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悩めるクリスチャン向け

クリスチャンの中には「隣人を愛しなさいと言われているのに、あの人のことが嫌いな気持ちがどうにもならない」とか「いつも感謝しなさいと言われているのに感謝できない」などと密かに悩む人がいます。

実はこういう悩みを持つのはクリスチャンに限りません。神経症(不安障害)的な性格を持つ人は、「他人と話す時に緊張したくないのに緊張してしまう」とか「勉強に集中したいのに雑念が起こって集中できない」というようなことで悩みますが、ほぼ同じ構造です。

神経症の治療法で有名な森田療法では、この構造を「思想の矛盾」と呼んでいます。神経症的性格の人は、不安や恐怖などの負の感情や体の感覚を「こうあるべき」「こうあってはならない」という思考によってコントロールしようとします。それによって葛藤が生じて苦しくなり、症状につながっていくのです。

「神経症の人は自分の感情が怖いのです。その感情が良いか悪いか判断をし、理屈をつけてねじ伏せたがるのです」(岩田真理 「流れと動きの森田療法」)

私はずっと「良い感情、悪い感情、というように判断して自分を責めるのって、精神衛生上よくないことはわかる。確かに感情ってコントロールできるものではないよね…でも、クリスチャンとしてはどう考えたら…」と思っていました。

先日、「恵みの道」(スティーブ・マクベイ)というクリスチャン向けの本を読んでいて、「あらっ」と思いました。8章に「善悪の知識の木」について書いてあったのです。有名なエデンの園の禁断の木の実です。神の命令に背いて食べてしまったアダムとエバは、突然目が開かれて、初めて「善と悪」を意識しました。それまでは、神に完全により頼んで生きていたので、善と悪を判断する必要がなかったのです。しかし、神のように賢くなりたくてその実を食べてしまったので、それ以降は神から「自立」し、自分の人生を、自分の決めた(または社会の決めた)善悪に従って判断し、選択するようになりました。

しかし神の願いは、人間が善悪に取りつかれることではなく、人生の拠り所を神ご自身に置くことでした…

この解釈だと、「善悪にとりつかれること」が神と人間の交わりを邪魔するってことなんですよね…

スティーブ・マクベイさんは、「善悪にとらわれると、神よりも自分に目を向けるようになる」と書いています。つまり、自意識過剰になるのです。これは実は神経症のメカニズムと同じです。「これは悪い感情だから、こんな風に感じてしまってはいけない」とコントロールしようとすると、必ず考えが「自分」を中心にぐるぐる回るようになり、「自己中心的」になるのです。

ですから、最初に書いたような悩みの中にあるクリスチャン(私も同じタイプです…)に試していただきたいことは、とりあえず、少なくとも自分の感情については「善いか、悪いか」にこだわることをやめてみたらどうかということです。

そして、これはスティーブ・マクベイさんの主張ですが、「これを行うことは正しいか」という問いを一旦やめて「今、自分はキリストにつながっているだろうか」と問い続けてみてください。キリストに「とどまる」ことで、私ではなく、「キリスト御自身の態度と行動」が私を通して「あらわされる」ことを祈ってみてください。私も最近それを始めてみたばかりですが、もしかしたら何かが変わってくるかもしれません。


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