見出し画像

氷室空間

 僕は、後半生を見据えて、経済的自由の拡大、リスク分散のための地理的自由の獲得を目指し、今年に入り、変化変容に向けた行動を本格化させて、自分の文脈の外にある人たちとの組手を行ってきました。
 ただ、僕のそうした、文脈の外にある人たちのつながりというのは、今は流入する川のない小さな池のようなもので、散発的に組手を実現して後は、途切れてしまいました。
 そうすると、将来の自分の向かうべき姿を目指していた心も、燃料を補充できず、現実社会での生活と役割という、自分の人生の中心部に居座る存在に心が奪われ、変わろうとする心が萎えて、現実に即した生き方を志向し、現状を前提とする最適解を求めるようになってしまいます。
 これはこれで、生きる術として間違ってはないのでしょうが、現実に寄り過ぎると、未来のリスクが現状の延長線上にあって不都合な存在である場合、未来のリスクを過小評価して、自分の現状を肯定し、満足しようという気持ちになってきます。
 おそらく、現実の社会で家庭と組織に一日の大半を縛られていると、再び変化変容を目指して行動しよう、今、行き詰っているなら、何とか次の一手に向けて、行動だけは起こしていこう、という気持ちは、春の訪れにより溶けゆく雪のように、消え去ってしまうに違いありません。
 そこは、こうした場所でリアル自分から離れた別な「僕」が、吠え続けることで、現実の前に溶けやすい、変化変容を志向する心を、何とか守っているいえるかもしれません。
 未来志向の雪を現実から離れた、この氷室空間に保蔵し、僕の中にある変化変容の心の灯を守っていきたいと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?