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言の葉に染まる心――百花繚乱編1章・感想【ブルーアーカイブ】

<フム。心ではなしてくれないので誤解が生じてるな……言葉はやはり真実を伝えない>
しかし別の事実を伝える。思ってもみないもう一つの世界さ。きみが誤解したような世界だ。くだらないことを大真面目でやっているわたしが、きみの心に入ったように。言葉は生き物だ。それはきみのエネルギーを食って、きみの心のなかに侵入し、そこに巣を作っていすわる。エネルギーを与えられればきみの心で増殖をはじめる

『言葉使い師』神林長平
(太字引用者)

 「言霊ことだま」。古代日本において、言葉には霊力が宿っており、声に発すると現実に影響を及ぼすとされていた。『暮らしのことば 語源辞典』(山口佳紀編)によればこと」(言葉)こと」(出来事)は同じ語源。その信仰の強さが窺える。

 言葉は道具ではない。生き物だ。私たちは言葉が作り上げた「虚構」の中に生きている――穿った読み方かもしれないが、百花繚乱編1章「いつかの芽吹きを待ち侘びて」はそんな話であるように思えた。以下、私なりの解釈や感想をまとめてみます。

(※イベントシナリオ『不忍ノ心』のネタバレも含みます。未読の方はご注意ください)


心に巣食う「虚構」

「身共が描いていた光景を……」
「誰も望んでいないのなら……」

 まず、本章における勘解由小路かでのこうじユカリの動向を振り返ってみると――ユカリは百花繚乱紛争調停員会を存続させるために奮闘していたが、そんな彼女を不破ふわレンゲと桐生きりゅうキキョウは冷たく突き放す。百花繚乱はもう終わった。もうここにいるべきではない。

 それはどちらもユカリを思っての建前だった。副委員長・御稜ごりょうナグサに誰よりも憧れを抱いてい彼女をこれ以上傷つけないため、あるいは無駄な青春を過ごさせないため。本当は二人とも今でも百花繚乱を大切に思っている。しかし、二人の葉によって、ユカリの中では①「もう誰も百花繚乱で過ごす日々を望んでいない」こと・・になった。

「あんたには帰る場所があるからって。百花繚乱ごっこは要らないでしょって。」
「そんなの思ったことなかったのに……ユカリのためって、自分を騙して……一方的に突き放したの。」

 そして、キキョウの葉によって、ユカリは「勘解由小路家の人間としての責務を放棄して百花繚乱ごっこで遊んでいる」こと・・になった。ユカリはこの件について、「身共が家から逃げ出したのは事実」「身共にそのつもりがなくてもお遊びと言われて当然」という旨の発言をしている(11話)。前者はまだしも、後者はキキョウの建前でしかなかったのだが、少なくともユカリは、これを客観的な事実として受け止めること・・になった。

(それだけのことであれば……なぜ)
「なぜ身共は……」
「ここにいるのでしょう……?」

 当初はお祭り運営委員会委員長・河和かわわシズコからのお願いを断っていたユカリだったが、キキョウの発言がきっかけで心境が変化。巫女として舞うことを決意する。しかし、これは勘解由小路家にとっては、20年前の燈籠祭において巫女が突如失踪した汚点を払拭するための手段に過ぎなかったと、彼女は悟る。

 浮かない顔をしているものの、この時点では、ユカリはまだ自分の感情を葉にしていなかった。心の内で何を思っているかはわからない。しかし、その時、箭吹やぶきシュロの声がこだまする。

そのお気持ち、とてもと~ても理解できますよぉ?
あれだけ必要だと言っていたのに、結局彼らが必要としていたのは……20年前の汚名を返上してくれる人。悔しさを晴らしてくれる人だったのです!
誰も……だぁれも!手前さんの気持ちなんて、手前さんが何に苦しんでいるかなんて、興味がないのですよぉ。

20話

 一応、ここまでなら、ユカリとほとんど同じ考え方だろう。しかし、

ああ、ああ!なんてお可哀想な手前さん……
苦しいのでしょ?悔しいのでしょ?
手前さんのその感情――

20話
山括弧(<>)が付いてないので、
これはシュロの台詞だろうか

 「苦しい」「悔しい」「そのままそっくり返してやりたい」……そりゃまあ、自分が誰かに利用される道具でしかないと悟ったら、多少はそう思ってしまうのが人間ってもんで。事実、ユカリは終盤、「何も傷ついていないといえば、嘘になりますわ!」と発言している。しかし、怪書「稲生物怪録いのうもののけろく」が扱うのは、出所不明の「うわさ」だ。その情報信頼性ある? ソースは? ……えっまとめサイト?

「ええ。「うわさ」は、どこで聞いたのか覚えていなくとも、頭の片隅に残っているもの。」

 「火のないところに煙は立たない」ということわざの通りではあるのだろう。アヤメがナグサに「最初からあんたを友達だと思ったことなんてない」と言ったのも恐らく事実だ(これが額面通りの意味とは限らない)。しかし、シュロはそれらを露悪的になるように誘導しているし、よくよく聞いてみると、あることないこと結構好き放題言って話を膨らませている。さながら、噂に尾ひれがついて、真偽不明なままひとり歩きを始めて、人々の認識を塗り変えていくように。インターネットあるあるって感じですね。ぱっと例が出てこないのが悔しい。

 これを今のユカリに当てはめると……「ねえ聞きましたか奥さん、燈籠祭の巫女さん、実はかくかくしかじかなんですって」ヒソヒソ 「まあそんな事情があったのね。でもめげずに頑張ってるなんてえらいわね。きっと誇らしい気持ちでしょうね😊」ヒソヒソ 「いえいえ、あたしが同じ立場だったら何もかもめちゃくちゃにしてやりたいと思うわ。あの子もきっとそうよ😡」ヒソヒソ……もしユカリがそういった葉を聞いたらどう思うだろうか。確かに自分はそんな感情を抱いている、と感じるかもしれない。シュロの場合は「噂」をどんどん負の方向に膨らませたところで、

この場面ではノイズSEが入ってないので、恐らくすでに干渉済み。
ユカリに接触して語りかけ→<全部燃えてしまえばいい>→「無貌の形代」生成→「と……思ったのでしょ?」って流れかな。

 ここで怪書をひとつまみ……っとw シュロは葉に巧みにユカリを誘導し、②「全部燃えてしまえばいい」と思っていること・・にした。物憂げな時に悲しい曲の歌詞を聞けば、自分の心情を的確に言い表しているように感じられる。「お前あいつのこと好きなんじゃねーの❓😁」と言われたらそんな気がしてくる。確かなことはわからないが、誰かの言葉が知らぬ間に自分の心になることがある。炎に包まれる街を見たユカリは「これは自分が願ってしまったせいだ」と、自発的な感情であると感じる(22話)。

<ウソ>
<そんな風に考えたことなんてないくせに>

 この<赤文字>の現象がナグサでも起きている。いったん情報整理パートに入りますと、実はこの山括弧は<⬜白文字><🟥赤文字>の二種類があります。ちくしょうnoteだと文字色変更できねえっ。

 11話でナグサが「私には委員長の資格がない。残ったみんなに失望されたくない。私が"帰れない理由はそれだけ"」という旨の発言をした時は、<⬜ウソ>が表示されました。これはシュロが直接干渉してない、怪書で「見てるぞ👁️」してるだけの状態だと私は考えています(すみません定義は曖昧です)。なにがウソなのかと言えば、

「アヤメじゃないから。」
「私はアヤメの代わりになれないから。」
「百花繚乱の委員長としての資格があるのは、アヤメだけだから。」

16話

 この考え方。まあナグサ先輩が優秀でも資格がないんじゃしょうがないかあ……アヤメ先輩すごかったもんなあ……周囲にはそういうことにしておきたい、でも本当は、

「このままじゃ、本当の私を知られてしまう。
「私は百花繚乱の副委員長を演じてきただけ。」
「才能も実力もないのに、ただアヤメの傍にいただけの……」

19話

 「私は御稜ナグサを演じている。才能も実力もない。百花繚乱に残っていたらそれがバレてしまう」と思っている。ナグサがこの本音を隠していたのは恐らく本当なのでしょう。確かに、その心情も込みで帰れないのなら「帰れない理由はそれだけ」は<⬜ウソ>だ。これは間違いない。

「幼馴染に釣り合う姿を演じていれば十分。
幼馴染以外はどうだっていいと思ってたおバカさんが本当の姿なんですよぉ。」

 しかし、シュロの場合は「私は百花繚乱の委員長になれない」「私はアヤメじゃないから」「アヤメではない私にそんな資格はない」に対して<🟥そんな風に考えたことなんてないくせに>だ。どういうことか。少し行間を読む形になるが、シュロの発言からわかるのは、「本当はみんなを守りたいけどアヤメの代わりにはなれない」と考えたことがない、幼馴染の隣で自分を取り繕っていれば十分であり、ただただ我が身かわいさで逃げ出しただけ、と断定していることだ。

 確かにナグサは「御稜ナグサ」を演じていた。アヤメを失った後は逃げた。後のナグサの話を聞く限り、演じることに必死だったのは事実だろう。でもだからといって「幼馴染以外はどうだっていいと思ってた」かはわからない。それとこれとは話が別だ。本当はずっと仲間を大切に思っていたのかもしれない。親しい相手だからこそ余計に打ち明けられない悩みだってある。失望されたくない。私には重すぎる。怖かった。そんな葛藤の中で戦っていたのかもしれない。

 実際のところ確かなことはわからない。ただ――

レンゲもキキョウも「見捨てられた」という感覚はあったらしい
……こんな心理状態でシュロの「噂」を聞かされたら?

 どうだろう? これが噂になったら……「ウチらがプレッシャーかけすぎてたかも。ごめんナグサ先輩😭」ヒソヒソ……「いやちげーだろ。ウチらのことどーだっていいと思ってたんだよ😡」ヒソヒソ……葉巧みに後者があたかも紛れもない実であるかのように吹き込んだのがシュロ。正直、私も当事者だったらそう思ってしまったかもしれない。簡単に結びけることができてしまう。

赤:シュロの台詞
<赤>:怪書を介したシュロの干渉
<白>:シュロなしの怪書
白:ナグサの心情
整理するとこんな感じでしょうか。

 シュロの噂を聞いたレンゲとキキョウはドン引き。最悪の空気に。ここまでのシュロの行動が現実改変や洗脳ではないことは確かだ。起点がシュロの葉であるとはいえ、各々が自分の意志でそうであること・・になった。

「全部……私のせいで……私が偽りの仮面を被ったせいで……」

 トドメと言わんばかりに(むしろこれが本来の目的か)、シュロは③出来事の因果関係すら規定する。ユカリが「責任を放棄して百花繚乱を演じようとした」から街は炎に包まれること・・になった。そんなユカリが百花繚乱に憧れてしまったのは、ナグサが「ナグサを演じていた」せいであり、ナグサが全ての元凶であること・・になった。そして、「これは各々が最善の行動をした結果、最悪の結末を迎えた物語」であること・・になった。シュロが葉を投げかけたことで、各々の中でそれらが実になった。そうしてシュロは自らの喜悦のための「物語」を作り上げる。虚実入り混じった「噂」は「百物語かいだん」へと昇華する。……なるほど、怪談を持ち寄って百話語り終えると本物の妖怪が現れるとされる、元ネタの「百物語ひゃくものがたり」を踏襲したガジェットか。

 ①誰かの心情も、②自分の心情も、そして③出来事の因果関係さえも――私たちは実を知ったつもりでいる。けれど、それは葉が作り上げた「虚構」に過ぎない。誰かと心が通じ合ったつもりでいる。でもすれ違っているかもしれない。自分でものを考えたり、SNSで自分の思いを書き綴ったりしたつもりでいる。でもそれだって昔読んだ作品や、どこで聞いたかわからない噂話でそう思わされているのかもしれない。幻覚ハルシネーションを見ているに過ぎないのかもしれない。自分の意志で湧いた感情だと思っていたものは、本当は誰かの言葉でそうなったのかもしれない。

「まだ「嘘」ついてるんだ?」

 巧いなと思うの(そんなこと思うな)は、シュロは嘘はひとつも言ってないということ。むしろシュロは「嘘はよくない」と咎めてくる。あくまでも真実や本音を暴露するという形で<🟥全部燃えてしまえばいいのに><🟥そんな風に考えたことないくせに>してくる。「あなたはこう思ってるんですよぉ」「一連の事件はこう繋がってるんですよぉ」と言われたら、本当かどうかわからなくても、そんな気がしてくるのが人間というものだし、隣で聞いてる方もストーリーがしっかりしてれば納得できる。私たちが生きているのは元からそういう世界だ。何というかこう、こっちがやらせたんじゃなくて、相手が自発的にやったと思えるよう誘導する、っていう普遍的な話術や心理誘導テクニックに近い気がしますね。本屋で平積みされてる心理学本に書かれてそう。

 何とはなしに構造主義や『サピエンス全史』の「虚構」を思い起こさせる話だ……っていう、これもまさに私が読んだ本の言葉に影響されているわけで。あと百鬼夜行という舞台も相まって『陰陽師』の安倍晴明を思い出しますね。「しゅ」で事物の本質を「縛る」やつだ。やりおるなシュロ。なんて言ってる場合じゃないか――

「そこまでだよ、シュロ!」

このクソガキァ❗❗💢
わ か ら せ て や る ❗


コスプレ

 ……ご、ごめんシュロ、勢いで言い過ぎちゃった。先生は「わからせ」はあまり好きじゃないから安心してね……さておき、シュロに「噂」を吹き込まれたナグサ。彼女は心情を吐露する。

「私そのものが……「コスプレ」だったんだ。」

 アヤメにふさわしい存在になりたくて、御稜ナグサという優等生を演じていた――「コスプレ」だった。でも目の前にいたのに、怖くてアヤメを助けることができなかった。そして、それを百花繚乱に打ち明けることができずにいた。自分の本当の姿を知られるのが怖かったから。そんな自分に「証」(百蓮)を扱う資格はない。

「……前にも言ったけど、私は百花繚乱じゃない。」
「……そう、平凡だけど、どこか神秘的で儚げな……ただの百鬼夜行の一生徒。」

 コスプレ発言は最終編3章1話と、本章1話の頃からありましたね。11話でもこんな発言が。当該エピソードのタイトルは『ただの一生徒』。百花繚乱の委員長代理としての資格はないから「ただの一生徒」ということ・・にしているそんな気持ちが表れただろうか。

 ……ひょっとすると、シュロがナグサを煽ったのは喜悦のためだけじゃなくて、唯一の対抗手段である「百蓮」を扱われることがないよう保険をかけていたってのもあるのかしら。先生さえいなければ成功してたんだろうな。

「あ~あ……ウソにウソを重ねた、ウソつきだらけ!」

 ナグサは優等生を演じていた。ユカリも勘解由小路家であることを隠し、素行の良い生徒を演じて先生を百花繚乱継承戦に協力させていた。どいつもこいつも嘘つきだらけ。なのに、なぜそんなにあがこうとするのか。シュロは先生にそう迫る。

 一連の話を聞いて私がふと思うのは、百鬼夜行は「コスプレ」的な生徒が多いということだろうか。たとえば千鳥ちどりミチルは忍者ニンジャオタクが高じて忍術研究部の部長になる。修行部の勇美いさみカエデは田舎のいたずらっ子だったけど、春日かすがツバキと水羽みずはミモリに出会い、「レディー」に憧れて修行部に入部。そんな彼女が敬愛しているミモリは、大和撫子やまとなでしこを目指して修行中といった具合。

 理想を目指して道半ば、という生徒はもちろん他校にも多いけれど――伝統と観光業で栄える百鬼夜行という環境がそうさせるのだろうか、この学校の生徒たちは伝統的にカリスマ的存在や理想像とされている、くっきりとしたキャラクター像にスポットライトを当てている印象がある。それを目指して演じようとするのはまさに「コスプレ」と言えるだろう。しかし、

「二人に胸を張れる、そんな先輩になりたかった……。」
『不忍ノ心』13話

 理想と現実のギャップはつきものだ。イベントシナリオ『不忍ノ心』では、忍術研究部の正式認可のために事件解決に向けて奮闘していたミチルだったが、途中で心が折れてしまう場面がある。忍者への憧れは本物だ。部員たちに胸を張れる先輩でいたい。でもそんな自分のワガママのせいで、先生を傷つけてしまった。部員たちも助けを求めている子も、傷ついてしまうかもしれない。

 この時のミチルの心情は、ナグサのそれとかなり近しい。シュロに言わせれば――これもまた、忍者という「コスプレ」は偽りの自分であり、弱さを隠している証拠に他ならない。そこからさらに話を膨らませて、手前てめぇは他人のことなんてどうでもいいと思ってる。手前勝手な理想のために優しい先輩を演じて他人を利用しているだけだ。何もかも嘘と欺瞞だらけ。気持ち悪いですねぇ。お前のせいでまた誰かが傷ついていく……と、「噂」を差し込む余地があるのだろう。

 ……このロジックをトレースできるの嫌すぎるな。シュロ、かなりのやり手ですね。話術の巧みさは確かだ。クソガキ呼ばわりしちゃったお詫びに菓子盆置いてあげたい。駄菓子をはむはむしてそう。いっぱいお食べ😊 ……これも偽善って言われるか。


先生のアンサー 「ユカリの気持ちはユカリのもの」「偽りだとしても」「やり直す」

 そんなシュロに先生はどう返すのか。まず――

「ユカリの気持ちは、ユカリのものだからね。」

 キキョウが建前でユカリを追い払った時、先生は①「ユカリの気持ちは、ユカリのものだからね」と言った。「これ以上百花繚乱に関わればあの子は傷つく」と断じたキキョウを咎めた

 一応は勘解由小路家の嫡女としてその才覚が家内で認められており、百花繚乱になる前から不良に立ち向かうタフさがあったユカリのことだ。一時的に落ち込むことはあっても、決してめげずに明るい気持ちで頑張り続けるかもしれない。実際どうなるかはやってみなきゃわからない。少なくとも、やる前からこちらが勝手に決めつけていい話ではない。

 キキョウの言動は、シュロがユカリの気持ちを<🟥全部燃えてしまえばいい>と、ナグサの気持ちを<🟥そんなこと考えたことないくせに>と断じたことによく似ている。うまく言語化できないが、ちょうどマイナスとプラスになっているという印象を受ける。シュロは露悪的だが、キキョウのそれは我が子をおもんばかるあまり、その子の気持ちを勝手知ったるように扱ってしまう不器用な親の心境と言えるだろうか(……ごめんキキョウ、今ちょっとキモい妄想しちゃった)

 キキョウに対する先生の言葉は、シュロにもそっくりそのまま同じことが言えるだろう。しかし、「ユカリとナグサはそんなこと微塵も思っちゃいねえよ❗ おめえのせいでそうなっちまったんだろうが❗ 勝手に決め付けんじゃねえっ❗😡」と言えるかといえば――

「何も傷ついていないといえば、嘘になりますわ!」
「胸が痛くて張り裂けそうなのも、事実ですの!」

 決してそんなことはないだろう。誰だってあんな状況になれば傷つく。そこから「あーあ、みんな私と同じくらい不幸になっちまわねえかなあ~」という気持ちが芽生えてもおかしくない。それが人間というもの。

 朱に交われば赤くなる。百花繚乱という環境で過ごしていれば、周囲の人間に感化されて、同じように振る舞い、同じようにものを考え、憧れの人物に近づくだろう。しかし、傷心する中で甘い囁きを聞かされたらどうか。――私たちの感情は、誰かと過ごす日常の中で、誰かと交わす言葉の中で、鋳型に押し込まれているだけなのかもしれない。心の奥底はいつも混沌カオスだ。

 ここで先生の言葉を見てみると、

「ですが、それは――身共だけじゃない。
皆様、同じなのだと。」

 アヤメに恥ずかしくない人であるために見栄を張っていた、本当の自分を知られるのが怖かった。そうして偽りの自分を演じていた。そんな心情を吐露するナグサに対して「それで十分なんじゃないかな」と語る。先生の言葉を聞いたユカリは、自分が傷ついたこともまた「普通」であることに気づいたと語る。ナグサ先輩も、レンゲ先輩も、キキョウ先輩も。恐怖をごまかすため、人のため、自分を騙すために、嘘をついていた。それはみんな同じだったのだと。

 恐怖も、怨恨も、欺瞞も、誰にでも心の奥底では後ろめたい感情が芽生えるとして。それなら私たちにできるのは、偽善だろうと、時には誰かを傷つけようと、せいぜい自分を繕ったりしながら、大切な人にふさわしい自分を目指す、憧れには遠く及ばずとも近づこうとする。ちゃんと話し合ってみる。その程度のことであり、それで十分なのかもしれない。……まあねえ。急に俗っぽい話になりますけど、結局はハッタリかましながら生きていくしかなくて、でもそうじゃない自分に向き合うことも大事ってのは思いますね。仕事もプライベートもそう。

"偽りの自分を演じて……"
"偽りの自分が受け入れられることの、何が悪いのかな。"
"偽りだとしても、それを演じ続けていれば、"
"いつしかそれは本当になる。"
"誰だって……"
"自分を繕うものだよ。"
"誰もがやる、普通のこと。"

24話

 そうして先生は、自分を偽ったり、繕ったりするのは「普通のこと」だと語る。②「偽りだとしても、それを演じ続けていれば、いつしかそれは本当になる」とも語っている。

かつて「コスプレ」でナグサに似た悩みに陥ったミチルが、部長として頼られている場面があります(22話)。これがアンサーの具体例になってますね。「演じ続けていれば、いつしかそれは本物になる」のだと。

 偽りが本物になる理屈としては「本人にとっては嘘だったとしても、他人の視点では違うかもしれないよ」とのこと。「ナグサ」が演技だったとしても、ユカリが憧れる人物になれた、三人のことをよく知っている人物になれた。

「「王女」も、「ケイ」も、「箱舟」も、「名もなき神」も……アリスはアリスと関係している何もかもが分かりません。」
「でも……皆がいたから……そして、先生がいたから……」
「そういった事が分からなくても、「アリス」になれたんだと、思います」
最終編3章9話

 何が本物たらしめるか、というのはこれまでと通底するテーマですね。たとえ魔王であろうと、誰かを助けられるような存在なのかわからずとも。誰かを助けたいと思う気持ちこそが勇者の資格であるとアリスは信じた。そして、みんながいてくれたから自分は「アリス」になれた。彼女はそう語っていた。何者であろうとも勇者であろうとする――そういう意味では、アリスもまた勇者の「コスプレ」であると言える。しかし、やはり私たちの中ではアリスはもう本物の勇者だ。たとえそれが、私たちが勝手にそう呼んでいるだけの「虚構」であったとしても。あのリオですら最終的にはノリノリで口上を述べた。まさに「偽りだとしても、それを演じ続けていれば、いつしかそれは本当になる」。

 このアリスの具体例は、そのままナグサにも当てはまって――

「ユカリを助けられるのは、あなたしかいないの。」
「私でもレンゲでもない、そしてアヤメ委員長でもない……あなたしかいない。」

 24話の回想シーンでは、ナグサ自身は半人前だと謙遜しているが、他三人にとってはこの中で彼女が一番強いこと・・になっている。そしてそれは現在も。クロカゲに対抗できる「百蓮」を手にしてはいるものの、それを扱える「委員長としての資格を備えている者」はアヤメのことであって私じゃない、そう語るナグサだったが――少なくともキキョウとレンゲにとっては、現状ユカリを救えるのは、他の誰でもない、あなたしかいないこと・・になっている。「御稜ナグサ」が偽りの姿であったとしても。演技だったとしても。二人にとっては、委員長としての資格にふさわしい者。そう思わせるほどに彼女の実力は確かだったのだろう。

「ハッ……! そんな屁理屈がまかり通るとでもぉ?」
「嘘はどこまでいっても嘘。だからこそ多くの人間が傷つき、悲劇を招くのです。」

 しかし、「屁理屈」「嘘はどこまでいっても嘘」とは、まあそれはそう。俺バカだから難しいことわかんねえけどよぉ、それが嘘であろうと誰かにとって本当ならOKっていう理屈は何かこう、すでに倫理や思考実験で取り上げられていそうな問題な気がするぜ……

 シュロとしても、虚実入り混じった「噂」が「嘘」で上書きされてしまったら全てが台無し。少なくとも今回の件では、ナグサは偽りの自分を演じていたことで逃げてしまったり、キキョウとレンゲは建前でユカリを傷つけてしまったりと、確かに悲劇を招いた。一応、シュロの「物語」ではそういうこと・・なっている。これについて先生は、それも含めて普通のことで――

「ケンカをしたのなら、仲直りできりょう努力すればいい。」
「私も、そのために全力でみんなの力になるよ。」

 ③「またやり直せばいい」と。そのために手伝うよと。せやな、特にナグサの場合は、自分のキャパシティを大幅に越える案件を抱ながらも、変に自分を取り繕っちゃて、納期ギリギリになってから引き継ぎ資料なしでぶん投げちゃう最悪のパターンになっちゃったかもしれない。……でもな、そういう気持ちは誰にだってある。少しずつやり直していけばええから。

 ……こうして聞いてみると、まあ現実に折り合い付けて何とかやっていくもんだよっていう先生の方に、よわっちい私としては共感したくはなるんですが。しかし、それが屁理屈でしかないとするシュロの言い分も分かる。自分は意識せずとも自分に嘘を言い聞かせている、彼女が巧みに語るような「噂」に支配されながら生きている、そんな感覚が確かにある。

 私たちは誰かと交わす会話や生活に、心を染められながら生きている。そして、そこには確固たる自分がいて、頭の中で思い描いている現実には疑いがないと思っている。しかし、そこには悪意がなくとも嘘や建前があって、思いがすれ違っていることもあれば、本当は心の内ではさまざまな感情がせめぎ合っている自分がいて、それがふとしたきっかけで傾くこともある。私はどこにいるのだろう――苦しさと悔しさが募り続けてしまう自分だけが本当なのか、ただただ怖くて逃げたくて見栄を張りたいだけが自分なのか。これは私が自分を偽り、何者かを演じようとしたから迎えた、最悪の結末なのだろうか。さながら「噂」がひとり歩きしているような曖昧な世界の中を、私たちはさまよい歩いている。

 そんな世界で、それでも私たちの紡ぐものが「青春の物語」であり続けるなら――①「責められるのが怖い」「苦しい悔しい」そうして肥大化し続ける薄汚れた感情に向き合いながらも、「二度と大切な人を失いたくない」「憧れの人と同じでいたい」が虚飾ではないと信じることを。②そこから作り上げたものが「偽りの自分」であろうとも、必死に取り繕うことしかできなくとも、誰かと共に演じてみることを。③もしその嘘で誰かを傷つけてしまったのなら、またやり直すことを――それがどれほど矮小で、無様で、どこまでいっても屁理屈でしかなくて、嘲笑われようとも。それが私たちにできる全てなのかもしれない。

 だから――


その心と、言葉を

「何をそんな「委員長」にでもなったみたいに……
ねえ、ナグサちゃんさぁ……!!」

私はアヤメじゃない。
私は――アヤメにはなれない。
私が手を伸ばしたものは、みんな、壊れていく。
だから怖かった。
未熟な自分のせいだって。
全部自分のせいだと
責められるのが――
本当の姿を知られるのが怖かった。
でも――
それ以上に……アヤメの時のように……

24話


「ユカリを……」
「キキョウを……レンゲを、失うことの方が、怖いの!」


「どれだけ滑稽に映ろうとも、演じ続けてみせる。」
「……百花繚乱の委員長代理――御稜ナグサという役を……ずっと!」


「これ以上身共の感情を、あなたの思い通りなんてさせない。
そう心に決めましたの。」
(かわいい)
「……今からでも、向き合いたいと思ったから。」
「たとえそれが「演技」だったとしても……」
百花繚乱の私として、みんなと向き合いたいと思ったから。」

 かくして、百花繚乱委員長代理として大切な仲間を守り続ける少女、御稜ナグサがいること・・になった。


エピローグ

「ごめんなざいぃいいい!!!」

 …………いやシュロかわいいな。そういえばずっと「コクリコ様」のことを口にしてましたね。献身的で子犬みたいでいい子じゃないですか。素直に応援してあげたいですね。歳の差恋愛もので年下の女の子側にめちゃくちゃ感情移入するタイプなので……

 趣味は「自作小説を書くこと」「ネットサーフィン」だそうです。意外と俗っぽい趣味だねえ!? ……あれかなあ、主人公の名前を「矢吹シロ」にした異世界転生恋愛小説とか書いてたり、昔書いた黒歴史小説を思い出して枕に顔埋めて足パタパタしてたりするのかな。そう思うとますますかわいげあるな。

「この勘解由小路家ユカリ、ナグサ先輩に継承戦を申し込みます!!」

 事件解決直後の百花繚乱。お互いの本当の気持ちを知ったものの、どこかぎくしゃくとした雰囲気。そこにユカリ。当初の目的である百花繚乱継承戦でナグサに挑むのであった。頑張れユカリ! きっといい勝負――

「もしかして……空気読めてなかった……?」

 秒殺。しかし、ユカリはこれを当然の結果として受け入れて、「この戦いを通して、今一度ナグサ先輩が身共の憧れであると、確かめたかっただけですゆえ!!」と語るのであった。……すごいなユカリ。スマブラで一瞬で即死コン入れられたら先生は死ぬほど凹んじゃうよ。

 それが演技であっても、無様な泣き顔を見せながらであっても――それでも御稜ナグサは、誰かにとって変わらずに憧れの存在であり続けている。嘘と建前で、思いやりながらも時には傷つけ合っていたけれど。お互いに裏側にあった気持ちを知った彼女たちは、これから気持ちを新たに歩き続けていくだろう。……積もる話もあると思うからさ、一緒にお鍋でも囲んで語り合いな。おすすめは味噌。

そんな百花繚乱の後に、シズコのこの台詞。

 騒動がひと段落した後。燈籠祭再開に向けて準備が進む。お祭り運営委員会が引き続き尽力。なんでも百鬼夜行燈籠祭は百鬼夜行"連合"学院としての治世が始まった頃に生まれたそうで、その目的は「送故迎新」。未だに「色彩」の被害の復旧作業が続く中、人々の心を傷を洗い流し、未来へ歩むためにこのお祭りを復活させることになったのだという。

 そうして再開した燈籠祭。街はかつての賑わいを取り戻す。壊れたものは直せばいい。あんな騒動があった後だが、百鬼夜行といえばお祭りだ、これからもこのにぎやかな日々が続くことを願いたい。

 ちなみにユカリは百花繚乱に専念するために実家に直談判し、巫女をやめたそうで――

「少しずつ、少しずつ……共に作っていこうさね。」
「世界を燃やす、我らの「物語」を。」

 それは奇しくも、20年前、巫女が直前に失踪したという燈籠祭の再現となったようだ。「完成されたお祭りは、そのものに意味が与えられ、別の物語の種となる」との談。……クズノハに因縁のある人物だろうか。台詞の端からはシュロを思いやってることが窺えるけど実際どうなんだろ。そればっかり気になっちゃうわ。

「鬼も角折る」(鬼のような悪人であっても"心を入れ替える"ことがあるたとえ)ということわざがあるそうで……何かあったのかな。ヘイローも独特な形だ。

 天地あまちニヤから呼び出し。百花繚乱解散は保留になったそう。そして、今回の件は自分の不手際が原因だったと語る。

 花鳥風月部の脅迫文を軽んじたニヤ、お祭りの復活を提案したシズコ、そして生徒たちに協力した先生……原因は見出そうと思えばいくらでも見出すことができてしまう。いわんや、それがシュロにとっては「悲劇」であること・・する余地があった。幽霊の正体見たり枯れ尾花。怪異を生み出すのはいつも人の心、か。

 そんなニヤに対して先生。ニヤはよく頑張ったよ、皆のことを心配してくれていたんだよねと励まし――

"代わりにニヤをなでなでするね!"

 報酬のチセにゃんのなでなでの代わりに、ニヤの頭を撫でるのであった。ここは『不忍ノ心』と対比的ですね。あの時は「全部私の手のひらの上だったんですよ」と語ったニヤを叱った。でも今回は「全部私のせいでした」で頭なでなで。アフターケアがばっちりで安心しました。いつもお疲れ様ニヤ。メモロビ実装されたらいっぱい撫でさせてもらうからねぇ……(手をわきわきさせる動き)


完走した感想 

書き直す前の没記事

 ナグサ………………好きだ……………………🐶

 好きだと言うと余計に好きになっちゃうな。まあそんなことはさておき。

 ふと思い出したのは、自分が最終編4章感想記事で書いたこと。シロコテラーアレは記号だ隠喩だと語る無名の司祭に対して、先生は「私の「世界」で苦しんでいる、ただの「子ども」だよ」と言った。それはまさにもうひとつの現実を「物語る」行為だ、と。「理性で割り切ることができないこの世界の中で、なお私達を生き続けさせてくれるのは、やはり「物語」の力なのだ」と、それはそれはもうボロクソに泣きながら読み、そして書いていたのですが……今回はシュロにそっくりそのままそれをぶつけられたという感覚がありますね。お前がやってるのはこういうことなんだぞ、と。

 傍から見れば先生のやっていることもシュロと同じで。たとえば誰かにとっては「百物語」となる悲劇の登場人物に過ぎないとして、「忘れられた神々」に過ぎないとして、搾取し続ける道具に過ぎないとして。それでも「生徒」であると主張していたら、何を我が物で言っているんだ、という話になる。しかも「嘘」や「演技」がまかり通るというのなら、いよいよどちらに説得力があるか。……やっぱどこかでデカいツケを払うことになりそうな予感がする。私たちはひとつの「物語」を選択しているに過ぎない。「驕るな」。それを改めて突きつけられたように思う。

「考えてみれば、先生は最初からそうでしたね。この疑惑と疑念で満ち溢れたお話の、初めからずっと――」
エデン条約編3章3話

 ただ……個人的な感想ではあるが、今回に関していえば、先生は「ユカリの気持ちは、ユカリのものだよ」と言った、そこに救われる思いがした。「はい、あなたは今こう思ってるんだよ! これがあなたのやりたいことだよ! はいこれ! はいこれ! はいはいはい……はい、これ青春の物語でーーーす!!」……と、してはいけない。そうやって吹き込んでいるようではシュロのやっていること(<🟥>)と何ひとつ変わらない。ただ生徒を信じる。その先に楽園があることを信じる。何が生徒のためであるかを共に考えながら行動する。今回にしたってユカリやナグサが抱えていた心情について、「それで十分なんじゃないかな。自分を繕うのは普通のことだよ」と言っただけだ。そうでないと結果として生徒のためにならない、自分に向き合うことができなくなってしまう、そんな意識が日頃からあったのかもしれない。

 思えば私も「生徒達と共に悩み、先生と共に歩んでいくのはとても幸福な時間だった」とは当該記事で書いたのだけど、それだって生徒がそう思っていること・・にした、そんな物語であること・・にした、ということを普段からやっているわけで。それは自分の視点から見たものに過ぎない、ということは改めて意識すべきだなと痛感する。それは普段の日常生活でも言えること。

 何とはなしに物語論、フィクションのパラドックス、仏教思想などを彷彿とさせる話でもある。その辺の勉強サボってたし久しぶりに何か読むか。他にも増して濃厚なボリュームの1章だったけど、2章どうなっちゃうんだろ。と、長くなってきたので最後に――

 悲劇の登場人物として定義されていた彼女たちは、それでも、傷つきながらも憧れを追い求めて戦う自分がいることを選んだ。たとえそれが演技であろうとも仲間を守り続ける自分がいることを選んだ。言ってしまえば、それだけのことに過ぎない。もし先生の言葉がなかったら、「百花繚乱の私」はただただ虚飾に過ぎなかった、こちら側だけが本当の自分だということになっていく、別の自分がいたのかもしれない。どれだけ純粋無垢に瞳を輝かせる少女であろうとも、誰かの言葉がなければこの世界を「ゲーム」に見立てることも、「勇者」を目指すこともなかったのかもしれない。

 今ここにあるものは本当に「自分」だろうか。本当に「やりたいこと」だろうか。本当に「なりたいもの」だろうか。私たちにできるのは「噂」が渦巻くこの世界の中で、必死に「自分を繕う」ことだけなのかもしれない。

 ――だからこそ大切にしたい。さまざまな感情がせめぎ合う中でも。あなたと共に過ごす日々の中で、あなたと交わすいくつもの言葉で咲き続ける、この思いを。あなたの色に染まる、この心を。それではまたどこかで。

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