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思い出のマイナス補正

昔やって面白かったゲーム。久々にやってみるとあんまりハマらなくて20分ぐらいでやめてしまう。面白さが思い出の中で強化された「思い出補正」だったのだろう。誰もが知る名作なら今やっても面白いけど、小学生ぐらいの頃個人的にはまっていたマイナーゲームだとこういうことがある。他にも、今食べる駄菓子は思い出の中の駄菓子ほど美味しくなかったりとか。

「思い出補正」に加えて「初めての経験なんでも最強」というのもあるから、どのジャンルでも一番好きなものを大人になってから更新するのは難しい。映画やマンガだと、小さい頃に読んだものの持つ「その人にとっての」圧倒的なオリジナリティーを超えられない。2つ目以降の同ジャンルの作品は、その人にとっては初めて接したものとの「間違い探し」になってしまうので、最初の作品が圧倒的に有利になる。

料理でも、学生時代の一皿が忘れられないなんてよくある話だ。ところが自分は味覚が単純なのか、常に色んなものを美味しい美味しいと思って生きているので、これといった最強の一皿が思いつかない。ある意味最強だったのは、京都にあった「うさぎ屋」のラーメンだ。

大学近くにあったこのラーメン屋、一回生の時に知らずに迷い込んでから30回は間違いなく行ったが、衝撃的なほどマズかった(画像はネットから拝借)。マズ過ぎて自分試しの空間になっていたし、何だったら大学生の通過儀礼になっていた。マサイ族では成人の儀式として、ライオンと戦う。バヌアツでは、高い台の上から足にツタを括りつけて飛び降りる。そういった立ち向かうべき「困難」として、一杯のラーメンが設定されていた。

この過激なラーメン屋が閉店してから約4年半。思い出の中のうさぎやは、日々マズさを増している。思い出のマイナス補正だ。より刺激的な存在として脳内で醸されていくあのラーメンを、他の料理のマズさが上回ることはもうないのかもしれない。いや、よく考えればもう一食死ぬほどマズかった料理があった。

大学3回生の夏、インド旅行で食べたパパイヤの漬物(たぶん)だ。この料理を食べている時に、机の上で「ご自由にどうぞ」という顔をしていたパパイヤを食べて衝撃が走った。純粋な「マズさ」という6つ目の味だった。思い出をいくら辿っても、辛さや苦さなどの感覚が一切思い出せず、ただ衝撃的なマズさだったことだけが記憶に残っている。うさぎやは何度も食べたのでどこがマズいか思い出せるのだが、この時のパパイヤはマズいこと以外見た目すら思い出せない。そんな料理にマズさで勝てるわけがない。

父親の前でマルタイの長崎ちゃんぽんを食べていた時、「お前よくそんなん食えるなぁ」と変な絡み方をされたことがある。どうやら嫌いらしいのだが、なぜ嫌いなのかというと、とにかく「クサい」という。確かに臭いはするけど、クサいってほどか?と思い、前にいつ食べたのか聞いてみた。中学の頃大和川沿いのグラウンドでサッカーをしていて、腹が減ったので持ってきていた長崎ちゃんぽんを食べたという。

ふと疑問が浮かぶ。お湯はどうしたんだろう?

グラウンドで火を起こして、大和川から汲んできた水を沸かしてちゃんぽんを作ったんだとか。それじゃ臭いのはちゃんぽんじゃなくて大和川だ。どうやって沸かしたのか。当時中学生の父親に、ビニール袋でお湯を作る知識があったのなら驚きだが、肝心なところで無鉄砲である。いやそれとも、もともとそのつもりで誰かが鍋を持っていっていたのか。しかしその時の体験がトラウマになっているようで、今長崎ちゃんぽんを食べてもその時の臭いが幻臭として蘇るようだ。思い出のマイナス補正は、現実の味覚に影響する。

父親が大和川の臭い水で長崎ちゃんぽんを食べてから30年。息子はガンジス川で泳いでお腹を壊した。お互い臭い川には謎の縁がある。父はお腹を壊さなかったのだろうか。

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