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【夢小説 002】 夢壱位 「能楽堂鍼灸治療院(2)」

浅見 杳太郎ようたろう

 社を出るとすぐに、海沿いの県道に出た。

 ぼくは早くアパートに帰りたかったが、それよりも一刻も早く医者に見せなければならなかった。血が一向に止まらないのだ。事によると動脈をやられてしまったのかも知れない。

 バスを拾うにも、ここから県道を北に十五分ほど歩かなきゃならないし、運行も一時間半に一本という僅かな本数しかない。ましてや車だってほとんど通らない。タクシーなんて通る訳がない。何せこんな処では商売になりやしないのだから。

 時間を確認してみると、どうやらバスは先刻出たばかりのようだ。腕時計を見るために、少し傷口から左手を離しただけで、勢い良く血が流れる。

 ぼくは愈々暗澹いよいよあんたんとしてきた。

 東側に海を臨むこの県道は、道幅がとても狭く歩道もないため、車が来ないと解っていても、心理として車道の真ん中は避けて、西側に反り立つ岩肌の方にぴたりとくっ付いて歩いてしまう。

 海は陰鬱で波も荒い。まだ昼過ぎだと云うのに、空はもう薄暗くなってきている。

 出血多量のせいか、それとも本当に気温が下がってきたのか、体が冷えてきた。

 右腕の大部分は朱に染まって、押さえている左手も血の粘度でねちゃねちゃ不愉快だ。まだ固まらないところを見ると、血は溢れ続けているに違いない。

 恐らくぼくは、真っ蒼な顔色をしていることだろう。

 そんな風に朦朧もうろうとし半ば目を閉じて、下方だけを見詰めながら規則的に足を前後させていると、右耳に響く波の音が、何だか、にわかに近付いてきているような気がした。

 目線を上に移して周囲を見回して見ると、ぼくは何時の間にか浜辺を歩いていた。

 さっきまで県道を歩いていたはずだが、どうしたことだろう。

 自分の安っぽい革靴の機械的な反復運動をじっと見下ろしながら歩いていたはずなのに、どうして、舗装された混凝土コンクリートの道から、浜辺の砂道へと変わった時に、すぐにおかしいと感じなかったのか。

 ぼくは自分の迂闊うかつさに辟易へきえきした。これでは、益々ますます医者が遠のくばかりではないか。

 通勤で利用していたバス停はとうに過ぎてしまったのだろうか。

 それにしても行くも帰るも延々砂浜で、通って来たはずの道を眺めてみても、この海岸線が右にうねって、ほぼ垂直に切り立つ岩肌に吸い込まれるまで、砂の道は乾涸ひからびた蛇みたいにだらだらと長く長く続いている。

 火事場の何とやらか、まさか大量な血を流しながらでも、人間はこんなにも歩けるものだとは知らなかった。

 しかし、ここまで来てしまっては、バス停まで戻るか、このまま進むか悩みどころだ。バスには是非とも乗りたいが、前のバス停までは何時間かかることか。かといって、このまま進んだとしても、県道に復帰出来るとは限らない。

 ぼくは後三十分ももつまい。

 ならば、戻ろうとしても死ぬだけだ。ぼくは、来た道に点々と赤い染みが付いているのを見ながら、道に印を付けて来ても迷うときは迷うものなのだなと思った。パンは獣たちに食べられてしまうし、血は波に洗われるのだ。

 ぼくは早い話、遭難していた。

 ざざああんと淋しそうな声を上げながら、黒い波が足元近くまで遊びに来ている。

 ぼくは左手を傷口から離し、その波の上に血を落として、瞬間芸術に興じてみた。まるで、万華鏡のように、一瞬一瞬でぼくの血が様々な模様を描きながら、波の上で踊り狂う。

 ぼくは、この遊びで三分寿命を縮めた。

 足も草臥くたびれたので、重い靴を波にれてやって、裸足でこの砂道を歩くことにした。砂の感触が心地良い。夏のように、海の家でもあれば良いのだが。ぼくは、小さい頃、母と一緒に来た鎌倉の海を思い出していた。

 海は命を生むが、海辺は死を誘う。

 波打ち際は、実に様々な死で溢れている。ぼくは、何度も素足でくらげの屍骸を踏んだし、腐った貝を蹴っ飛ばした。

 波の届かない水溜りは、腐敗した海水で堪らない臭いがする。濁った水垢や屍骸に誘われて蝿が柱を成してたかっている。その中の何匹かは、ぼくの右腕により甘美な臭いを嗅ぎ取ったのか、いやらしい羽音を立てて腕にまとわりついてくる。

 ぼくの右腕はもう腐ったも同然なんだ。

 ぼくは辛抱強く、この歩きにくい千里もあろうかと思われる浜辺を歩き続けたが、もうそろそろ時間のようだ。

 そう思い、ゆっくりと腰を下ろし海を眺めていると、遥か南の方から砂塵さじんを上げて近付いて来るものがある。山吹色と紅緋べにひ色のツートンカラーのボンネットバスだった。ぼくは運転席の男を見上げながら云った。

「やあ助かった。どうかぼくを乗せて下さい。ご覧の通り死に掛けているんです。後生ですから、医者のある処までやって呉れませんか」

「遠慮はいらんです。お乗りなさい」

 落ち窪んだ眼窩がんかに黒目がちな運転手の老人は、目に穴が開いて、目玉を失くしたかのような怪異な印象を与えるが、ぼくは構わない。腰の曲がった頬冠ほおかむりの老人が運転してくれるボンネットバスに乗れるなんて、素敵なことではないか。

 昇降口を上って臙脂えんじ色のシートに座ろうとすると、そのしわだらけの老人は、青色のテープカッターに収まったセロファンテープをぼくに渡して云った。

「お前さん、これを血管の繋ぎ目に貼っておきなせえ。それっきりの傷なれば、大概のこと、これで良くなりましょう。二、三回廻して貼ったればすぐに元気になりましょう」

 ぼくは感激してこの老人の運転手に云った。

「全くなんて行き届いたサアビスなんだろう。おじいさん、あなたは商売人のかがみですね」

 老人は、ぼくのお礼に少し照れたようであった。

 ぼくは、老人に云われた通りにセロファンテープを三回廻して傷口を塞いだら、途端に体が楽になった心地がした。

 擦り切れたベロア素材のシートの温かさを背中に感じながら、ぼくはうっとりと海岸の風景を眺めた。空はすっかり暗くなってしまっていた。

 このボンネットバスの心地よい揺れと、うっすらと赤味を帯びた照明の中で、ぼくは安心しきって何時しか眠ってしまった。

 お前さん、終点なれば――。

 老人に肩を揺すられて、目を覚ましたぼくは、はっとして、

「終点まで来てしまったんですか? ぼくは医者のある処まで行きたかったのですよ」

 と、つい老人をただしてしまった。

「お前さん、安心おし。ここは終点なれど、医者もありますれば」

 ぼくはそれを聞いて安心して云った。

「そうですか、それは。おじいさん、どうも大変お世話になりました。これで、ぼくも医者にかかることが出来るというものです。全く、おじいさんは命の恩人です。お礼はこれ位で良いでしょうか」

 ぼくは、数枚の紙幣を取り出して、老人に渡そうと手を伸ばしたが、老人は枯れ枝のような細い手首を振って、

「いらんです、いらんです。手前勝手にやっておることなれば、金を頂く道理はありゃあしません」

 と云って、にいいっと乱杭歯らんぐいばを剥いて笑った。ぼくは大いに感謝して、バスが去ってからもしばらく手を振り続けた。

 ここは、人里離れた森厳しんげんな山地のようで、周囲を見回すと、目の前にある一軒のおおきな山荘の他、樹齢のいった木々が圧倒的な存在感で黒々と生い茂るばかりであった。

 ぼくは、とりあえず、この山荘の中に這入はいって医者を探すことにした。

 何と云っても、まだぼくの右腕は応急処置の段階なのだから。

 ぼくは、腐りかかって傾いた入り口の木戸をじ開けて、薄暗い山荘内に這入り、誰か人が居ないか声を出して呼んでみた。

「御免下さい、御免下さい。医者にかかりにきたのですが。ここに急患があります」

 ぼくの声は、虚しく響いた。

 所々に明滅する頼りない蛍光灯があるばかりで、この山荘内の広大な面積に較べて、いかにも光量が足りない。

 廃墟のようで、瓦礫が山積していたり、角材のまま放り出されていたり、そういった雑多な物が無秩序に床一面に散らばっている。

 ぼくは裸足なので、注意深く歩かないと、釘なんかを踏み込んでしまう恐れがある。そんなことになろうものなら、さらに治療費がかさむというものだ。

 それでも度々、錆びたトタン板なんかを油断して踏んでしまい、ベッコンと間の抜けた音を鳴らしては、我ながら驚いたりするのだった。

 壁際に近付くと、虫に喰われて穴だらけの引戸の木屑だとか、剥がれた壁の漆喰しっくいの粉だとかが、ぼくの足踏みでぶあっと舞ったりして、酷くほこりっぽい。目に染みるし、肺も痛くなる。

つづく。

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