尻尾があるような黒い物体だった。鳥というにはすこしへんな形である。次第にその物体は大きくなってくるのだから、おそらくこちらに近づいてきているのだろう。

「来たぞ!」

 テレマコスが遠眼鏡をのぞいているのを後目に、広場の野盗達は立ちあがって動き始めた。「来たぞ」ということは間違いなく彼らは何かの到来を待っているのである。具体的にはあの「黒い物体」に違いない。騒ぎ始めた盗賊を見てヤンもユウジンもこれから何が始まるのか息を殺して彼らを注視した。
 しかしテレマコスだけは既にそんな野盗達の動きなど気にも留めていなかった。顔面にはわずかに冷や汗が流れている。そう、既にテレマコスはこれからやってくるものの正体を見てしまったのである。

「まずい、リンクス!あれがこんなところに現れるとは!」
「テレマコスさん⁉」

 蒼白になっているテレマコスをみてリンクスもその物体の正体を悟った。既にその黒い物体は月くらいのサイズとなっている。形はどう見てもドラゴン…首が長く、胴体が太くて翼のある巨大なドラゴンだった。そんな怪獣を盗賊達が待っているということは…

「まさかあれ、帝国の⁈」

 息を飲んだリンクスにテレマコスはうなずいた。

「うむ、あれはムーンドラゴン兵団じゃ!こいつら、帝国のエージェントかなにかに間違いなかろう!」

絵 武器鍛冶帽子

(7へつづく)


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