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炎の魔神みぎてくん 健康診断 1.「嘘だろっ!勘弁してくれよっ!」

1.「嘘だろっ!勘弁してくれよっ!」

 大学の研究室で文献調べをするというのは、とても面倒なものである。特に外国語文献…コージたちの日常語である西方語で書かれていない論文などを相手にするはめになろうものなら、文献探しも一騒動な上に、翻訳するのもさあ大変である。まあ幸い最近はネットのおかげで、文献の検索はずっと楽になっているのだが、それでもやっぱりめんどくさいという事実は変わらない。

 今日のコージは朝からネットで見つけた精霊語の論文を、辞書を片手にうんざりした表情で読んでいた。精霊語というのはもちろん人間族の言葉ではなく、精霊界で主に使われている言葉である。ところがどういう理由かわからないが、学術用語としてはこの精霊語が一般的で、論文などでもこの言葉で書かれているものが多い。おそらく人間界の言葉だと、国によって有利不利のようなものが出来て不公平だとか、精霊の言語はとりあえず世界共通だとか、そういう理由によるものだろう。
 が、コージにとっては普段しゃべっている言葉と全然違う言語の論文を読まなければならないと言うだけで、超絶うんざりである。出来れば誰かに翻訳してもらいたいところなのだが、さすがに研究論文ともなるとそういうわけにはいかない。いや、もちろんコージだって精霊魔法を研究している魔道士の端くれなのだから、精霊族の知り合いだっているのだし、事実同居している相棒にいたっては立派な上位精霊…炎の魔神族である。理論上は「代わりに読んでくれ」といえないわけではない。が、非常に残念なことに、学術論文の内容が相棒の魔神に理解できるかどうかという点が絶望である。

 相棒の魔神ときたら、今日は研究室で熱いコーヒーを片手に、これまたちゃんと大学生らしく勉強中である。こいつの場合はコージと違って正規の大学院生ではなく、講座所属のアルバイト実験助手(兼留学生)という立場なので、勉強と言ってもコージと同じような研究ではない。人間界の一般教養…たとえば地理とか数学とか、コージが高校生が大学の一・二年生の頃にやったような内容の本である。もっとも数学などはかなり苦手らしく、しょっちゅうコージに助けを求めてくるところはご愛敬である。いや、それ以前にでっかい炎の魔神が、勉強机を前に一生懸命本を読んでいるという光景は、いつも爆笑しそうになるほどのミスマッチである。もう彼との生活は六年以上になるのだが、いつ見ても笑いがこみ上げてくる。

 「相棒の魔神」と簡単に言ったが、実際のところコージの相棒「みぎて」は、ここバビロン大学ではただ一人の本物の魔神族である。いや、少なくともコージの知る限りでは、こいつのように人間界で、人間と同居して大学生をやっている魔神族はただ一人であろう。第一普通に考えれば、魔神というのは魔界…精霊界の深部に住んでいるのが普通で、人間界にいるとすれば、どこかの神社の祭神とか、偉大な魔道士や英雄の同盟精霊とか、そういうものである。
 当然ながらコージは別に英雄の息子だとか、偉大な魔法使いの親戚だとか、決してそういう特別な人間ではない。ごく普通のどこにでもいる大学院生である。まあバビロン大学魔法工学部という学校自体が、魔道士の大学だという事実はあるので、コージだって少しは魔法を使うことも可能なのだが、決してこんな魔神を同盟精霊にできるような力があるはずはない。
 実はこの魔神「みぎてだいまじん」は、正真正銘の炎の大魔神であるにもかかわらず、本当にコージの相棒で、同居人なのである。身の丈は二m近いし、腕も足も丸太のように逞しい。肌の色は炎の魔神らしくきれいな赤銅色だし、髪の毛に至っては明るく輝く炎そのもの(といってもコージがさわれるくらいの温度であるから、おそらく魔神の霊気が炎のように見えるのだろうが)である。額には小さな角まであるのだから、誰がみても炎の魔神族であることは間違いない。
 ところがこの魔神が、ひょんなことからコージの下宿に転がり込んで来たのは、もう六年以上前の話である。その辺の細かい事情はとっくの昔にお話したこともあるので、ここでは再度繰り返さないが、ともかくそれ以来コージと魔神「みぎて」は一緒に大学生活を送っているのである。

 今ではコージと一緒に飯を食ったり、授業に出たり、カラオケに行ったり…人間族との同居ライフをおもいっきり楽しんでいる。もちろん町中に魔神が闊歩しているというのは、最初は多少騒ぎにもなったのだが…今では逆に町の人気者なのだから不思議なものである。
 まあいずれにせよ、この魔神「みぎて」はコージにとっては一番親しい相棒で、兄弟みたいな大切なやつなのである。そしておそらくこの魔神の方も、コージのことを一番大切に感じてくれている…それだけはいつもコージは確信しているのだった。

*     *     *

 さて、しばらくすると魔神はコーヒーを飲み干してしまったのか、立ち上がってコージのところにやってくる。

「コージ、なんか買ってくるか?俺さまちょっと腹減った」

 どうやらこの魔神は慣れない勉強で腹が減ってしまったらしい。実はみぎては外見も魔神らしく筋骨逞しいが、体格にふさわしく食欲の方も大変旺盛である。というか、だいたいいつもコージの三倍くらいは食べてけろりとしている。まあ体育会系の部活をやっている学生だって、コージに比べればよく食べるのだろうから、当然なのかもしれないが…
 まあもっとも時刻もちょうど午後三時過ぎである。おやつには悪くないころだろう。文献調べばかりで体を動かしているわけではないから、ここで何か食べるのも肥満の元という気もするのだが…脳だって栄養が必要である。

「うーん、アイス。みぞれみたいなやつ」
「えーっ!アイスじゃ俺さま、手袋いるじゃねぇか」

 別に嫌がらせでも何でもないのだが、アイスキャンディーを買ってこいというのは、炎の魔神にとっては結構難問である。さすがに春も半ばをすぎて、日差しが強くなってくると、コージのような人間族はアイスキャンディーが食べたくなってくるのだが、炎の魔神がそんなもの食べようものなら凍傷確実である。(もちろんアイスを食べるのはコージだけで、みぎての方はたぶんカップ焼きそばか何かを買うのは間違いない。)
 まあ最近の実験結果で、軍手を二重にすれば、みぎてでも氷を持つことが可能であることは判明している。今回もそうするしかないだろう。いや、それ以前にコージも一緒にゆけばよい話なのだが…

 みぎては仕方なく実験台にある軍手を手にすると、小銭入れを確認して研究室の出口へと向かう。校門前のコンビニへ行くわけである。が…そのときである。

「コージ、みぎてくん、いる?」

 聞き慣れたテナーの声がコージたちを呼んだ。講座仲間のディレルである。

「あ、今からコンビニ行くとこだったんだ。タイミングいいぜ」
「あはは、おやつ買うんでしょ?じゃあ僕も一緒に行きますよ」

 ディレルはにこにこ笑いながら言った。この肩まで掛かるブロンドヘアーとオリーブグリーンの優しそうな瞳が印象的なトリトン族の青年は、コージたちにとっては(お互いをのぞいて)一番仲のよい友人である。

「ディレルも行くか?じゃあ手袋いらねぇか」
「手袋?あ、判りましたよ。コージにアイスキャンディー頼まれましたね」
「図星」

 ディレルはあっさりとみぎての手にしている軍手の理由を当ててのける。さすがもう五年以上のつきあいである。コージやみぎての行動パターンはほぼ完全に読まれているのである。
 あんまりズバリと言い当てられたもので、コージはちょっと苦笑しながら言った。

「ディレル、でもその前に何か用事があったんじゃないのか?その封筒…」

 たしかにディレルの手には、なんだか分厚いグレーの封筒がいくつも握られている。A4ほどの大きさの封筒だが、どうやら中には書類だけではなく、何か消しゴムくらいの大きさのものが入っているらしく、変に膨れ上がってかなり持ちにくそうである。こんなものをいくつも持ったまま、コンビニに行くのはちょっとやめた方がいい気がする。
 するとディレルは笑って答えた。

「あ、そうそう、先にこれ渡しときますよ。えっと…これがコージ、それからこっちがみぎてくん…」

 どうやらディレルの持っている封筒は、コージたちに渡すものだったらしい。封筒は三つあるようなので、各人一つづつというやつだろう。
 コージはディレルから封筒を受け取ると、その表側に書かれている文字を読んだ。

「…定期健康診断?バビロン健康医療協会…こんなの去年やったっけ?」

 明らかにこれは定期健康診断のお知らせである。たしかに会社に就職するときには、健康診断を受けなければならないという話は知っているし、労働衛生法規かなにかの規定で、会社では毎年健康診断があるという話も聞いたことはある。が、学生の場合はそんな決まりは聞いたこともない。第一、コージたちの年齢は成人病にはまだ若すぎる。(油断をすると危ないのだそうだが…)
 ところがディレルは笑って答えた。

「何でも今年から院生以上は定期健康診断を受けないといけないって話になったらしいですよ。魔法工学部の場合ですけどね」
「え?なんでだよ」
「ほら、有機溶媒とか、いろいろ危ない物質とか扱うじゃないですか。『特殊検診』ってやつですよ」

 言われてみればそうである。コージたち魔法工学部では、様々な実験のために劇薬とか、有機溶媒とかそういうものを使っている。もちろん工場と違って量はたかがしれているのだが、だからといって安全なわけではない。健康診断をするというのも当然の話かもしれない。というか、今までそういう検診が無かったというのもどうかと思うのだが…
 封筒にはコージの名前と学籍番号、それから「定期健康診断のお知らせ」という文章が書かれている。中をのぞいてみるとどうやら問診表とか、諸注意とかが書いてある紙、それからプラスチック製の小さな瓶が入っている。

「なんか変な瓶が入ってるよな。これ何に使うんだ?」
「あ、尿検査の瓶ですよ。みぎてくん初めて?」
「俺さま健康診断って、こういうの初めてだぜ」
「入学したときに無かった?」
「俺さま、なんかお医者さんでちょっと見てもらっただけ」

 みぎては尿検査の瓶を取り出して、不思議そうに眺めている。実はこの魔神の場合、普通の大学生のような正規の入学ルート(願書を出して、入学試験を受けて)ではなく、講座アルバイト兼聴講生という形の別枠で入学しているので、こういった集団検診のようなものを受けたことがないのである。というかそれ以前に「魔神の健康診断」というのがそもそも可能なのかいう点に大いに疑問がある。

「…人間界の医者に、魔神の健康診断って出来るのか?」
「っていうかそもそも、魔神の病院って想像つかないんですけど…」

 あまりにも素朴で基本的な疑問が一気に沸き上がってくる。が、ともかく「決まり事」なのでやらなければならないことには変わらない。とりあえず指示通りに準備をして、指定された日にみんなで検診センターに行くしかなわけである。そこで検診がうまく行くかは、やってみなければ判らない。
 ますます気になってきたコージは、封筒の中身を確認することにした。中から出てきたものと言えば、「健康診断のご案内」(日時とか、地図とかが描いてある)、よくある問診票、それから尿検査のポリ瓶が二つである。別にどこにも特別なものはない。強いて言うなら尿検査が二つというのが、よくある健康診断とは違うような気もするのだが、有機溶媒の特殊検診ということだから、検査の項目も多いのかもしれない。

「みぎて、俺と違うもの入ってるか?」
「俺さまも一緒。紙が二枚とポリ便二つ」
「じゃあ一緒だな…魔神仕様ってわけじゃないな」

 コージは首を傾げながら、ご案内を読んでみることにする。受付日時と、それから場所…バビロン健康医療協会の場所である。コージの大学から行くと、バスで一五分くらいだろう。市庁舎大通りの一角である。それから検査項目と当日、前日の注意といった項目である。

「当日の服装は、ボタンのない服…レントゲン撮るんだな」
「あー、レントゲンってシャツのボタン映っちゃうんですね。でもみぎてくんのレントゲンってどんなのなんですか?やっぱり骨とか人間族と形違うのかなぁ…」
「…うーん、どうなんだろ…」

 精霊族にそもそも骨格があるのかという基本的な疑問がコージの脳内にはふつふつとわいてくる…が、やるというのだからまあしかたがない。
 と、そのときである。突然みぎてがとんでもない悲鳴を上げた。

「げげげっ!嘘だろっ!勘弁してくれよっ!」
「えっ?どうしたの?みぎてくん…」
「?」

 魔神の顔はなんというか…困惑を飛び越えて絶望に近い蒼白な表情である。炎の魔神族は元々肌が赤茶色なので、蒼白と言ってもなんだか血の気が失せたような、白っぽい感じになるだけなのだが、ともかく今までこの魔神が見せた中でも珍しい、滅多にない驚愕した表情だった。これはよほどショッキングな内容が書かれていたに違いない。

絵 武器鍛冶帽子

 さすがにコージは少しあわてて、みぎての手から案内状を受け取る。あんまりとんでもない内容ならば、身元引受人としての立場上、対応しないわけにはいかないだろう。
 が、どう見てもみぎて宛の案内状は、コージやディレルの案内状と全く同じものだった。単にコピーされた紙に、名前のところだけ手書きで書き込まれているだけである。これのどこが問題なのか、今一つコージには判らない。

「??これ、俺たちと一緒じゃん…」
「ですよねぇ…」

 首を傾げる二人に、魔神は蒼白な面もちのまま、案内状の一文を指さした。そこには…

「…『当日の朝はなにも食べないでください』…」
「…みぎてくんには拷問ですね…たしかに…」

 三度の飯が一番大好きと公言してはばからないこの炎の魔神である。朝飯抜きで健康診断に来いというのは、ショックを通り越して失神寸前の一文に違いない。
 コージはディレルと顔を見合わせてしばらく黙っていたが、すぐに我慢できなくなって笑い始めてしまったのは言うまでもない。

(2.「この年で高血圧はいやですよね」へつづく)

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