人生は「我是谁」を知る旅だと思う
こんにちわ、プロ雑用です。
最近の僕の活動は、多くの人と出会い話す機会がとても多くて、刺激をたくさんいただく毎日なのです。今年もたくさん人と話したぞ!話しすぎて陰キャの僕は胃もたれしています笑
そういった会話の中でふと話すエピソードや知識の幅と量に驚かれることが多いのですが、本人はそんなことは微塵も思ってません。世の中知らないことばっかりだよ!
以前から「なんでそんなマニアックな話題を拾えるのか」「ほんとに色々知っていますね」と言われることはよくありまして、まぁ、確かに何でやろなと、いうのは実は若き日の自分の疑問でもありました。今ではなぜなのかは言語化できているのですが、ですが…まだ言語化しきれてなくて説明が長く何るんですよね。なので、今日は自分の頭の中を整理しながら、書いていこうと思います。
他者と自己の認識は違うことを悟った幼い日
原初の問い
私は今でもネガティブ陰キャ勢なのですが、生まれつき一人遊びの方が得意な陰キャ一筋4x年です。別に卑下はしていませんが、分類するとそうだという事実です。
で、そんな私は幼少期から、少なくとも小学校に上がるか上がらないかのころから、2つの疑問を感じていました。それは、
自分とは何か
生きているとはどういうことなのか
という哲学的な問いです。昔から昆虫などの生物や石などの無機物が好きでした。また、生物以外にも、ロボットなどのメカニカルな「動くもの」も好きでした。これらは今も好きが続いているのですが、そういったものが好きだからでしょうか、幼い僕は思いました。
生物と非生物を分ける境界は何なのか?
「動かなくことがが死ぬことなら、電池で動くおもちゃは死ぬのか」
「ゼンマイのおもちゃはゼンマイが切れたら死ぬのか、ゼンマイを巻き直したら生き返ったと言えるのか」
「修復できないほどの破壊があったときに死を迎えるなら、形を保ったまま寿命を迎えることは死ではないのか」
「昆虫と動物と人間の死はどう違うのか」
「石は死んでいるのか、それとも生きてはいないのか」
というような、生命に関する疑問。これが知識欲の原点の一つです。つまるところ言い換えればこれは「この世界は、命とは何なのか?」という問い。
そして大人というものは、そういう原始的な疑問には答えを持っていない、というより、彼らもわからないのだ、ということを、同じころには気づいていました。直接問うたわけではないのだけど、僕のこの疑問は、他者とは共有できない、と直感していました。
なぜそう直感したのかは、今考えてみると、この後に記す「認知のズレ」が強く影響を与えていたと思われます。
他者と見えているものがズレているという感覚
幼少期の興味は「動き」と「形」に集中していました。
後にわかったことですが、僕の認知特性は「視覚優位」で、さらに「三次元映像タイプ」が優位。なので動くものに敏感で、立体的に空間を把握し記憶する能力が異様に高い。
一度歩いた道は、ほぼ忘れることがないという能力もこれに由来します。
というか、地図でみた道も迷わず進むことができます。
(ちなみに、間違いは良くあります。が、間違っても、すぐに気づくので修正できます。迷う人というのは間違ったことがわからないのです)
視力が母親からの遺伝で生まれつき弱く、乱視も多少入っているため、補正がないとぼんやりとした風景になるのですが、一方で形と動きや距離感はかなり正確に把握でき、裸眼でも生活に支障はないほとです。
コンタクトもメガネもない全くの裸眼だと私の視力は0.01以下なのですが、夜の人混みの中を走り抜けることができるし、ゲームもできるし、料理もできるんです。文字が見えないので仕事は難しいですが、生活にはそれほど支障はありません。漫画によくある「眼鏡がないと動くことすらできない」というのは、僕には理解できない感覚。むしろ、メガネのほうが身体感覚と視覚情報のズレが大きく裸眼より動きが緩慢になります。
この認知特性のためなのか、子供の絵というものが理解できませんでした(自分も子供なのに?)。
特に立体的な絵を早い段階から描いていたので、子供の描く絵でよく見る「体の片側に両方の手足がくっついてる絵」が理解できなかった。現実には体を右からみたら左手は隠れて一部しか見えてないのに、なぜみんなは「見ているように」描けないのだろうか「どう見たらそういう絵になるんだ?」と周りの絵を見て疑問に思っていました。
僕ほど視覚優位に偏った人は、幼い自分の周りにいなかったようで、なのでどうも見えているものが違うようだということは、早い段階から感じていたのですね。
おとなしくてしゃべらない子
子供って早い子だともう9ヶ月くらい、9割の子供は、1歳5か月くらいまでに意味のある単語をしゃべるようになりますよね。
それと比べて、ぼくは喋りだすのが遅かったそうです。3歳くらいまであまり意味のある言葉を話すことがなく(そもそも口数がすくない)、3歳近くになって、ようやくポツポツ話すようになったそうで、父親は心配していたと聞きます(母やまったく心配しなかったそうですが)。
お友達と遊ぶよりも一人遊びのほうが好きで、通っていた体操教室でも飽きると床に寝っ転がって手いたずらしたり、他の子の動きをずっと見ていたりするような子供でした。コミュニケーションより圧倒的に観察癖があった。
これも今考えれば、認知特性によるものだったのでしょう。コミュニケーションや体験より観察の学習が圧倒的に効率的だったのだと思います。これは当然ながら今でもそうで、例えば読書は、紙の本より、電子書籍のほうが圧倒的に理解とスピードが早い。これは使われる脳の部位が、紙と画面では異なるからだそうです。
余談ですが、世の中の研究では、画面より紙の方が記憶に残りやすい、という話が多く散見されるんですが、これ、多分そういう研究分野にいる人たちの認知特性が言語優位な人が多いからだと思うんですよね。なぜって、教育課程が言語優位のほうが高い成績を残しやすいからです。
そんな感じで、幼稚園や小学校などの集団生活で、なんとなくの疎外感を感じながら生きていました。しかし、私自身といえば、他人に対してはさして興味がなかったので、あんまり深刻には捉えてはいませんでした。人よりも取り巻く世界の方に強い興味をもっていたので、人があまり気にならなかったわけです。これは今でも同様ですけどもねw
動かなくなったおもちゃを見て
どこかで「動かなくなった昆虫を、おもちゃドクターに持ち込む子供」の話を見聞したことがあります。周囲の良識ある大人は「ゲームがー、おもちゃがー」と判を押したような反応がコメント欄にあふれてましたが、僕はこの子供の気持がよく分かるんだよなぁ。
初期のロボット工学では、昆虫のメカニズムを再現させることが良くあります。昆虫って活動がメカニカルなんですよね。犬とかハトに比べると、ずっとロボットとして再現しやすい。
ファンタジーの世界では、意思のあるロボットやアンドロイドがたくさん登場します。その影響なのか、僕も幼少期のころから、昆虫とロボットはどう違うのだろうか、もしかして違いはないのではないか?と思っていたのは、冒頭に書いたとおりです。
植物だって生きている、みたいな話もあれば、石は形を変えますが生きてはいない。自律的に活動していることが生きていることだとすれば、高機能センサーを搭載した自立稼働するロボットは、もはや昆虫と区別がつかないのではないかと思います。未だに、センサー類は人類の技術より、昆虫をはじめとした動物のほうが遥かに高度だったりするし。実際、蛾の触覚を移植してセンサー代わりにしている実験ロボットもあるそうなので、ますます生きているとは何かわからなくなりますね。
世界の見え方が違うという原体験
このように、自分の見えている世界と、他人が見えている世界は、ここまで違うものなのかという幼いころの驚きは、今につながる大きな原体験だったと思います。
この原体験が、最初の問に繋がって、「僕の見えている世界が他者と違うのなら、人間とは何なのか」という問いになり、それは次第に「僕という存在は一体なんなのか?」という問いに変化しました。
人が答えてくれないのなら、どこに行けば答えはあるのか。答えが無いなら考えるしか無い、考えるために興味が赴くままに情報を貪る特性が誕生しました。
自分を知ることは、世界を知ること
こうして本の虫、特に文字よりも図や写真の多い図鑑や写真集などをよく見るようになった私でしたが、自分を知りたいと考えた最初のきっかけは、就職活動前に学校で受けた適正検査。
項目はいくつかのカテゴリーに分かれていて、私はカテゴリーのほとんどは平均か、それを下回る値でした。しかし、一つだけ、「空間把握」の項目だけが飛び出していたのです。その時のテスト受講者数は、全国で約10万人だったのですが、空間把握だけでが500位くらいだったことに驚きました。平均的に高い低いは他の人でもありましたが、僕のような一つだけ飛び出した歪な結果が出ている人は、少なくとも同じクラスにはいませんでした。
でも納得している自分もいて、考えてみれば、たしかに展開図や図形の問題は、ほとんど考えずに直感的に正解できていましたし、間違い探しやパズルなんかは昔から大の得意だったなと、初めて気づいたのです。
さらに20代のころ、会社の研修で「対人スキル向上研修 | STAR」を受けたことが次のきっかけとして、「自分を知る」ということに深くのめり込むようになり、自主的に、さまざまな特性・性格診断を定期的に受けるようになります。有象無象、単なる占いも含めて、実にさまざまな診断を受けまくりましたが、その中でもソーシャルタイプ診断(STARのベース理論)、ビッグファイブ理論、FFS理論、ストレングスファインダー、エムグラムは共通する因子が多分に含まれおり、自身を深く理解するのに役立ちました。
では実際にどんな結果が出ているのか記していきましょう。
ソーシャルタイプ診断
診断結果より…アナリティカルは4つのソーシャルスタイルの中で、「意見を聞く」「感情表現が少ない」というコミュニケーションの特徴があります。アナリティカルは、深く考えることや分析が得意なタイプです。何事も冷静に対処でき、物事に動じない傾向があります。仕事も正確で安定感があります。自分の話をするよりも人の話を聞くことが多く、大人数の場ではあまり喋りません。感情が表情に出ないため、何を考えているのかわからないと思われてしまうことも。
ビッグファイブ診断
診断結果より…まず、自らの価値観を明確に示すことができます。物事の価値基準が明確です。先が見えないような状況下でも方向を指し示すことができます。次に、柔軟に物事を受け入れていきます。周囲の喜びを自分の喜びと考えることができます。そのため、人を育成しようとする気持ちが強いです。 最後に、現状を継続しつつ、改善を積み上げていくことができます。良いものを残しつつ、悪いものを改善しながら目標を達成していきます。興味のあることを極めることに積極的です。
ストレングスファインダー(クリフトンストレングス)
原点思考…今を理解する手がかりを得るために過去を振り返ります。過去と現在の因果関係を見 極める能力は、計画策定や意思決定の場面では極めて重要な特性
内省…考えること、熟考すること、思案することが好きです。深い知的処理力と知的活動により、 どのようなトピックや状況でも、明確にして説明することができる特性
最上志向…クオリティーを重視し、最高の仲間と最善の仕事をすることを好みます。各人が最も得意 とすることを理解し、それを実行するよう促して、個人、チーム、グループを向上させる特性
親密性…互いにとって誠実で意義のある真の1対1の人間関係を自然に作ります。偽りのない姿 を示すため、長続きする親密な関係を築き、信頼と自信を育む特性
個別化…一人ひとりの個性を見つけて尊重し、全員を同じには扱いません。それぞれの個性を知 っているので、ベストな状態を引き出す方法を考え出せる特性
エムグラム
さらに深掘ると、日本人の標準を相当逸脱している項目が3項目、標準を逸脱している項目が3項目あるそうです。以下に相当逸脱している3項目の解説を記します。
決断性偏差値は86。つまり、1万人中2位くらいの合理的な人といえます。日本でもトップレベルの合理的な人と周囲から思われているということです。あなたのように決断性が高い人は、一切の迷いなく情に流されずに極めて合理的で冷静な判断ができるという強みがありますが、物事の情緒に疎く非常に冷たいという短所があります。
直観力偏差値は85。つまり、1万人中3位くらいの直観的タイプといえます。日本でもトップレベルの直観的タイプと周囲から思われているということです。あなたように直観力が高い人は、物事の本質を瞬時に理解できるという強みがありますが、考えや話がしばしば飛躍しがちという短所があります。
共感力偏差値は28。つまり、1万人中140位くらいの非共感的タイプといえます。会社や学校でもかなり上位の非共感的タイプと周囲から思われているということです。あなたのように共感力が低い人は、他人の感情に全く振り回されないという強みがありますが、他者の心理や感情を汲み取ることが苦手であるという短所があります。
16タイプ診断
建築家 INTJ
トップでいることは、孤独でもある…。極めてレアで、かつ非常に有能な性格タイプ“建築家” (INTJ) の人たちは、このことをよく知っているでしょう。理性的で頭の回転が早く、自分の思考能力、さらに偽善や欺瞞を不思議なほどにも簡単に見透かす力を誇りを感じている人たちです。建築家の頭は常に動いていて、自分の周囲で起こっていること全部をひっきりなしに分析するので、自分のペースについてきてくれる人を見つけるのが大変だと感じることもあるでしょう。論理学者 INTP
持ち前の“ユニークな視野”と“活発な知力”に誇りを持っていて、宇宙のあらゆる謎について色々と考えざるにはいられない人たちです。歴史上、影響力のある多くの哲学者や科学者たちの中に論理学者がいるのも納得でしょう。この性格タイプの人たちはかなりまれなのですが、独創性と創作力を備えていることもあり、周りから注目を浴びるのも恐れません。仲介者 INFP
控えめ、または静かそうに見えるかもしれませんが、心の中は情熱であふれ、生き生きとしている人たちです。独創的かつ想像力豊かなので、色々な空想をしながら、さまざまな会話やストーリを作り上げることが好きなタイプでしょう。繊細な気質の持ち主として知られていて、音楽、芸術、自然、そして周りの人に対して、深く感情的に反応する人たちです。
以上ですが、私のことをよく知っている方なら、納得する内容なのではないでしょうか。
知己知彼 百戦不殆
このように深く自分を知ることが何の役に立つのかといえば、それは以下の格言に行き着きます。
この言葉を知らない人はいないでしょう。
自分を深く知るということは、自分の中の本質的な部分を認知するということ。そうすること自分と他者が違う存在であると認識できます。
意外に思うかもしれませんが、自分と他者を同一視している人は大変多い。特に親しい間柄や家族など情愛がある人は同一視している傾向は強い。なので自分の考えが世の中のすべてだと思いこんでしまう。自分が「普通」で「平均的」な人間だと思っている人は、間違いなく自己と他者の境界が曖昧になっています。
迷い、悩みとは、まず情報不足から始まります。特にライフイベントや自分のキャリアなどに関する悩みや迷いは、自己への無知が原因のことが多い。
曰く、自分が何ができるかわからない、自分なんてたいしたものでは無い…
他者と自己の違いを明確に意識できるほど、あなたは自分のことを知っていますか?自信とは自ら信じると書きます。信じるためには、まず知る、知ろうとすることが重要です。
自分と他者の境界が曖昧な上、自己も他者への理解も浅いからこそ、いつまでも迷いや悩みが尽きないのではないでしょうか。
と、なんかだ宗教チックなことを書いてしまいましたが、まぁ自分を知ることが世界を知る近道だと、私は自己を知る過程で考えるようになったのですね。自分を知ることで、分別を知れるようになります。自分の不得意や好き嫌いに納得できるようになります。自分のことをきちんと認めたうえで、できないことを知れば、チームで何かするときには極めて役立つのですね。
ということで相変わらずnoteが長くなりがちなプロ雑用ですが、今日はこんなところにしておきます。皆さんも良かったら自分を知るということにチャレンジしてみてください。様々な発見があると思いますよ。
それじゃ、また。
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