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JPOP好きすぎて飛び級院進に至るまで

 ちょうど一年前の3/23に北大の卒業式があったということで、はや上京から一年が経つことが発覚しました。早すぎるなぁと思う反面、人生で一番充実した一年でもあったので、まあ納得の密度ではあります。
 さて今春から修士2年になるということで、上京後最もよく質問された「なぜ飛び級院進したの?」という点について、簡単に書き残しておこうと思います。本当は院進ほやほやのうちに書こうと思ったんですけど、なんか熱量エグすぎていらんこと書きそうだったので、一年冷ました今、多少冷静になった筆致に期待して今度こそ(簡潔に)かきます。

【自己紹介】
北海道生まれ。北大法学部を3年次飛び級卒業し、学際情報学府修士課程入学。春からM2。専門は文化社会学、音楽社会学、ポピュラー音楽研究など。スピッツ、宇多田ヒカル、相対性理論、小沢健二、サカナクション、新東京などが好きです。

就活前夜(大2)

 文系院進した、というといつからそのキャリア考えてましたか?みたいな質問がめっちゃあるんですけど、正直入試の2ヶ月前(夏出願なので大学3年生の6月)までは、全く考えてませんでした。というかそもそも大学3年生は院試の受験の代ですらないので、俺も全く想定にはなかったです。

 じゃあなんでそんな急遽院進することになったかっていうと、まあ就活が大きいんですね。就活を始めたのは大学2年の3月(大3なる直前)なんですけど、その頃は「自分が何者でもない」というありふれた焦りをめっちゃ感じてました。一応体育会に入り、一応バイトも色々やり、コロナ禍なりには充実を装ってたんですけど、まあ表現通り、「装ってる感」が凄かったというか。別に部活も上手くならないし、バイトも成長してる感ないし、なんか雑魚いまま大3、ひいては就活期に入るんだなぁという、不安、不甲斐なさがありました。

とりあえず就活ガチる(大3 4〜5月)

 何者でもなさを嘆いていても仕方がないので、とりあえず時期だけは「早め」に始めてアドバンテージ取るしかないと思い、3年4月からは全然授業にも出ず(それが後で裏目に出るんですが)ゴリゴリ就活を始めました。北海道という僻地とはいえコロナも3年目だったので、探せばそれなりにオンラインのサービスや支援などがあり、自分史とか自己分析とかESとか、皆さんが嫌と言うほど向き合ったであろうあれらと、毎日ひとりで対峙してました。

 で結局6月までに40ぐらい?エントリーして、結果まずまず受かってはいたんですが、一方でサマーインターンのスケジュール感が見えてくる中で、本当にこんな1、2ヶ月程度の準備で、あっさりと人生を決めていいのか?という疑問が湧いてきました。(今考えるとちょっと大袈裟ですけど)

 浅いガクチカを語り、浅い面接対策!みたいな記事を読み、浅い知識でグルディスを乗りこなす自分が、なんか薄っぺらいなぁと思い始めたんですね。

本当にやりたいことは何かという煩悶(大3 6月)

 ふつうに俺このまま大3で就活やって、大4ゆるく過ごして終わるかもな、と思った時、途端に悲しくなったというか(もちろんそれはそれでいいんですけど)、なんかもっと熱くなってみろよ?という、不思議な熱量が湧いてきたんですよね。
 で、「社会人になったら絶対できなくて、学生だから許される、かつ人生で一番俺が熱中できることは何か??」という就活期特有の悩みと、めっちゃ向き合いました。
 そして辿り着いたのが“JPOP”でした。客観的には謎発想だと思うんですけど、自分からすると良くも悪くも必然的なルートでした。もちろんはじめは学問的な系譜も作法も何も分かってなかったんですけど、友人との深夜語りや日々のdigりで培った断片的な知識をもとに、漠然と“JPOP”を学問的に把握する方法について、就活以上の熱量で考えるようになりました。

JPOPを学問として捉えるということ

 昔から音楽が好きでした。歌うの上手くないし楽器も全然弾けないしバンドも組んだことないですけど、とにかく音楽が好きでした。何が好きかって、楽曲を聴いてると、なんか「社会の空気感」が分かるんですよね。音楽を通して、「その背後にいる作り手、さらにはその時代を生きた人たちの生き様」が見える気がするというか、そういう時代の「鏡」として音楽を捉えるのが凄く好きでした。(学術的には賛否ありますけど)
 あと音楽って凄く「記憶」と相性がいいんですよね。「ノスタルジー」みたいなものは学術的にもよく登場しますけど、「この曲を聴くとあの頃を思い出すなぁ」みたいな、そういう「記憶を呼び起こす装置」としての側面にも、凄く惹かれていました。
 まあ他にも沢山あるんですけど、俺的には音楽それ自体に興味があるというより、音楽を媒介する俺たち、ひいては社会の方に興味があるんですよね。単に宇多田ヒカルが好き、というよりは、1998年に宇多田ヒカルが登場したことで、社会がどのような衝撃を受け、また俺たち(の親)がそれをどう受け止めたのか、の方が気になるって感じです。
 で、まあこれって端的にいえば「(音楽)社会学」なんですよね。

JPOPで院進を目指す(大3 6〜7月)

 就活の間で音楽が「学問」になると気づいた俺は、これを趣味ではなくちゃんとアカデミックにやってみたいと考えるに至りました。ただ今から大学を変えるのは無理なので、事実上これを成せるのは院進一択ということになり、そこでようやく(3年5月下旬)、院進を明確に意識し始めます。

 幸か不幸か就活のおかげで「情報を集める」「筆記や面接等の対策をする」「OBを探す」とかのノウハウがあったので、ほぼ就活みたいな感じで、サマーインターンの選考と並走しながら、一気に院進の対策を進めました。就活のスケジュール表に重ねて書いてたので、ほぼ志望企業の一つみたいな感覚でしたね。

 そして自分が関心を持てる研究室をリストアップし、実際に訪問・面談を経て、現在の研究室に出会いました。結局ここ一箇所しか受けませんでしたが、研究室に伺った際の雰囲気の良さ、何より教授が自分の研究を面白がって下さったことが、飛び級というチャレンジングな試みの、何よりの励みになりました。ほとんど「予感と勢い」で受験を決意した側面もありますが、今となっては良い判断ができたなって感じです。

飛び級受験という選択(大3 8月)

 ここで最大の問題として「なんで大学3年で受けたの?」という点がありますね。これは本記事の核心部分でもありますが、結論、これも就活との兼ね合いが大きいです。

 述べてきた通り、僕は院進を決定した時点で既に就活をそれなりに進めていたんですよね。ただ4年で院試を受ける場合、3年で頂くことになる内定を、一年以上保持した挙句、結局院進するので蹴る、という選択をしなければならない。これはシンプルに時間的にも企業的にも自分的にも一つのメリットもないなと思いました。結局大学3年は就活に追われ、大学4年は院試に追われるのであれば、院進できても大学生活自体は忙しなく終わってしまう気がしたからです。

 あとは明確にやりたいことがポピュラー音楽研究で定まっていたので、シンプルに早くそこに行きたいという思いもありました。勝負できる実力はあると思い込んでいたので(今では日々ボコられてますが)無駄に就活をダラダラやるくらいなら、一刻も早く、新しい学問にシフトした方がいいと考えました。

 ただし日本ではまだ飛び級の制度はそれほど整っていないので、その手続きにあたっては双方の大学と何度もやりとりを重ねました。そもそも今回飛び級できたのは僕が偶然その制度を有する「法学部」に所属していたからなのですが、とはいえこれは「法科大学院」への進学を前提としたものであり、法学と無関係な大学院への進学ケースはほとんどありませんでした。そのため要項を何度も読み直し字義の隙間を縫うようなやり取りを重ね、なんとか「合格すれば卒業してもよい」という許可を頂きました。一方で進学先の大学院についても、それまで飛び級の生徒を受け入れたケースが見られなかったため、同様の協議を行い、なんとか受験の許可を頂きました。

合格するも卒業要件満たせず(大3 8月)

 事務的な手続きを整えた僕は、8月、怒涛のサマーインターンラッシュの狭間で院試を受け、なんとか院試に合格しました。これで晴れて就活・院試ともに解放!と思ったのですが、ここでまさかの問題が発覚しました。あまりにも初歩的で致命的な話なのですが、シンプルに「早期卒業のためのGPA」が足りませんでした。それもかなり不足していました。

 就活に全振り(という名目に甘えて、前期の授業をサボりまくってたため)、前期の試験がかなり悪く、結果圧倒的にGPAが悪かったんですね。これにはかなり凹みました。(まあ自分のせいなので凹んだというのは間違った表現ですけど)最悪成績が足りず卒業不可からの合格取り消し、そして大4から急に就活再開……という絶望の未来も見え、この半年の労力が全消えする怖さからマジ泣きしそうでした。

早期卒業に向けた絶望のデッドヒート(大3 9〜1月)

 計画的にこなしてたかに見えた全てが瓦解しかけた9月、ただもうここまできたらバトるしかないという覚悟を(家族や友人の励みも受けつつ)なんとか決めた僕は、勝つための最終策として、後期36単位というパワープレイに挑みました。GPAを一気に引き上げるには、所定の単位を取るだけでは足りないので、これはやむを得ない力技でした。

 コマの重複を避けつつ、より効率的に単位が取れるよう、法学部の必修に加え、一年生向けの教養科目、文学部、経済学部、農学部など全学部のシラバスから選び抜いた最強の布陣を整え、大3後期にも関わらず毎日ほぼ1限から5限まで大学にいくというデッドヒートライフを決行しました。

 文系かつ大1からオンライン生活だった自分にとっては、まさかこんなに大学に行く日がくるとは思っておらず、(まあ今考えれば数奇的でそれはそれで悪くない展開でしたが、)当時は必死でした。北大というやたら広大なキャンパスの弊害で、休憩の15分の間に1キロくらい離れた建物を移動せなばならず、凍える12月の寒さの中、一人雪道を爆走する自分の姿は周囲からはかなり滑稽に映っていたはずです。飛び級院進を成し遂げるためには、恥じらいを捨てる覚悟や、フィジカル、走力も必要なんだと学びました。

晴れて卒業&上京(大3 2〜3月)

 結果的に、お世話になった教授をはじめ、多くの先輩や友人のお力添えのおかげで、3年後期は36単位、GPA4.1(/4.3)と、小学生の通知表ばりにいいスコアを取ることができ、無事卒業を決めました。

 卒業が決まった瞬間から(正確にはそれを見越して少し前から)東京の物件を探しはじめ、1ヶ月経たないうちに今度は引越しという、これまた忙しない日々を過ごし、僕は21年過ごした北海道を離れ、上京するに至りました。お世話になった皆様、改めてありがとうございました。

終わりに

 ただの振り返り年記みたいになってますが、こんな感じで僕は飛び級院進し、現在は(まだまだ初学者ですが)大学院でポピュラー音楽を研究するに至っています。大学院での体験についてはまたそのうち書こうと思いますが、院進後でありながら就活2年目状態からスタートできたのは圧倒的に強かったですし、とはいえ博士進学にも関心が湧いたりと、当時の就活院試学業の散らかった煩悶が報われる形で、大変刺激的な日々を過ごしています。

 一方で「コロナ・部活・バイト・就活・院試・研究」という日本の文系大学生が直面し得る全てを短期間に経験する中で、この前後の世代が課される「自己責任論」の風向きの強さも感じました。情報や選択肢が乱立する中で、どれをどのタイミングで選ぶべきか、明確な指導も合図もないまま「気づけた人」だけが全部持っていってしまう、そういう「センス」が求められる傾向はどの舞台でも顕著だなと、これらの経験を経て凄く感じました。(それが社会なのかもしれませんが…)

 いうて人生まだまだ序章ではあるので、学業・フィジカルの強化を続けながら、来たるネクストキャリアに向けて備えたいと思います。

 最後まで読んで頂き、ありがとうございました!

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