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『ゴジラ-1.0』を観る。

TOHOシネマズ新宿で『ゴジラ-1.0』を観る。

思えば本作の監督、山崎貴の「初ゴジラ」である『ALWAYS 続・三丁目の夕日』を観たのは16年も前、今はなき京都の東宝行楽だった。1962年、『キングコング対ゴジラ』の年にできた劇場は古びていたけれど、日本映画黄金時代の名残が感じられるいい小屋だった。

それから2014年のギャレス・エドワーズ監督による『GODZILLA』までは7年もあったのだ。その間、日本は民主党政権になり3.11があった。ギャレス版ゴジラがなければ『シン・ゴジラ』はなかったと思うが、『シン・ゴジラ』がなければ、その7年後の『ゴジラ-1.0』もなかっただろう。

『シン・ゴジラ』の庵野秀明は1960年生まれ。山崎貴は64年生まれなので、ついに全く同じ世代の人間がゴジラ映画を撮る時代になったのかと思ったが、本多猪四郎が第一作の『ゴジラ』を撮ったのは43歳、全然若かった。

予告編以外、予備知識は仕入れないようにしていたのだが、先日バンドのリハでメンバーのひとりが「『ゴジラ-1.0』を観たら、『シン・ゴジラ』がいかにオタクの作った映画なのかがわかるらしいですよ」と言っていたので、なるほどそうなのかと思ってはいた。

で、ここからはネタバレになるので、これから観ようと思っている人は観てから読んでいただきたい。

まずは世評に違わず、良かった。

今回は金をケチらず観ようと思ったのが大正解。とにかくでかいスクリーン&高音質のIMAXシアターにしたので、ゴジラが敗戦直後の銀座や東京近海で暴れまくる映像に伊福部昭の音楽(元音源はおそらくSF交響シンフォニーあたりだろう ※その後パンフレットを読み返してみたら新録されていることがわかった)がステレオで流れると、長年のゴジラファンはああ生きててよかったと思えるはずだ。

なんせ、タイトル通り、第一作より前の時代に現れたゴジラなので、レトロ感は半端ない。ランドマークとしては日劇があるくらい(東京駅もわずかに焼け残ってはいたようだが)だが、このあたりは『ALWAYS 三丁目の夕日』シリーズでの経験が生かされていると思う(当時の銀座の道路はアスファルトでなく石造りの鋪道で、占領下なのでもっとMPが街にいたはず、とか細かく突っ込むといろいろあるのだが)。まあそういう敗戦直後の焼け跡からようやく立ち直ろうとしている東京をさらに破壊しまくるというのは、マゾヒスティック的な快感がある(それだけに一般市民の恨み節のセリフひとつくらい入れてほしかったが、今は「大部屋」俳優がいないので無理なのだろうか)。

ビジュアルを続けると、都市破壊よりも今回は海での戦闘シーンが充実している。
そもそも昭和の時代にはCGなどなく、東宝は特撮のために作られた(これも今はなき)大プールで海上シーンを撮っていたので表現にも限界があり、ゴジラ映画や他の怪獣映画での大規模な洋上戦闘シーンはあまりない(海上自衛隊の装備がそれほどでもなかったということもあるだろう)。だが今回は山崎貴も戦争映画を何作か撮っているだけあって、武装解除で主砲が外された駆逐艦や民間の船も大活躍させており、ゴジラも着ぐるみに入る人間のことを考える必要がないフルCGなので、暴れるだけ暴れさせて素晴らしい。海の、特に波の表現はミニチュア(非CG)時代から現在まで難しいとされてきたが、今回はそれもよく表現されていると思う。

特撮についてはこれくらいにして、ストーリーの話。
よくゴジラ映画は人間ドラマが希薄と言われるのだが、自分はそうは思わない。
ゴジラ映画(他の怪獣・SF映画もだが)の中に人間ドラマが希薄な作品もある、ということだと思う。
たとえば第一作にしても人間ドラマはちゃんとあるし、昭和ゴジラシリーズでも『怪獣大戦争』あたりまで、平成ゴジラでも『vsビオランテ』『vsメカゴジラ』『vsデストロイア』、金子修介監督の『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』なんかにはあったと思う。

問題は何を指して「人間ドラマ」と言うか、だろう。

今回の『ゴジラ-1.0』は明確に「戦争」をテーマにしている。
特攻を拒否して、初めて遭遇したゴジラからも逃げて本土に帰ってきた男が、罪の意識を抱えながら生きていく。
ようやく幸福のようなものを手に入れかけたところに、戦争の亡霊であるゴジラが再び襲ってくる。
それは災悪であると同時に宿命でもある。
男はその宿命から逃げようとしていたが、大切な人間を失って、ようやくその宿命に立ち向かう。
その意味では、ドラマにしっかりとした骨格があり、それがこの作品の高評価につながっていると思う。

ただ微妙なのは、男が特攻から逃げた、ということの理由だ。
親に「生きて帰って」と言われていたから、特攻を拒んで帰ったのか。
それとも積極的に「生きたい」「死にたくない」という意志があったのか。
映画を観る限り、そこまで明確な意志はなかったと思う。
犬死にはごめんだ、と思っていたら、帰国後、夢で何度もうなされたり苦悩していないはずだ。
最初にゴジラと遭遇したときに攻撃できずに逃げたことも、そうだ。
つまりこの主人公は、「ヘタレ」なのである。

男尊女卑がまかり通っていた時代にもかかわらず、
同世代以下の女性(ヒロイン)に対して敬語を使い続ける男に、
観ていてずっと違和感があったのだが、
それはつまりヘタレであることの表現ではないのだろうか。

どんな時代でも、子どもでも大人でも、ヘタレはいる。
『ALWAYS 三丁目の夕日』シリーズの吉岡秀隆演じる茶川竜之介もヘタレだった。
そしてこれは山崎貴ではなく庵野秀明だが、エヴァンゲリオンの碇シンジもヘタレだった。
しかし、ヘタレはヘタレなりに開き直り、あるいは一念発起して、自らの運命を切り開いていく。
だから、そうしたセリフのひとつでもあればよかったのだが、
そこを曖昧にしているのが、本作の惜しいところだ。

まあ、他にもツッコミどころはいろいろあるが、
それでも面白い映画であることには変わりない。
何より監督のゴジラ愛あふれる姿勢がよく現れていて、
第一作へのストレートなオマージュも随所にある。
それと、いい映画は脇役がしっかりしていることだが、
その意味では、吉岡秀隆、青木崇高、代々木蔵之介、安藤サクラという助演陣を得たことは大きい。

先に観た知り合いが「昔の正月映画のような人情話」と感想を書いていたが、
人情話はその通りとしても、正月映画だったらもっと明るいんじゃないかと思う。
隣の席に座ったカップルの女のほうが静かなシーンでも構わずポップコーンをくちゃくちゃ食っていたので、
低い声で「うるせえな」とつぶやいたらようやくやめたが、
ポップコーンとコークで楽しく観るような映画ではないことは確かなので、
これから観に行こうと思ってる人は注意したほうがいい。
変なおっさんに絡まれる可能性があるからね(笑)

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