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人それぞれの努力を認める

 人の努力が成果に結びつくまでには、往々にして時間がかかります。
 また、他人の努力が成果に結びついても、自分の基準からすると大したことないと、表面的には褒めても、「この程度か」という思いが内面で渦巻いてしまいます。自分との利害が遠ければ、生暖かく見守る余裕もあるのですが、戦場で切り結んでいるような状況で、こちらは4人も倒しているのに、1人を倒すのに必死になっているような様子を見ると、イライラして露骨に表に出てしまうこともあります。
 自分の子どもの努力なんかも、そういうところありますね。特に子どもの学習の努力は認めたくても、親としては成果を強く求める心がどうしても出てきますし、現実的に子供の努力は、自分との比較では質量ともに足らないと感じます。
 ただ、過去からの成長軸で捉えれば、その伸びは大きいはずで、また、本人にとっては、子どもとしては経験も視野も十分でない中、関心領域を広げている最中でもあり、そうした関心領域への深掘りの先に、学習意欲の泉が湧き出る可能性もあり、意欲の泉もないのに親が水を注入しても、長続きするはずがありません。
 また、知識とその応用の紐付けもまだまだできていないので、努力の成果が表れにくい、そういう段階にもあると思います。もちろん、紐付けに苦労する段階を乗り越え、学習意欲の泉を掘り当てており、人生の次のステップに間に合う、そういうのは理想なんですが、そうすべて都合がよくはいかないわけで、そこは根気よく、紐付けとか意欲の泉が見いだせることを手伝う、作物を欲するあまり、やせた土地を酷使するのではなく、まずは土地の涵養からはじめる、いつまでも待てない面はあるでしょうが、それでも気長に待つというスタンスは、常に持っていた方が良いように思います。
 これは、僕自身にも言えますね。どうしても無理をさせてしまうところがあり、自分の思い描く回復軌道のようなものに、自分の心と体を無理にのせようとする。時にはそうした場面もないと、社会的に責任ある役割が果たせないところもありますが、ゴールのテープが見えているわけではなく、目的地もまだ見通せない状況にある中では、ペース配分も大事で、しかもそのペースは以前と同じものを自分に求めてはいけない、ここも良く言い聞かせないと、危ういところです。

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