元二の安西に使いするを送る

渭 城 朝 雨 潤 軽 塵
客 舎 青 青 柳 色 新
勧 君 更 尽 一 杯 酒
西 出 陽 関 無 故 人
【試訳】 渭城の朝雨は軽い塵を潤し、 客舎の柳は青々として趣を添えている 君(元二)にもう一杯酒を向見かわすことを進める。 西の陽関を出ればもう旧友はいないのだから
【解釈、解説】 王維が旧友の元二との別れの際に詠んだ詩。下記の図の通り渭城と陽関は遠く離れてお り、この別れは今生の別れに等しいものであったため。その別れを惜しんでいる。 起句、承句で情景の趣を、転句と結句で元二との別れを惜しんでいる。 元二という人物は詳しく伝わっておらず、詳細は不明。元一族の二番目の氏長者を指すと いう説もある。 753年以降の作とみられる。
【補足】 唐代、別れの際にこの詩を歌ふのを常例とした。(大漢和辞典) 陽関三畳:唐の王維の詩「送元二使安西」の詩句「渭城朝雨浥軽塵、客舎青青柳色新、勧 君更尽一杯酒、西出陽関無故人」を歌う際、三回繰り返して歌うこと。どの句を繰り返す かには異説があるが、日本の詩吟では全詩を歌ってから「無からん無からん、故人無から ん、西のかた陽関を出づれば故人無からん」と繰り返す。(日本国語大辞典)

【語彙】 渭城:秦(しん)の都、咸陽(かんよう)の別名。陝西(せんせい)省咸陽市の東にあ る。(新選漢和辞典 web 版)
陽関:中国甘粛省敦煌県の西南にあった関所。玉門(ぎよくもん)関とともに西域への要 衝。(角川古語大辞典)
【作者】 王維:中国、唐代の詩人、画家。字は摩詰 (まきつ) 。李白、杜甫に次ぐ盛唐期の大詩 人で、仏教信者であったために、詩仏と称される。自然詩の第一人者とされ、客観的で静 寂な叙景に優れるほか、送別詩、宮廷詩などの分野においても一流である。 蒲州(山西省)に生まれ、家は土地の小豪族だったらしい。母は熱心な仏教信者で、王 維に強い影響を与えた。15 歳ごろに首都長安に上り、皇族貴顕の邸宅に出入、美貌と詩、 音楽、美術の多方面の才能で、玄宗初期、最盛期唐代の社交界の人気者となった。しか し、進士及第後まもなく、済州(山東省)に左遷されてから、40 代の初めまで不遇がち で、一時は涼州(甘粛省)にいたこともある。このころ妻を失い、生涯再婚しなかった。 天宝年間(742~755)には、長安の官界に返り咲き、順調に昇進し、長安の南の郊外の輞 川に広大な別荘を構え、宮廷詩人として盛名をかちえる一方、輞川では休暇の日に親しい 友人と、芸術と信仰に明け暮れる毎日を過ごした。その生活のなかから生まれた『輞川 集』は、五言絶句 20 首、親友裴迪 (はいてき) の同詠をあわせて 40 首の連作で、輞川 荘を浄土に見立てた叙景詩の傑作である。安禄山 (あんろくざん) の乱にあたり、捕虜 となり、のちに解放され、唐に対する忠誠を認められて、軽い処分ですんだが、決然たる 行動をとりえなかったことを自己批判し、仏教による世界の救済を夢み、詩への関心は後 退した。尚書右丞 (うじょう) の官にあったときに死んだので、王右丞ともよばれる。 『王右丞文集』10 巻を伝える。彼のファンだった代宗皇帝が「天下の文宗」とよんだよう に唐一代、最高の詩人とされた。

後書き
初投稿のついでにだいぶ前作ったものを。

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