There is the color between generations all through the ages

ども久々の映画記事です。
今日はこんな記事からスタートです。

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/37808

米国でも「ミレニアム世代」という2000年付近に生まれて成長した人が社会に出てきていることにはスポットが当たっています。「フェイスブック」を作ったマーク・ザッカーバーグに焦点を当てた映画が作成されるほど、日本だけでなく世界的にも世代間の違いにはスポットが当たる時代です。

それだけこの2000年を軸に世界は変わっていることを意味していると思います。どうもニュースなどはネット媒体で得ることが中心となり、新聞に対する購買意欲が減っている。みたいなところで話が収束しがちですが、問題の本質としてはそこではないでしょう。

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そもそも、ニュースをネットに頼るとどんな問題が発生するのでしょうか。始めに考えられるのはジャーナリストの閲覧数やクリック率への依存です。

新聞社や出版関係の仕事だと広告収入が大きな収益のひとつになります。そのため、ネットで広告費用を稼ぐとなると閲覧数やクリック率が収入の基準となります。もし、ニュース展開がネット中心になるとジャーナリストは内容の真偽より「いかに見てもらうか」という方向に走ってしまいます。結果として、事実と異なる誇張表現や内容の信憑性が低くなる可能性が大きいです。

日本でも新聞社は広告収入に頼っています。映画でいえば「クライマーズ・ハイ」という新聞社における人間ドラマを見ればわかりやすいと思います。この映画のワンシーンでも広告欄を写真欄にしただけで社員同士が大激突。それほど新聞社にとって広告収入は大きなものです。また、バックにいる大きな組織との繋がりも問題になりますね。結局、ネットだろうと新聞社だろうと情報に対する信用度が死んでいる今、金を払ってまで新聞から情報を得ようとはしないんだと思います。

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情報が自分から発信できて、自分で得ることが簡易になった現代。これだけ時代が変わったのだから、新聞社やメディアに携わる企業・業界に変化が必要なのか必須だと思います。僕はこのサイトでも記事を書くとき、社会が成立するのであれば「公共」という絶対的にプライベートとの棲み分けが必要である意見は書き続けています。これと同じで、情報に対しても全体が共有すべきものは必要だと考えます。

僕が考えるのは、情報を探すことも大事ですが、それ以上に「編集」する力が求められていると思います。編集というと偏見があるかもしれませんので、「コンバート」とでも言い直したほうがいいかもしれません。要は「通訳・翻訳」です。

たとえば、ある学者が世界に多大な影響を与える論文を書いたとします。しかし、「高尚な論文」として世に出たとしても誰にも理解されずに終わると思います。結局はその論文が「どれほどすごいのか」というのを世間に広めるのがジャーナリストや編集者の仕事だと思います。また、世界的に広めるべき情報を精査するのも仕事の中に入るでしょう。

しかし、このコンバートがどうもうまくいっていない印象があります。日本では少し前「STAP細胞」の件が問題になりました。あの件でも、ただ「すごい細胞が出た」とか「開発者に迫る」といった情報ばかりが席巻し、肝心の中身ある情報は少なかった気がします。もっとちゃんとした情報開示があれば、あのときほどの騒ぎにはなっていなかったと思います。

情報は勝手に集まる時代なので、そこから「伝えるべき情報」を精査するのが難しい時代です。しかし、自分が生きている国や政策に関しては政策な情報が必要だと思うんです。でも、その情報に限って薄い気がする。何でも教えてもらったからといって何かできるわけではないですが、目まぐるしく変化する状況は、きちんとわかりやすくコンバートされた情報が欲しいです。ネットでそういった情報を探しても、割とちぐはぐしているのが僕の印象です。

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洋画の中に「しあわせの教室」というものがあります。トム・ハンクスとジュリア・ロバーツという2大スターが共演している映画です。

トム・ハンクスはスーパーの店員として売り上げに貢献していました。しかし、学歴がないという理由だけでクビになります。彼は学歴を手に入れるため大学の授業を受けることになります。その授業の教師であるジュリア・ロバーツや、自分より一回りも二回りも幼い学生たちとの交流を通して「世界」を知っていく物語です。

ジュリア・ロバーツは「スピーチ教室」の講師として登場するのですが、とても無気力。その理由としては授業に対する無関心もありますが、世代の違う人間との会話に辟易としている部分も見受けられます。

みなさんも自分とは違う世代の人と会話をしてて疲れることはないでしょうか? おそらく一度や二度は経験したことがあると思います。生きた時代が違うため価値観の相違が発生するのが原因のひとつだと思いますが、それ以上に「言葉の相違」があると思います。

私が聞いたことがある言葉に「YDK」というものがあります。これは「やればできる子」という略称として使われているようです。別段、この言葉に対して何か文句を言いたいのではなくて、おそらくですがあと2,3年もすれば使われない言葉なんだろうなぁと思うだけです。

この事実から思うことは、言葉の表現に対する価値観の逆転が発生しているなってことです。たとえば、言葉を表現したり新たなものを作ろうと思えば、その土台に基本が必ずあります。そのため、新たな表現や言葉はごく少数で、キレイな三角形のイメージができあがります。
しかし、現代ではまず表現があって、その後に解釈や意味が付随してきます。そのため、逆三角形となり共有すべき基本的な知識や情報が先細りの状態となります。

僕はそうした現状が「情報」への信頼低下や、公共性への関心低下につながっているような気がします。結局は同じような価値観だけを共有していればいいという状態を生み出しているように思います。

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別段、私としても完全な日本語とかきれいな日本語を使えていると思っているわけではありませんが。仕事柄気を付けたいとは思っています。言葉に気を付けていれば、自然と自分が立っている場所がわかり、袋小路に向かっているのか広がっているのかも、ある程度認識できると思うんです。

僕としては、言葉というのは相手と自分をつなぐものだと思っています。しかし、収束するものではないと考えています。言葉は広がりを見せるものだと信じたい私の勝手な願望ですが、今後私たちには避けて通れない問題であるのは確かだと思います。

おわり

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