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かつて「のび太君」だった私からの復讐 新刊『世界一流エンジニアの思考法』に込めた思い

 私は牛尾剛と申します。米国でマイクロソフトのクラウドを開発するソフトウェアエンジニアをしています。私は過去にははてなで、今は note でブログを書いていますが、幸いなことに沢山の方々に読んでいただけることが多く、文藝春秋の山本さんから提案されてこの度本を出版させていただくことになりました。新著はブログの文章に大幅加筆をしてビジネス書として一から構成したものですが、背景にある思いをお伝えしたいと思います。今回は私がなぜこのようなブログ、そして書籍を書いているのかをブログに書いてみたいと思います。

 実は自分にとってはブログや書籍を書いている理由はもしかすると自分の「復讐」かもしれません。とは言えこの「復讐」は日本で働くことがもっと楽しく、もっと幸せで、そしてプロダクティブになるようなポジティブな「復讐」です。

「のび太くん」みたいだった私

 私は子供の頃から、運動も、勉強も何もかもできなくて自分を「のび太君みたいだなぁ」と思っていました。しかも、努力だけはするのですが、それが一向に実りません。例えば私は中高と六年間バスケ部に所属していました。1日も練習を休まず、毎日校庭10週したり誰よりも早く来てシューティング練習したりして、努力してたのですが、レギュラーどころか6年間で「一秒」も試合に出ることができませんでした。大体何をやらせてもこんな感じで努力はするので、それだけに、自分の自尊心などボロボロでした。大体何やっても人三倍ぐらいやってやっと人並みぐらいになれる、、、誇張ではなく本当になんでなんだろう?と思っていました。後に自分が30歳ぐらいの時に病院にいって自分はADHDだという事がわかりました。自分自身の性能があまりよくないのはそれは自分として受け入れるしかないようです。

 人生で初めて「成功」したのはおそらく大学受験です。私の成績では私が行った大学に行くことは夢のまた夢な感じでしたが、和田秀樹さんの「受験は要領」という本を読んで衝撃を受けて、そのメソッドを「そのまま」実行したら、予備校も行かず、浪人はしましたが自分にとっては絶対に届かないと思っていた志望校に合格することができました。その時に「自分がどんなダメでポンコツでも、「やり方」を工夫したらうまくいくかもしれない」と思ったのです。その後も私自身の「性能」はダメダメなままですが、「メソッド」を学ぶことが自分を助けてくれました。

「アジャイル」との出会い

 大学を卒業して、大手SIer に就職しました。プログラマになりたかったのですが営業に配属されて昼は営業、夜はUnixの勉強みたいなことをしていたところ、私の当時の上司の吉田さんという人が私をSEにしてくれました。しかし、私自身の性能は相変わらず最悪なので、やはりダメダメでした。おおざっぱな性格なので向いていません。
 当時はちょうど オブジェクト指向の Java という言語が広がってきた時だったので、「オブジェクト指向」が良くわからなかったので、教育を受けることにしました。そこで私は衝撃を受けました。

 講師は相当に怪しい感じで、藤野さんという人だったのですが、ロッテンマイヤーさんのようなチェーンのついた片眼だけの眼鏡で、明らかに普通の人ではない空気を醸し出しています。

 その講義の内容は、自分たちがやっている開発のスタイルと全く違うものでした。そして、講義の最後に最新の開発手法 eXtreme Programming というものが紹介されていました。それは、今の開発でデファクトとなったといっても良いアジャイル開発の一つです。
 あまりにも自分たちがやってる開発と講義の内容が違った事、そして、何もできない自分が武器が欲しかった事から一生懸命 eXtreme Programming を勉強しました。勉強すればするほど、どう考えても会社がやっている開発が時代遅れで、どう考えてもこちらの方がソフトウェア開発に向いていると思いました。海外の書籍を調べれば調べるほど、自分の会社がやっているウォータフォールという方法は誰も推薦していないことがわかりました。
 自分はなんだかお客様をだましているような気がして、「ちゃんとした方法でソフトウェア開発をして、お客さんにもっと喜んでもらいたい」と思うようになりました。

 当時一生懸命その考え方を広めようとして、コミュニティで講演したり、日経コンピュータに載るような事例を作ったりして頑張ったのですが、「牛尾よ、アジャイルって、あれ宗教やぞ」とか言われていたことを思い出します。本に書いているようなことは理想論で現場は違うのだということを頻繁に言われていたことを記憶しています。

 幸い私の職場の人はとても良い人ばかりで、当時の上司の龍野さんは言ってくれました「牛尾よ、お前のやってることは押し売りや。そうやなくて、みんなもやってほしかったら、みんながやりたくなるようにせなあかんねやで」と教えてくれました。彼はその後も私の活動を後押ししてくれました。

 だから、私もそうなるように考えてきました。当時2001年ぐらいでした。今からもう20年も前の事です。その後は、そのアジャイルのコンサルタントとして日本のソフトウェア開発がもっと良くなることだけを考えて導入のお手伝いをしていました。しかし、それはとても大変なことでした。

 最初の会社でもあんなに上司の皆さんが応援してくれて、アジャイル開発で社長賞をもらったにもかかわらず、私はその仕事を継続できませんでした。私がとってきた仕事でなければ、アジャイルの仕事なんてなかったですし、他の人にアジャイルをやりたいなと思ってもらうことも本当に大変でした。みんな口々に言いました。「アジャイルなど大規模では無理」「ミッションクリティカルでは無理」「大企業だと通用しない」「うちは特殊」みんな自分でやったことも無いのに。
 コンサルタントになってからも、自分が支援させてもらったプロジェクトはアジャイルでうまくプロジェクトが回るようになったのに、周りは反対する人ばっかりで、キーマンがいなくなると、一瞬で古いやり方に戻ったり、ものすごく成果を上げている先進的なキーマンが政治的としか思えない力で違う部署に移動になって、違う人になって古いやり方戻る…みんなどんだけ変化きらいやねん…と思いました。
 頑張っても、うまくいってもホントなかなか変わらないんだなぁと悲しい気持ちになったのも1回や2回ではありません。
 だから、当時ご支援したところで、今でもゴリゴリにアジャイルをされているところを見ると本当にうれしく思います。

 自分は超絶不器用で、コンサルのように「人にやってもらう」仕事だけがうまくいくことに途中で気づきました。でも本当は自分はプログラマにあこがれていました。アジャイルの支援をしているときもいつもイケているプログラマに会うたびに「カッケー!」と思っていました。

マイクロソフトとの出会い

 そんな状況が何年も続いて、たまたま趣味で英語を勉強していたので、それを使いたいのと、長年「やり方」を勉強してきたので、もっと自分も「技術力」を磨いて「本物のプログラマ」になりたいと思い出しました。そんな時に自分の友人のみーさんが「牛尾くんってマイクロソフトが向いてるんちゃう」と言ってくれたので、Unix 育ちでまるでマイクロソフトに興味が無かった自分が、マイクロソフトを受けることにして、幸いなことに合格することができました。

 合格したのはエヴァンジェリストという職種で、人前で技術のプレゼンやデモをする仕事です。自分のアジャイルや DevOps のコンサルというバックグラウンドを生かしながら、技術を学ぶ事が出来るので当時の自分としては最適でした。コンサルからいきなりプログラマになるのはハードルが高すぎます。私は海外経験とかまるでなく、独学で英語を勉強したおっさんですが、Report to corp という日本に居るけどチームは海外チームという感じのチームだったので、私以外に日本人は居ないというインターナショナルチームでした。

日米の文化ギャップ

 何年も日本の企業、そして自分の会社で働いてきたのに、マイクロソフトのインターナショナルチームに入ってからは衝撃の連続でした。「いままで何十年も働いてきて思っていた常識っていったい何だったのか?」体験して非常に驚いたことはたくさんありましたが、自分的に「ああああああ」と思った事の一つに、「日米」の文化のギャップということがありました。

 私が当時「現場とは違うのだよ」と言われていた書籍に書いている開発の進め方やテクニックが普通に使われています。逆に日本でよく見た古い方法は誰もやっていません。
 誰も文句言わず、反対せず、常識のようです。なぜそんなことが起こっているかというと、「日米」の文化が違うので、同じ言葉で説明しても、考え方やコンテキストが違うので、同じように伝わらないということに気づきました。

 ソフトウェアの本はアメリカから来ることが多いですが、著者の人は当然「アメリカのコンテキストで、アメリカのものの見方」で書いているし、日本人のものの見方や文化なんか知らないので、そんなことはわかりもしないでしょう。だから、本を手に取った私たちは「オリジナルとは違うものを見ている」ということになります。

 しかし、アメリカの開発現場で実際にエンジニアとして開発を体験すると、「こういう背景があるからあの本はこう書いてあるのか」と思う事ばかりです。つまり、「日本人だとできないことなんて何もない」とわかりました。ただ、その「違い」を理解するのが「本来の意味を理解する」ことのギャップを埋めるのだと知りました。

 事実日本人がこちらに来ると、みんなこちらの仕事の進め方や生産性の考え方に普通になじんで普通にできるようになります。
 それから何年か経って、今はアメリカに移住して、シアトルでマイクロソフトのクラウドを作るエンジニアをしています。英語というスーパーハンデーがもちろんあるのですが、それでも、それでも私は今のの職場で働いていてものすごく幸せです。世界のお客さんに胸をはって「ちゃんとやってます」と言えます。

 今のチームで夢の「プログラマ」として仕事をしだしてしばらくして一つのことに気が付いて胸がいっぱいになりました。

 私が日本で20年以上どんなに頑張ってもめちゃくちゃ難しかった本に書いてあった「普通の」事が普通に行われています。20年前に自分が夢見た風景です。誰もが当たり前に無理なく、プロフェッショナルで効率的なことをやっている。しかもそれは進化しています。これこそが自分が20年以上も日本で見たかった風景です。

 プログラマが尊重されていて楽しく開発していて、少人数で凄いソフトウェアを開発して、運用して、マネジャやプロダクトマネージャが、自分が「幸せであるか」を気にしてくれるような最高の職場。そして、世界一流と断言できるめっちゃ優秀なエンジニアやマネージャから生で学べるとかほんま自分はラッキーでしかありません。

 だから、私は自分がラッキーであることをかみしめながら、「おすそ分け」をすることにしたのです。私の力でも何物でもありませんが、アメリカに来てこういうことに気づいて、そういうことをシェアする人が増えれば、ソフトウエア業界だけではなくて、日本の企業がもっと楽しく、効率的に働ける場所になると思うのです。

復讐のゴール

 だから、この本は私の「復讐」です。20年前にみんな絵空事やと言われたことよりもっと進んだことを今体験しているぞ!

 みんな大規模やったら無理とか言ってたけど、時価総額世界2位の企業で世界中の人が使ってるクッソ大規模のクラウド開発やで。どや、もうなんも言い訳できへんやろ!

 しかも、私はそこに、自分の夢だった「プログラマ」としてそこに立っています。日本ですら通用しなかったダメダメの自分が。何回も「お前は向いてない」と言われたプログラマとして。

 普通プログラマは自分が「できる」ことが要求されます。これは自分の人生で最も難しいチャレンジでした。自分自身の性能は最低な自分が、自分含めて、多くの人に「向いてない」と言われた自分が世界一流と断言できるエンジニアと一緒に働けています。

 自分は自尊心が低く、なんの才能もなく、人生の大半を人生をコントロールできてない、何をやってもうまくいかない感覚とともに歩んできました。
 そんな自分が思ってもいなかった、めっちゃハイレベルな環境のアメリカで「自分もできるようになったかも」という感覚を得ることができました。
 これは50年以上の人生で一番欲しかったものです。そんな不可能を可能にしてくれたのが、彼らから積み重ねて学んだ「思考法」でした。人生何が幸いするかわかりません。

 このような自分の「復讐」の達成を可能としてくれたものが、本書にまとめた「世界一流エンジニアの思考法」です。

 これは「思考法」なので「IT業界」に限定された話ではありません。ですからどの業界の方にもエンジョイしていただけるように、エンジニアではない文藝春秋の山本さんが「ビジネス書」として一緒に作り上げてくれました。

 私にとっての「復讐」は多くの人にとってはどうでもいいでしょう!そんなことより、私は多くの人が自分を救ってくれた彼らから学んだ「思考法」で何かを得て、得をしてもらって、そういう小さな積み重ねがかさなって、いつか日本が「働くには最高の国だ」と言われるようになって欲しいです。今はまだ無理に見えるかもしれません。でも、それが私の今の「復讐」のゴールです。

 そんな自分の「現場」から学んだ、米国から来た書籍では説明されない「日米間の考えの違い」を説明しつつ、さらに毎日一緒に働いて死ぬほど勉強になったガチの「世界一流のエンジニア」から学んだ「考え方」を濃縮しました。書籍化にあたっては、ブログで書いてきたことを日々の仕事ですぐ使える実践知となるよう、深掘りしています。私より1000倍国語力がある編集の山本さんや校正の皆様がめっちゃ読みやすくしてくれたこの本が少しでも多くの人に届きますように。

 そして、皆さんがもっと幸せになってくれますように。

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