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心のあり方について問い直す5冊 -2022年9月読書録-

すっかりご無沙汰となっていた読書録を再開します。と息巻きながら、今週末は体調を崩して丸2日間寝込んでいて、投稿自体が遅くなりました。

この読書録は、単にその月に読んだ本を羅列するのではなく、ランダムに読んでいた本を有機的に繋げて見たり、無理やり関連性を探したりしながら最低5冊は紹介できれば…という試みです。私自身の思考の整理になることはもちろんですが、皆さんが普段読まないような本への道しるべとなると嬉しいです。

おそらくコメント欄を解放していると思いますので、今回紹介する本に着想を得て、「こんな本もありますよ」といったおススメがあれば、推薦いただけると私の励みにもなります。

では、前置きはそこそこに始めたいと思います。

1. 『ある男』 作:平野啓一郎

2022年11月に劇場公開される「ある男」の原作。

2018年に刊行されて何度か読み返している本作ですが、読むたびに発見のある奥行きを持った小説です。「ある男」とは、本作の主人公である城戸章良(きどあきら)のことを指していますが、なぜタイトルがこのようにシンプルなのか?というところから、本作を振り返りたいと思います。

背景にあるのは、作者の平野啓一郎氏が提唱している「分人主義」です。

「分人主義」は、個人主義(individualism)の対義語として着想を得た概念です。西洋思想の中では長らく個人や個性というものは、「in(否定)-dividual(分けられる)」つまり分けられない確固としたものとして捉えられているが、本当にそうであるか?というところが思考の始まりの原点です。

すなわち、一人の個人であっても、対人関係によって多様な在り方がある。しかも、それらは決して首尾一貫した在り方ではなく、時には矛盾さえ孕んでいるのではないだろうか、という疑問が考え方の基底にあるということです。

例えば、私の例でとっても、両親との関係では子ども、妹との関係では兄、職場では上司や同僚、部下ですし、小学校~大学院までの各段階で出会った友人たちとは同窓生・同級生です。これらすべての人々にとって、私が全く同じような人格の持ち主かと言えば、そんなことはなく、彼ら/彼女らとの間で築いてきた関係の中で、異なる自分の側面が表出されます。

その中には、私にとってありたい自分もいれば、気に入らない自分もいます。同窓会に行って居心地の悪さを感じる時、それは当時の関係性の中で表出された「イタイ自分」が復元されて、苦い記憶が喚起されるから…と言えば言い過ぎかも知れませんが、つまりは対人関係の数だけ様々なグラデーションを持った自分を私たちは保有している、と言えるのかもしれません。そのような自己の在り方を平野氏は「分人主義(dividualism)」として言語化し、作品世界の中で表現をし続けています。

話を『ある男』に戻すと、主人公の城戸にも様々な側面があります。親としての自分、夫としての自分、弁護士としての自分、在日3世としての自分、・・・

しかし、もしそのすべての在り方に疲れてしまったら?

もし、自分がこれまでの多様な在り方とも全く違う、別人として人生を送ることができたとしたら?

そんな発想に、城戸はある依頼人からの奇妙な案件に関わることで至るようになります。城戸は作中で何度も現状が、悪くも無いがそれほど上手くも行っていないという、中途半端な状態にわだかまりを感じています。そして、そのわだかまりは現時点で読み手である私たちが感じていなかったとしても、ゆくゆくは直面することがありそうな、ありふれた問題であるようにも思われます。

城戸は作中にこんなセリフを吐いています。この部分が、おそらく本作のタイトルが『ある男』となった理由なのだと気が付き、少し深く本作を読めたようなきがしました。

「誰か物好きな人が、僕を主人公にした小説でも書いてくれるとし、そのタイトルが、『ある在日三世の物語』だなんていうのは最悪ですよ。『ある弁護士の物語』でも嫌ですけど。」 (p.148)

過去に2度読んだときは、この一節にほとんど注目しなかったものの、ゆっくり味わうように読むと見えてくるのが熟達の作家が書いた小説なのでしょうね。

これからも継続して関係を維持していきたいと思う人との関係を、どのように再構築していくか。一度壊れてしまった関係を、再構築するにはまず何から手を付けたらよいのか。そんなことを考えながら、何層にも奥行きのある本作を噛み締めるように読み進めていきました。

2. 3.『生き方』・『京セラフィロソフィー』 著:稲盛和夫

京セラの稲盛和夫氏の訃報が伝えられた今年の8月。アメーバ経営や京セラフィロソフィーなど、彼の経営哲学はよく耳にしていたものの、実際にどのようなものかを知らずにいました。

追悼フェアということで稲盛氏の著作が書店に平積みされていることもあり、これを機に数冊まとめて読みました。

『生き方』や『京セラフィロソフィー』を読み進めながら、稲盛氏の生き方・考え方は真っすぐでありながら厳しい生き方であることが、ヒシヒシと伝わってきました。いくつか『生き方』の中から抜粋します。

つまり自分に起こるすべてのことは、自分の心が作り出しているという根本の原理が、様々な蹉跌や曲折を経て、ようやく人生を貫く真理として得心でき、腹の底に収まってきたのです。
さまざまに苦を味わい、悲しみ、悩み、もがきながらも、生きる喜び、楽しみも知り、幸福を手に入れる。そのようなもろもろの様相をくり返しながら、一度きりしかない現生の生を懸命に生きていく。
 その体験、その過程を磨き砂としておのれの心を磨き上げ、人生を生き始めたころの魂よりも、その幕を閉じようとするときの魂のありようをわずかなりとも高める―それができれば、それだけでわれわれの人生は十分に生きた価値があるというものです。
「善を為すもその益を見ざるは、草裡(そうり)の東瓜(とうか)のごとし」と明代の『菜根譚』にあります。善行をしても、その報いが現れないのは、草むらの中の瓜のようなものである。それは人の目には見えなくても、おのずと立派に成長しているものなのです。
 因果が応報するには時間がかかる。このことを心して、結果を焦らず、日頃から倦まず弛まず、地道に善行を積み重ねるよう努めることが大切なのです。

人として正しいことをビジネスに於いても、人間関係に於いても行っているか?人を出し抜こうという邪な気持ちはないか?利他の心に基づいた行いをしているか?

京都の小さな会社から世界に知られる会社にまで京セラを発展させた稲盛氏の考え方は、徹頭徹尾、人としての正しい在り方を唱えるものでした。奇を衒ったことは何一つ書かれていません。また、ワークライフバランスが叫ばれて久しい昨今からすれば、昭和的な香りを感じるような記述も散見されます。

ただ、そのことを以て稲盛氏の著作から何も学ばないのは勿体ないように思えました。苦しい状況にあるが何とか立て直そうとしている人には勇気を、報われずに人生を終えようとしている人には救済を、絶好調の人には戒めを与えてくれるような、そんな珠玉の言葉が並んでいるのが、『生き方』や『京セラフィロソフィー』なのだと思います。

『京セラフィロソフィー』は、『生き方』に加えて『働き方』や『心』といった他の著作の内容をAll in Oneしたようなものとなっています。

読み手の心境によっては、読み進めるのが苦しいのではないかとも思っています。とりわけ「今の自分の状況は、すべて自分の心が描いた通りになっている。」といった言い切りの部分は、よほど強い人でないと受け入れ難い発言だとも思われます。自分でそう願っていなくても、成り行きで行きついてしまうことも、世の中あるように思われるからです。

そういった意味では、取り扱い注意な著作であるとも思っています。すべてを取り入れるというよりは、稲盛氏はどのような考え方の持ち主であったのかという興味の目で本著を手に取ると、得られる示唆も多いでしょう。

4. 『愛とためらいの哲学』 著:岸見一郎

『嫌われる勇気』で有名となった岸見教授の著作。

本著は、アドラー哲学を日本に広く認知させた点で画期的な著作でしたが、この『愛とためらいの哲学』はアドラー哲学をベースにしながら、恋愛・結婚を中心に様々な「愛」について扱っています。

この『愛とためらいの哲学』と稲盛氏の著作には、共通するところがあります。それは、心の持ち方こそがまずあり、その上で自分の周囲の環境や状況が形成されていくのだというポジションの取り方をしている点です。

稲盛氏の著作では、自分の身に起こったあらゆることは、元を辿れば自分が望んだことである、あるいは望んだことしか現実には起こらない、という立場をとっています。

これと同じく、岸見氏の著作も過去の哲学者の金言を引きながら、恋愛・結婚を中心とするあらゆる人間関係にまつわる感情は、何か理由があってそのような感情になっているのではなく、そのような感情になりたいという思いが先に在って、都合よく理由付け(合理化)をしているのだ、という立場をとります。

具体的には、「つい感情を剝きだして怒ってしまった」ということがあった場合、一般的には誰しも魔がさすことがある、という風に捉えます。ところが岸見氏に言わせれば、そうではなくて怒ることは予め決めており、合理的に考えれば他にも手段があるにも関わらず、相手との関係で優位に立ちたいから、あるいは相手を下に見ている気持ちがあるからこそ、怒るという高圧的な手段を自ら選んでいるのだ、という風に解釈するのです。

それは他の感情や思考にも概ね当てはまるのだと岸見氏は論じていきます。つまり、向かい合っている相手を対等だとは思わず、自分の欲望を満たしたり、目的を果たすための手段として他者を見る時に、私たちは感情の発露の方法を誤ってしまうのであると。その結果、対人関係に修復不可能な亀裂が生じてしまうのであるが、それらはすべて心の在り方次第でいかようにも出来るということを論証していくのです。

そこから、フロムの『愛するということ(The Art of Loving)』の思想を下敷きに、「愛する」という行為のあるべき姿(理想)、そしてあるべき姿に近づくためにできることを著作の中で展開していきます。

本書で展開される「愛する」という行為は、次の特徴を持ちます。

・愛する者の生命と成長を積極的に気に掛けること
・愛する者に関して知らないことがあることに興味・関心を持ち続け、知らないことに喜びを感じること
・条件付きで好意を抱くのではなく、何の理由もなく対象を思い続けること

そして、フロムの次の定義を引用します。

「幼稚な愛は「愛されているから愛する」という原則に従う。未成熟な愛は「あなたが必要だから、あなたを愛する」と言い、成熟した愛は「あなたを愛しているから、あなたが必要だ」という。」

もっと言えば、成熟した愛を抱いている人は、「あなたを愛しているから、あなたが必要だ」とすら言わずに、愛する対象の傍らにいたり、ただ単にその人の幸福を願うのである。と論じています。

実際には、ここまでの規範を持った状態で常にパートナーやパートナー以外の相手と向き合うことは、未成熟な人格を持った多くの私たちにとっては難しいのかもしれません。だからこそ、あるべき姿として岸見氏はアドラーやフロムの哲学書を手引きに、理想の愛のカタチを様々な著作を通じて繰り返し論じているのだとさえ思いました。

この部分も稲盛氏の著作と共通するのですが、これらの著作を読んで気付かされたのは、理想像を描くことで、絶えず理想に近づくための努力ができる、ということです。そして、理想に近づくための絶え間ない努力の過程こそが尊いのです。

今月読んでいて最も耳の痛い文章の多い著作でした。

5. 『むかしむかしあるところのウェルビーイングがありました』 著:石川善樹 吉田尚記

最後は、昨今ブームになっているウェルビーイングの著作の中でも、軽く読めるものを紹介します。

タイトルから察するところだと思いますが、本書は日本昔ばなしを分析して、日本人にとってのウェルビーイングとは何かを探っていくような内容となっています。ウェルビーイングというと、似たカタカナ語でマインドフルネスなどが思い浮かぶと思いますが、このような欧米由来の概念では日本のウェルビーイングは捉え切れないのではないか?というのが、本書の仮説となっています。

昔話に詳しい人からすれば、反証がいくらでも出そうな気はしますが、着想の面白さがいくつも本書にはあります。例えば、日本昔ばなしの多くは、主人公が成長しないことが多いということ(おじいさんとおばあさん⇔少年・青年)。また、主人公の匿名性が高いということ(いくつかの例外はありますが固有名詞が少ない)。上昇志向の物語よりも、元の状態にゆくゆくは戻るような展開であること(傘地蔵では、一時的におじいさん・おばあさんは豊かになるが、しばらくすればまた元の通りの質素な生活に戻ることが予想される)。

このような特徴から、いわゆるジャンプマンガ的な「友情・勇気・成長」といった三拍子の延長線上ではなく、別の観点からウェルビーイングを志向していったらどうだろうか?という投げ掛けがなされています。

答えの無い問いではありますが、ウェルビーイングは外側に基準があるのではなく、あくまでも内側に基準があるということ。すなわち、それは自分の心の在り方そのものであること。というようにも思われ、今月読んだ主だった本との共通点が見出されたように思いました。

最後に

もっと紹介したい本があったのですが、今回はこのあたりで閉幕とします。久しぶりにまとまった時間を割いて読んだ本の棚卸しをしたのですが、読んだ当時の自分の心境を思い出し、いくつになっても平穏無事に暮らすことは難しいのだと改めて思わされた次第です。

そういった意味でも、いろんな本を読んで見聞を広め、自分を省みる時間を意図して作らないと無為な人生になってしまうのだと空恐ろしい気持ちにもなりました。

次回は、もう少し幅広いジャンルから選書したいと思います。

大学院での一番の学びは「立ち止まる勇気」。変化の多い世の中だからこそ、変わらぬものを見通せる透徹さを身に着けたいものです。気付きの多い記事が書けるよう頑張ります。