何者でもない僕らの歌――卯月コウ『何者』感想【にじさんじ】

 ある者は、自分を求めているので、隣人のところへ行く。別の者は、自分を失いたいので、隣人のところへ行く。自分のことを上手に愛していないと、君たちには孤独が牢獄になってしまう。

『ツァラトゥストラ(上)』ニーチェ
岡沢静也訳

 私たちはSNSを通じてさまざまな人々と繋がったり、特定のコミュニティに属することで同好の士と語らったりすることができる。そして、この広大なインターネットにはいわゆる職人有名人がいる。SNSのタイムラインにいる神絵師、著名人、インフルエンサー、名のあるクリエイター。エトセトラエトセトラ。

 そんな彼らに続くように、私たちは創作活動などの情報発信を通じて、自分が「何者」であるかを表明することができる。無限大の可能性を感じられるこの空間で、真新しい地図を手に最初の一歩を踏み出す。

 しかし不思議なもので、さまざまな人と情報と可能性に囲まれることで、私たちはむしろ、一人でいる時よりも深い孤独や不安に陥ることが幾度もある。他人との埋められない差があることを思い知る。何度生まれ変わっても私には生み出すことができないと思える素敵な作品や言葉に出会う。自分の上位互換が自分より遥かに年下なんてこともザラにある。そんな驚きと思いがけない幸運セレンディピティがインターネットの醍醐味でもあるが、同時に、そんな数々の体験の中で、自分の卑小さを思い知り、「何者」でもない自分を無意識のうちに何度も浮き彫りにさせられる。

 ……自分の人生は本当にこれでいいのだろうか? 自分の解釈は浅すぎる、作品は下手すぎる、とてもじゃないが人に見せられたものではない。上を見上げ続ければキリがない。恥ずかしい過去がよみがえる。もがこうとして、余計にドツボにはまる。妬み。自己嫌悪。虚無感。強迫観念。行く当てのない漠然とした未来が広がる日々の中で、それでも鼓動は虚しく鳴り続ける――

 『何者』(卯月コウ歌、 本多友紀作詞作曲、 脇眞富編曲)を聴いて真っ先に思い浮かんだのはそんな心象風景であり、群像劇だ。本楽曲はにじさんじソロシングルCDプロジェクト『FOCUS ON』において、バーチャルライバー・卯月コウを飾るシングルに収録され、2023年9月6日にリリースされた。

 本楽曲については、卯月コウ本人が上記の雑談配信で「FOCUS ON(についてこっちから語るの)は野暮」と話しながらも、ライナーノーツのように少しだけ思いを明かしている。『何者』という言葉の意味を自分はどう捉えているのか、その価値観を楽曲製作者にクソ長文で送り付けたと語っている。あえて視聴者の解釈の余地を残すというスタンスであり、その全容が明かされることはなかった。

 この楽曲における「何者」にはどんな意味が込められているのか。個人的な解釈ではありますが、本記事であれこれ思いを馳せてみようと思います。まず、この言葉を聞いて真っ先に思い出すのはやはり――

 このおたよりでしょうか。「何者」かになりたかったが、「何者」にもなれなかった。やがて自分は「何者」にもなれないと思い込み、そう振る舞うようになったが、心の内では欲望を抱えたまま。諦めと欲望のアンビバレントな感情が入り混じったその告白は、コメント欄でもさまざまな共感の声や意見が寄せられている。とても勇気のいる告白であっただろうと、私自身も挫折の経験があったので、他人事とは思えず深く感じ入るものがあった。

 このおたよりについては、卯月コウ自身も、自身の経験を踏まえて話を広げいる。大意としては「何者かになりたいという気持ちは、本来は自分にとっての幸せを探しているからなのに、幸せにならない方にどんどん依存している」「いっぱい考えたり自己分析したりしているふりをしながら、自分の心の声ちゃんと聞いてないよな」と。優しく歩み寄りながらも、詭弁への鋭さも含んでいるのは、やはり同じ心境に至った者だからこその言葉なのだろう。

 1番のサビの歌詞は何となくこの場面に重なるように思う――

転がり続けて僕らどこへ向かう?
言い訳ばかりの日々を終わらせるんだ
何者でもない僕らそれはきっと
よすがを探す星空 孤独な光

同曲

 「言い訳ばかりの日々を終わらせるんだ」と叱咤する。これは「うじうじしてねえでもっと努力しろよ」という努力至上主義のニュアンスではない。続く歌詞を見ると、「何者でもない僕ら」を星空に重ね合わせ、「孤独な光」を秘めていると語る。このフレーズについて、別エピソードを元に掘り下げて考えてみると、

 「お互いを色で表すとしたらなに?」という視聴者からの質問について、魔界ノりりむはコウの色は「茶色」だと答えた。内向的で、独特で、あまり好んで選ばれない色――そんな茶色を「コウくんなら『いいな』って思わせてくれそう」と。コウはさらに話を広げて「茶色は着飾らない自然体の色」「みんな茶色のきらめきを持っているのに、それを育ててあげないのはもったいない」「茶色を育てておかないと、剥がした時に『こんなにカッコつけてるのにコイツの本質って汚いんだな』ってなっちゃう」と語った。茶化しながらの会話ではあるが、コウの人生観が滲み出た言葉であるように思う。隣の芝生が青く見えるように、「何者」かの赤や青がぱっと輝いて見える。しかし、それに囚われず、ちゃんと自分自身に向き合って、根っこにある茶色を育てる。

 つまり、ベツレヘムの星ではなくとも、「何者でもない僕ら」は、孤独や不安を抱えながらもちゃんと自分の光を持っている。まずはそれを光らせていこうぜ、という別のベクトルに目を向けさせる。それがこの歌詞の本意ではないだろうか。私たちは「何者」かの光をうらやむけれど、実は他人からも自分がそう思われていたりする。言われるまでは案外気づかない。

 思えば、雑談配信にせよ、おたより企画配信にせよ、コウはじっくりと考えながら進めるスタイルで、そうしてうっかり見落としそうになる光の粒をよく拾い上げてくれる。「くっさマインド」「別棟のオタク」といった概念に落とし込んで独自の世界観を形成したり、言語化しがたい情緒に接近したり。そうした「何者でもない僕ら」の光の集合が確かに星空を形成していることに、ふと気づかせてくれる。

転がり続けていつか辿り着ける
世界の果ては誰かが手放した未来
鏡写しの痛みが僕を呼んだ
もう戻れないと感じた僅かな夜明け

同曲

 2番目のサビ。先のおたよりがそうであったように、おたより企画配信でよく思うのは「これ全然他人事じゃないよな……」だ。他人には滅多に打ち明けられないような悩みやエピソード。肥大化した自意識との向き合い方。「鏡写しの痛み」というフレーズがとてもしっくり来る。他者の中に、自分の中で言語化されていなかった同じ痛みを見出す。そうして「僕」は「僕ら」になる。

 それと同時に「誰かが手放した未来」を幻視する。何かが違っていれば、自分にも輝かしい未来があっただろうか。そんな夢想に耽る。しかし、「もう戻れない」と感じさせる夜明けが訪れる。星空は消え、視界が一気に広がり、光の鋭さが目を刺すような朝日が昇る。ロールパンナをこよなく愛しラティアスに狂った元ガキたちは矯正しようがない。後戻りすることはできない。

 しかし、そこに昇るのは祝福の朝日でもあるのだ。この情景に込められているのは悲嘆だけではない。「じゃあいっそこの人生を精いっぱい生きてやんよ」という前向きな決別もあるように感じられる。私は「私」でしかない。誰かとまったく同じようにはなれない。だからこそ、「何者」ではない、狂いに狂った自分の人生にまっすぐ向き合う。

 これら2番のサビの歌詞は何となく、コウのおたより企画配信を見ている時の感覚を思い出す。おたよりの行間から滲み出るさまざまな人生や感性に思いを馳せていると、どこか心がふっと軽くなるような感覚を覚える。すごい一体感を感じる。言語化してくれてありがとう。みんな同じ傷を持っているなら、私だって。

 それはともすれば傷の舐め合いに過ぎない。しかし、やがて朝日に目が慣れてきた「何者」でもない私たちに、少年はこう語りかける――

転がり続けた先に君はいない
別れを告げる間もなく朝日が照らす
望んだ明日はきっとこんなものじゃない
最果てよりも遠くの景色を見に行こう

同曲

 「望んだ明日はきっとこんなものじゃない」と。ホレイショーよ、この天地の間には、哲学の思い及ばぬ出来事がいくらでもあるのだ――「誰かが手放した未来」が散らばる最果てよりも、あれほど焦がれた「何者」の色よりも、限界を超えた遠くの景色がある。私が幻視した未来以上のものがある。

 きっとその少年も、自分が思う以上の明日を目にしたことがあるのだろう。教室の片隅で、挫折の中で、眠れない夜を過ごして、何度も、何度も、転がり続けた先で――

 そして、少年は「卯月コウ」になった。3Dお披露目というめでたい配信でありながら着飾らない、同じ教室にいる素朴な卯月コウという存在が、そこにいた。当時それに感動したことを未だに覚えている。

 『にじヌ→ん』『にじさんじのB級バラエティ(仮)』『にじさんじライバードラフト会議』など、直近の公式番組に出演している卯月コウを見ていると、他ならぬ卯月コウ自身が「卯月コウには何ができるのか」「卯月コウはどこまでやれるのか」という可能性を探求しているように感じられる。独特なペースで積極的に場を引っ掻き回しながらも、スッと引っ込んで聞き役になり、相手の反応を引き出す、そんなトリックスターのような立ち回り。自分の「茶色」を育てながら、しかし最果てよりも遠い景色を追い求める意志が、そこに宿っているように今は感じられる。たとえ朝になって、星空が見えなくなっても、心の内に光を宿していれば、孤独であっても自分を見失うことはない。

 総じて、本楽曲は「何者」かになれと迫るのではなく、しかし「何者」でもない者どうしで傷を舐め合うわけでもなく、「何者」かへのルサンチマンを駆り立てるでもなく――「何者」かになろうとする妄執でぐちゃぐちゃになってしまったのなら、まずは「何者」でもない素の自分を愛することを。そこから自分を磨き上げて生まれる美学があることを。そして、その先には「何者」という型にハマらない、想像を超えた景色があることを伝えている。そんなメッセージであると私は受け取った。「例えばの話 明日世界が 無くなるとしたら君はどうする?」――自分の心の声を聞けよ、お前の大それた夢を聞かせてくれよ、


ほら、お前の中にもちゃんとあるんだよ


 そう励まされた気がした。

 私事ではあるが、私には心身不調で自主退職に至った経験がある。無職、正真正銘の「何者」でもない時間を過ごした。再び立ち上がれるまでにはそこそこの期間を要した。そして、新しい職場では似たような境遇の人々に出会った。私以上の挫折を味わった人、それでも夢に向かって少しずつ歩む雛鳥のような人、将来への漠然とした不安を抱えながらもとりあえずふらふらと生きている人。彼らの着飾らない言葉が好きだ。私が今こうして少しずつ頑張ることができるのは彼らのおかげだし、私自身、人付き合いは苦手だけどそうした人間でありたいと思う。

 こういうテーマはともすれば「オタクに説教」的な話になりかねないけど、ひねくれ者だからこその独特な応援ソングになっていて素敵だと思うし、何より「最果てよりも遠くの景色を」という最後のフレーズには、爽やかな曲調も相まって素直にワクワクさせられました。やっぱりこういう中学生マインドは忘れないようにしたい。これ聴きながらジョギングしてきます。

 同シングルに収録されている『放課後シャングリラ』は、本楽曲と対比的な内容になっています。サブスク配信も行われておりますので、もし機会があれば――いや、今度このCD貸すからさ。感想聞かせてよ。まだ「何者」でもない私は、あなたと同じ教室の後ろの席で、休み時間に岩波文庫広げてるからさ。それではまたどこかで。

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