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【夢小説 001】 夢壱位 「能楽堂鍼灸治療院(1)」

浅見 杳太郎ようたろう

 ぼくはまた叱られた。

 まさか学生を終えてから、こんなに叱られるとは思ってもいなかった。今日は、定物定位置の原則を破ったというかどで酷く叱られた。先輩のIさんが、主任のTさんに、ぼくの不手際を誇張して云い付けたようなのだ。そして、Tさんはぼくを辛辣しんらつに苛めた。

「使ったものは元にあった処に戻す。これは、小学校で何を措いても最初に習うことのはずじゃあないか。法則と云ってもいい。それが出来ないのは、社を軽んじている良い証左だ。根本的な倫理観の欠如だ。いや、もっと積極的に云って、問題行動だよ、これは。実に問題だなあ、君」

 ぼくは犬や子どもではない。問題行動とは随分酷いことを云う。そもそも、ぼくには失敗を犯した覚えがないのだ。

 ぼくは自分のデスクの事務椅子に浅く腰掛けながら、返すべき言葉を探していた。言葉よりも先に、スチール机の脚の部分でグラグラしている、緩みかけたねじを見つけた。巻き直そうと、指先でそのねじを弄くっていると、追い立てるように、Tさんの言葉が降ってきた。

「聞いているのかな、君。ぼくは、この件、とても問題だと思うんだがねえ」

 巻き直そうと思ったねじは、どうも反対側に巻いていたようで、ぼくの指先からあっけなく滑り落ちて、床とぶつかって乾いた音を立て、蚯蚓ミミズのように込み重なった電気コードの下へと転がって行ってしまった。

「君!」

 ぼくは、Tさんの鋭く迫る語気で、はっと顔を上げた。そうだ、ねじのことなどどうでもいいのだ。今、ぼくに必要なのは弁明だ。ぼくは立ち上がり、こたえた。

「しかし主任、ぼくはあすこの筆立てにあった鋏を使い、確かにその筆立てに戻したのですが」

 Tさんは、ほうと云いながら、ぼくの目を真っ直ぐに覗き込んできた。ぼくは息を整えて続けた。

「そうです、確かに戻したのです。それが証拠に御覧なさい、現に筆立ての中にはしっかりと鋏がささっているではありませんか。それも、次に使う人が怪我をしないようにと、細心に気を利かせて刃の方をちゃんと下にしてあるのです」

 そう云いながら、ぼくは、安っぽい白のプラスチックの筆立てを指差して、きっと視線を投げた。「ああ!」とつい声が出てしまった。ぼくが筆立てにさしたはずの、柄が緑色の事務用洋鋏ようばさみが、赤錆の浮いた糸きり鋏になっていたのだ。

「どうしたと云うのかね」

 長身のTさんが、ぼくを見下ろしながら小さく云った。ぼくは酷く狼狽ろうばいして言葉を失くしたが、その時、くつくつくつ・・・・・・と噛み殺したような、しかし聞こえよがしに響く笑い声が、ぼくの耳を突いてきた。

 振り向くと、Iさんがずんぐりした背中をぐにょりと折り畳んで座りながらせている。Iさんの机の上には、渋い紺のかすり模様の巻紙で作ったまずい紙細工と一緒に、くだんの柄が緑色の事務用洋鋏が置いてあった。

「全く悪質な冗談です。Iさんが今使っているではありませんか」

 ぼくは憤慨ふんがいして云った。

「I君が? うん、確かにI君は鋏を使っているね。してI君、それはこの筆立ての鋏かね?」

「いいえ、これは私物ですよ」

 Iさんは、野暮ったい眉毛と濃い剃りあとの青髯に不釣合いな、ぱちりとしたひとみに長い睫毛まつげを揺らして、さらりと云った。

「そうか、それでは屹度きっとそうだろうね」

 Tさんは、あっさりとIさんの言葉をれた。ぼくは、彼らはグルなのだと確信した。しかし、Iさんが使っているのは、確かに社の鋏に違いないのだ。ぼくは先刻さっき使ったから、緑の柄に目立った傷が一本入っていることを知っている。ぼくなら、それが社の鋏かどうかはすぐに区別がつく。いや、他の皆だって、簡単に区別くらいはつくはずなのだ。ぼくは、その旨をTさんに伝えてから、

「では、Iさん、その鋏を拝見」

 と云って、Iさんの机に近付こうとすると、Tさんが間に這入はいって押し止めてくるではないか。

「まあ、待ちたまえ。君の云わんとすることは大体解った。つまり、社の鋏の柄には傷が一本入っていると、君はそう云いたいのだね」

「そう云っています」

「では、一本ではなく二本入っていたら、それは社の鋏ではないということになるね」

「まあ、そうなります。でも、大きい傷ですからね。小さい傷まで勘定に入れられちゃ敵いませんよ。三本でも四本でも幾らにでもなってしまいますから」

「君は、いかにもぼくを莫迦ばかにしているね。ブジョクだ。そういう態度は高くつくよ」

 からんからんからん。使い切ったセロファンテープの芯を、年季の入った青色のテープカッターに装填したまま、我関せずえんとして人差し指でもてあそんでいる者が居る。

「結構です」

 と、ぼくは少し苛立ちながら云い捨て、Iさんの机まで歩き、鋏を検分してみた。また、「ああ!」と素っ頓狂な声が出てしまった。大きな傷が二本ついている!

「どうしたと云うのかね」

 長身のTさんは、ぼくを見下ろしながら、今度は強めの調子で云った。Iさんも、元々崩れ勝ちな相好をさらに崩して、ぼくをにやにや見上げている。ぼくは、憎々しげにIさんを睨んだ。すると、Iさんは手にカッターを持っているではないか! それも、良くその刃先を見てみるに、緑色のプラスチックの欠片が付いている。やはりIさんが新たに傷を付けたのだ。ぼくは皆に、

「御覧なさい、御覧なさい! Iさんの持っているカッターの刃先を。Iさんは自分が犯人だという証拠を隠すために、もう一本傷を足したのです。大胆なことです。だが、詰めが甘かったですね。ほら御覧なさい、これが動かぬ証拠ですよ!」

 ぼくがそう大見得を切ってIさんの手元のカッターを指差すと、Tさんは、

「はて、犯人とはまた物騒なことを云うね、君は。可笑おかしいじゃないか」

 とお茶を濁すばかりで、一向にカッターを見ようともしない。らちが開かないので、

「いいえ、これを見て貰えれば、Tさんにも納得頂けるはずです。Iさん、お手元の物をちょっと拝借」

 と、ぼくは、にたにた笑いを浮かべるIさんのカッターを奪おうとしたのだが、予期せぬ彼の発作的な抵抗に見舞われてしまった。駄々っ子のようにカッターを振り回すIさんは、真剣でちゃんばらに興じる子供のようで、ぼくは咄嗟に手を引いたのだが、間に合わず、右腕の浅指屈筋せんしくっきんの起始部辺りをばさりと切られてしまった。血管ごと切られたようで、たいへんな量の血が流れた。

「一体、どこにその証拠があると云うのかね」

 Tさんは、ぼくの淋漓りんりとしたたる血潮をまるで無視しながら訊いてきた。ぼくも、取り敢えずは冤罪を晴らさねばならないと思い、Iさんの傷害の件は後回しにして、ぱっかりと切断されてしまった血管を押さえながら、Tさんに応えた。

「ほら、カッターの刃先に付いている緑色のプラスチックの欠片ですよ。それこそが、Iさんがもう一本、鋏の柄に傷を入れた動かぬ証拠です」

 Tさんは、Iさんの握っているカッターを覗き込みながら、嘲笑を漏らし漏らし云った。

「I君のカッターの刃先は緑ではなく、くつくつくつ・・・・・・、赤色をしているようだが、諸君らは、くつくつ・・・・、あれが何色に見える?」

「赤色です!」

 Tさんの声に促されて、今まで対岸の火事として関心のなさそうに眺めていた連中までもが、訓練された兵士のように、声をりんと揃えて応えた。

「そういう問題ではないじゃありませんか! ぼくはIさんに腕を切られたのですよ。カッターに付いているのは、その血の色ですよ」

「それでは、君の血の色と云うのは何色かね?」

 とTさんは問うた。

「それは、勿論、赤色です」

「では、I君のカッターの刃先に付いている色は、赤色と云うことで良いじゃあないか。君が、緑色のものが付いているなんて云うから見てみたが、これは騙されたね。どうも、君は嘘つきのようだ。それとも、君の血の色は緑色かい」

 くつくつくつくつくつ・・・・・・・・・・……。

 ぼくは最早、負けたのだ。傷を押さえながら、社を後にしようとした時、主任の上役の次長が奥のデスクからひょっこり首を伸ばして話しかけてきた。ぼくは、次長に初めて話しかけられたような気がした。

「君、社員証と保険証を置いていきたまえ」

 ぼくは、傷を負わされた上に、社会人の身分まで剥奪されてしまった。

つづく。

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