見出し画像

過去に生きる先輩

 昨日は出張の帰りに、ずいぶん昔にお世話になった先輩の職場に行きました。先輩の職場はインフラ部門のサポートセンターの所長なのですが、ちょうど着いた時には午後5時を回っており、目の前で門が閉じられようとしていました。「何かこちらに御用ですか。」とセンターのスタッフらしき年配の男性から声をかけられましたが、センターに用事があるわけでないので、「いえ、違います」と答えると、そのまま門は閉じられてしまいました。
 ほどなくして、先輩らしき人が建物から出てきて、先ほど閉じられた門を少し開けて、駅のある方向に歩いて行きました。20年近く会っていないのでだいぶ見た目は変わっていましたが、確かに先輩のようでした。
 そのまま駅についていき、駅のホームで電車を待ち、乗り込みました。車内で声をかけてみようと思いましたが。先輩は席に座るとそのまま目を瞑ってしまい、声をかけることができませんでした。乗り換えて、次の電車でも、同じように先輩は席に座ると目を瞑り、僕は結局、声をかけることができませんでした。
 先輩は20年前は、僕にとっては憧れの人でした。仕事はできるし、厳しさと優しさの使い分けができる、少し思い込みの強いところがあるけれど、それが仕事のパフォーマンスにつながっている面もありました。
 ただ、その後、別な部門で、訴訟対応を一人で担当され、その間に、心が疲れてしまい、行動が極端になり、ある種、堅気でないような雰囲気をまとうようになって、優秀な技術者として将来の幹部を嘱望されながら、そうした「扱いづらさ」から、ラインから外されていったようです。
 そうした話を聞いていたこともあり、また、実際にお会いしてみて、今はかつて持っていた鋭さはどこかで置き去り、ひっそりと残りの仕事人生を、生きているように思いました。僕はこの人にとって、過去の人でしょうし、僕にとっても、過去の人になってしまったのかもしれません。後半生への変化変容を求めて、出会いを希求し行動する一環で、お会いしようと思い立ったわけですが、今の僕が求めるものは、今の先輩は持っていない。ただ、先輩が職場を去る時には、過去のご恩に対するお礼は、きちんとしなければと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?