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体制側になると自分の言動が束縛される

 体制側、と言っても、どこかの独裁国家のことだけではなく、政治政党や役所や会社のような組織であったり、サークルのような集まり、宗教団体など、およそ人の集まる組織のほとんどで、このことは、あてはまるように思います。

 どんな組織であっても、最終判断を下すトップがおり、そうした特定の個人が頂点でない場合も、集団指導体制のような、意思決定の中心的存在はあるはずです。そうした存在がなければ、組織はまとまりませんし、力も持たないし、メリットもないので、幽霊団体のようになってしまいます。

 国家の場合は、生まれ落ちた場所であれば、国ガチャのようなもので、その国に生まれたことの因縁和合の結果は、少なくとも今を生きる自分には選ぶ余地がなかったわけあり、これは、両親とか、最近話題となっている宗教2世のような話も、そこに連なるものだとは思います。

 それ以外の場合は、集団に属することのメリットを感じて、自ら入ることを選択するわけですが、外から見て素敵に思える集団も、中に入り、今度は自分が主体的に集団に関与するようになると、内部の人間関係のいざこざや、中心的人物の欠点のようなものが、見えてくるようになります。

 ただ、立場上、そのことを指摘すると、これまで築き上げてきた集団の中の人間関係や、趣味生き甲斐のキャリアが断ち切られることになるので、目をつむる行動をとるか、何らかの行動を起こして、自分の考える理想の集団を取り戻そうとすることになります。

 後者の場合は、相応にエネルギーを費やし、結果によっては、一層傷口が広がるため、大半の場合は、物事の良い面だけ見て何とかやり過ごし、耐えられなければ集団を離れる、ということになるのだと思います。

 一方で、宗教団体に属し、そこでリーダー的役割を担うようになった場合は、人生の最優先事項となり、生活の中心に位置づけられ、価値観の基軸も依存することになります。

 とはいえ、集団である以上、すべてに完璧の素晴らしい組織ということはなく、それを主張している宗教団体は、そう信じ込んで外部に喧伝しているだけであり、どんな組織でも、人間関係のいざこざがあり、トップが教導の面では立派でも、世俗的な面では素人判断であったり、さらに深刻な場合は、教義の理解を深める中で、矛盾とか疑問にぶち当たるということもあるでしょう。

 ただ、生活の中心にあるということは、時間も体力もお金も費やしてきているわけで、今さら抜けるということは、人間関係が失われるだけでなく、自身のこれまでの生き方を否定することになりかねません。
 これは自身の過去を黒歴史に塗り替える、おそろしい決断であり、長く活動してきている人ほど、自分の立ち位置を肯定する材料を集めて、何とか動揺させまいという方向に動くと思います。

 会社とか、役所の場合も、属している年数が長く、立場が上になり、体制側に組み込まれるほど、身動きが取れなくなります。宗教団体のように、人生の価値観をすべて依拠しているほどではありませんが、金の鎖がある分、集団の論理を否定することは、難しい面があるかもしれません。

 特に役所の場合、かかわる業務は社会の一部分であっても、公僕という仮面を被らされているので、公式の場では、口を塞がれ、言動の自由を奪われることになります。役所を離れても、何らかのかかわりを持ち続ける限り、半ば口を塞がれた状態で生きることになるのではないでしょうか。

 集団に属することは、自身を安心と安全のネットワークに組み込み、日々の生活の基盤になるものですが、深入りしすぎると、倒れたらもろとも、ということにもなりかねず、自分の言動や心の動きに対しても、目を背けながら生き続けることになります。
 
 このへん、体制の中心に至るまでは、なかなか気づかないものです。

 とはいえ、集団から離れて生活するには、相応の個としての生活力と、傭兵のような自分で武器と防具を揃える気概が必要になるわけで、コピー紙1枚すら、買わなければ手に入れることができなくなります。
 こうした、傭兵的な生き方も、最初から志向すると、慣れるのかもしれませんが、組織にあって多くの支給される立場から転向するのは、容易ではなく、言動の自由を得ることは、結果責任もすべて、自分が背負うことになり、これはこれで簡単ではないことですね。

 悩ましいところですが、集団に属しつつ、自分ならではの立ち位置を確立委、いずれは傭兵的な動きもできるようになり、言動の自由も部分的に手に入れていく、そんな生き方を志向したいと思います。

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